見えなくなっていくもの、見えてきたもの
「お疲れ様でございました」
消滅ドアから出てきた綺紗の手を取って、了悟が迎えます。装置から綺紗が完全に降り立つと、「失礼します」と了悟はひざをついて、汗の光る綺紗の額に、ほんわかした蒸しタオルをあててくれます。だいたいの世話はシスターがやってくれるのですが、了悟は綺紗専属の世話係ということで、入場を許可してもらい、彼もあらゆる手を尽くして綺紗を満たそうとしてくれました。
「のどはかわいていらっしゃいませんか?」
額の汗をぬぐい終わると、脇に持っていたお盆にタオルを乗せて下げて、気づかってくれます。
「ええ、今は大丈夫。でも、なんだかヘンな汗かいちゃったわね」
綺紗は苦々しく打ち明けました。額の汗を拭いてくれたのはありがたいですが、今回はどうもそれだけでは足りません。了悟はそのへんのことを敏感に読み取ってくれたようで、
「それでは湯殿へご案内いたしましょう」
と、提案してくれました。
「時間はいいの?」
「はい、スケジュール上に、三十分確保しております」
「ふーん、それじゃあ、お願い……」
「かしこまりました。それでは、こちらへどうぞ」
了悟は進行方向に、指先をまっすぐそろえた手をさしのべます。綺紗が歩きはじめると自分は後から付いていきながら、ポケットから携帯電話を取り出し、白い手袋をした手で器用にタップすると、
「綺紗羅様がそちらにご移動です。全部で三十分ほどのご滞在ですので、そのように準備をお願いします」
となにやら連絡を入れていました。
「ケータイで連絡取りあうのね」その白手袋、スマートフォン対応?
「便利ですからね。綺紗羅様がご到着の際には、ご入浴の準備は整っていますよ」
スマートフォンをすっと胸ポケットにすべらせ、にっこりうなずく了悟は、もうすっかり仕事に慣れた調子です。
「入浴までは、世話しないんでしょうね」
「担当が変わりますのでご安心を。私をお望みとあらば別ですが」
「望んでないわよバカ」
「これは失礼しました」
丁寧すぎる言葉づかいと、まだまだ見慣れないほほえみで言われると、冗談のつもりなのか本気なのか、綺紗のほうは本気で迷ってしまいますが……。
「ふー。さっぱりした」
メイドに体を洗われることにはだいぶ慣れた綺紗が、湯殿から上がった後、広い洗面所にてバスローブ姿で体を冷ましながら大鏡の前に座り、髪を乾かしてもらっている時でした。
「お疲れ様でございます」
すっと、三色の牛乳ビンを差し出されました。鏡には、黒のお盆に牛乳ビンを三本のせてかがむ了悟の姿が映っています。
「そろそろお飲み物が必要だと思いまして」
「ありがと」
どれにいたしましょう? と聞いてくれるので、綺紗は右はじのフルーツ牛乳を指さしました。了悟は少しほほえむと、ふたを開けて――その時、指を遊ばせるようにすべらせて、持っていた何かをそっと隠しました。
(あ、ストローだわ。今、隠したの)
了悟は、キンキンに冷えたビンを手渡します。そこにはストローなどささっておりません。ちょうどドライヤーも一区切りついたのか、くしに持ちかえる準備をしていてメイドは綺紗のそばから手を離しています。
……やるなら今です。
綺紗は片手で牛乳ビンを握って受け取ると、上を向いてあおるようにし、ぐびぐびとぐびぐびと勢いよくおなかに流しこみます。
一気飲みです。
「ぷはーっ! あー、おいしいわ!」
綺紗は、どん、と了悟の手の上の盆に、空になったビンを戻しました。乾いた体に、甘く健やかな牛乳とさわやかなフルーツの味がしみわたっていきます。最高!
やっぱりお風呂上りはこうでなくちゃね!
了悟まで気分よさそうに、綺紗がフルーツ牛乳を飲み干すさまを見守っていました。
ですが。
「了悟」
「あ……右子さん」
了悟の背後に迫りくるようにして、いつのまにか右子が立っていました。ふだんは人形のように表情を変えない彼女が、脅すようにあごをあげて、上から見下ろすようにして了悟をにらみます。
「今、あなたは私直属の部下のはずでしょう。私のことは右子様とお呼びなさい」
「し……失礼いたしました右子様」
これには了悟もたじたじです。
「さて、今ストローを渡し忘れましたね」
「あ……は、はい……」
えっ!?
