二話 教えてください
女の子を覆うような形で、ゼリー状の物体がまとわり付いている。僕はその物体に見覚えこそ無いものの、思い当たるフシがあった。
「スライム?」
ファンタジーを題材にしたゲームや小説などで広く登場する。その手の物に触れているなら、必ずや目にする機会があると言っても過言ではない。
その手のゲームでは、大概雑魚敵――圧倒的弱者――として扱われる。しかし、媒体が変わるとその扱いも一変する。
スライムは、小説などの媒体では物理攻撃の効かない難敵として扱われることが多い。その流動体の体にいくら刃や打撃攻撃を与えようとも、損傷することはないからだ。パターンの一つとして、スライムの体内には核となる器官が存在し、そこが弱点とされている場合もある。
しかし、目の前のスライムにはそれらしいものは見受けられなかった。暗いとはいえ、月明かりに照らされた状態だ。見落とすことはないだろう。
だとしたら、このスライムは正真正銘の難敵。物理攻撃しか手段を知らない僕にとっては完全に詰みだ。
目の前の女の子は助からない。余りの悲惨さに目を背けたくなるような状態では、僕がどんな手を使おうとも助けることは不可能だ。
僕はどうするべきだ?
逃げる?
どこに?
僕の知っている場所はこの周辺だけ。逃げる当てなんてない。そもそも、こいつは遅いのか? 僕が知ってる事だけが事実だとは限らないというのに。
もはやどうするべきか判断がつかない。意識が全てスライムに持って行かれ、周囲の状況を把握する余力さえ残されていない。
緊張の中、不意にスライムの『中』を見てしまう。
目が、あった。
「っは、あぁ!」
弾かれるように地面を蹴る。情けない声を上げ、恐怖に埋め尽くされながら、その場を離れようと脚を動かす。
僕の勝手な思い込みで、ありえないことだ。だが、あの『目』は如実に僕の未来を物語っていた。
しかし、動いたところで僕の未来は変わらなかった。
地面の倒木に足をとられ、文字通りその場に転がる。
「あっ、ぐ!」
背中を打ちつけ、喘ぐように声を出す。もはやパニックのせいで呼吸すらままならない。
スライムが音を立てながら近づいてくる。
「……あぁ」
月の輝きを背後にたたえながら、スライムは僕の左腕にのしかかった。
「ああああああああああああああああああああああああああ!!」
熱い熱い熱い熱い熱い。腕が灼熱の塊によって抑え込まれているようだ。今まで感じたことのない痛みが熱量という感覚になって僕の脳に信号を送る。
反射的に逃れようと腕を動かす。しかし、どれだけ力をこめようとも腕は微動だにしない。
……さようなら、人生。
未来を諦め、現世に別れを告げる。
脳裏にあの女の子の姿が浮かぶ。僕たちは仲間だな。
体の中から液状の何かがこぼれていく感覚がする。これが命を失う感覚というものだろうか。
死ぬ前に、未知の何かを得られた。それだけでもう満足だ。
そんな時、左方。詳細に言えば、左腕にのしかかっているスライムから、女の子の声がした。
「ケイ……ヤク……」
熱が一瞬で感じられなくなり、代わりにスライムの方から青白い光が浮かび上がる。
「あ――?」
目を向ければ、僕の左腕とスライム。その二つの真上に青白い魔法陣が浮かび上がっていた。
しかし、僕は意識が急速に薄れていくのを感じた。
あの感覚から解放された安堵感と緊張からの脱力が原因かな。
そんな他人事のような思考を最後に、僕は意識を失った。
―――――
目が覚めた僕は思わず飛び上がった。
周囲を確認すると、どうやら洞穴の中のようだ。
額から大粒の脂汗が流れ落ちる。どうやら、額どころか全身が同じような有様らしい。
「夢?」
洞穴の中を見回しても、スライムどころか僕と葉っぱ以外のなにも存在しない。
異世界に来たストレスから、酷い悪夢を見てしまったようだ。洒落にならないし、縁起でもない。
ましてや、貴重な水分を体から排出してしまって、悪夢よりも現実的な危機感が生まれる。
「勘弁してくれよ……」
異世界に来たことといい、ろくな目にあっていない。
月はやや降下気味のようで、時間としては深夜の三時かそこらだろう。そんな時間に目が覚めるとは、よっぽどうなされたらしい。どうせ目が覚めるのならば、あんな激痛を感じるよりも早く目が覚めてほしかった。
全身に感じる倦怠感に身を任せて木の葉のベッドに倒れこむ。かすかに残る草木の香りが、僕を現実に引き戻してくれた。
左腕を額に乗せ、軽く汗を拭う。その時、左腕の額に触れた部分がしびれるような感覚を訴える。僕は何事かと腕を動かし、月明かりをライト代わりに左腕の様子を確認した。
腕全体が、日焼けをしたかのように真っ赤になっている。
「え……?」
全身の汗がスッと温度を下げていく。夢じゃない?
僕が事実を受け止めきれずにいると、洞穴の外から何かがズルズルと這いずる音が聞こえる。もはや、あの音を間違えるはずもない。
僕の左腕を覆った時と同じように、スライムは月明かりを背後にこちらに向かっていた。
「ひぃ!」
甲高い音が口から漏れる。洞穴に逃げ道など無かった。
スライムは、おびえる僕を余所にこちらとの距離を詰める。そして、僕が手を伸ばせば触れられる距離までやってきて、蠕動するように大きく全身を震わせ、音を発する。
「ゴ……シュジン……サマ……」
「……は?」
今、このスライムは、『ご主人様』と言ったか?
聞き間違いかもしれない。だが、僕の耳はそう捉えた。馬鹿げたことだが、僕は聞き返さずにはいられなかった。
「今、なんて言った?」
「ゴシュ……ジンサマ……」
スライムは僕の質問に対し、なおも体を震わせることで返事を返す。そして、その返事は尚も変わらず『ご主人様』だった。
「なんなんだ一体……」
僕はさらなる倦怠感に肩を落とす。
目の前のスライムはそのゼリー状の体を時々震わせるくらいで、僕の疑問には答えてくれなかった。
大きなため息を吐く。僕はどうすればいい? 自分の状況を把握することだ。まずは、それを優先すべきだろう。
そういえば、スライムは先ほど僕の質問の意図を理解し、そして返事を返していた。つまり、このスライムには、僕の質問を理解するだけの頭脳が備わっている。先ほどの質問……というか、もはや投げやりな一言だったが、それに答えられなかったのは、そもそも答えを知らなかったか、答える気がなかったからだ。
というか、僕だって突然あんなことを言われれば返す言葉もない。
それを理解した僕は、目の前のスライムに向き直り、山ほどある疑問をぶつけることにした。
―――――
数時間にわたる問答の結果、僕は自身の置かれた状況を把握することが出来た。ただし、全てを把握出来た訳ではないのだが。とにかく、状況を整理するためにも手に入れた情報をまとめよう。
「まず、この世界は地球というものではない」
「ハ……イ」
この世界は地球ではない。まあ、スライムなんて物がいる時点で分かりきっていたことだ。
「この世界には魔法が存在する?」
「ハイ……」
そう、この世界には魔法が存在するのだ。科学とは違う技術。ロマン溢れる存在が、この世界には存在する。
「僕は魔法を使うことができる?」
「…………」
この無言の回答の答えは『分からない』だ。その理由は次に続く。
「なんで魔法を使えるか分からない?」
「マホウガ……ツカエルカ……