もしかしてそのことで!?
了悟の手元のお盆にのせられた空になった牛乳ビンに、三人の注目が集まります。
「ゆ、右子、私はいいのよ……?」
了悟をにらみつけていた右子は、綺紗にそう言われると、さっとこちらに向き直り、そのときだけはいつもの無感情な顔に戻って「お優しいお言葉、ありがとうございます。しかしこれは私からの教育の問題ですので、どうぞそのまま……」と深く頭を下げ――そしてまた了悟をにらみつけながらじりじりと詰め寄ります。
「ここは城の中です。外の世界との区別をつけなさい」
「は、はい」
う。
綺紗は自分まで叱られている気分になります。
「あなたのせいで、綺紗羅様にはしたないまねをさせて!」
……もう「私はストローで飲むより一気飲みしたかった」とは言えません。
「あうう……右子……」
「ほら、姫様にお謝りなさい」
右子に指導され了悟は、素直に綺紗に向き直り、
「申し訳ございませんでした」
と深々と頭を下げました。
「あああ、そんな、だって、いや、その……私のほうこそ……」
完全に、了悟は綺紗のことを思ってストローを抜いてくれたのですが、綺紗のために、今度は自分が間違えたことにしてくれました。
「了悟にはペナルティを課しますわ。本日の研修は朝五時まで続けます」
えっ。罰!?
「右子! そんなことしたらリョーゴ倒れちゃうわよ」
しかし、了悟は臆することなく
「いえ、夕方の休憩時間を睡眠にあてればなんとか、倒れるという醜態まではさらさずに済むかと……。それに、研修をしてくださるのはありがたいですし……」
と、はかない笑みで返します。
私がフルーツ牛乳を一気飲みするには、こんなにも大きな代償が必要ってことなの!? ……っていうか、右子の研修ってすごそうだわ。かなりのスパルタなんだろうな……。
それからも、了悟の教育係である右子は後ろについて回り、了悟が粗相をすると、ここぞとばかりに指導が入りました。食事の際は特に大変で、
姫様が座られる際イスをひいたら、左側から入れること!
料理は左から出すこと! ドリンクは右側からです!
新しいナイフをお持ちしてから落ちているナイフを拾いなさい!
正直綺紗には、そんな細かいところを直されてもほとんどわからないような気がしましたが――
でも了悟もプレッシャーを感じて失敗するなんてことはなく、むしろ右子の言ったことをどんどん吸収して、どんどん完璧になっていきます。不満を見せたり、逃げることもせず、求められるレベルまで到達しようと真っ向から向き合って技術を習得していきます。一つ一つは細かくても、右子の指導にまちがったものはありませんでしたので、日を重ねるごとにどんどん完璧な給仕者らしい姿になっていきました。
左右に並ぶナイフやフォーク、スプーンは外側から使っていくのですが、綺紗の方がついうっかり手元にあったものを使うというミスをおかしても、
(あれ? まちがえたはずなのに、最後がぴったり合う……?)
間違えた分を綺紗に気付かせないうちにいつの間にか取りかえられていたり。
綺紗でもふとした時に了悟のレベルの高さに触れ、驚かされるのでした。
(はー。やっぱりリョーゴって、ホントはデキルやつで……努力家っていうか、まじめっていうか……授業サボってぐうたら寝てる不良なんかとは大ちがいだったのね。もう、なんで今までそんな姿、隠してたのよ……)
理由は明白です。真面目だから、真面目に不良を演じていた――。
「ってことよね……」
この城に来る前とはかけ離れた姿。一緒にいればいるほど、前の了悟を忘れていきます。リョーゴは誰かに今までの記憶を書き換えられてしまったのではないかしら? と心配になるほど、どこにも、前の面影はありません。
(了悟ってこんなに背高かったっけ? そっか。背筋をしゃんと伸ばしてるからこんなに高く感じるんだ。なんか、スーツも似合うんだなあ……ヘンな感じ)
そろそろ、認めなくてはならないようです。今までの了悟は、“巧妙に作られた不良キャラクター”だったのだ、と。
どうやら、書き換えなくてはならないのは、綺紗の記憶のほうらしいのでした。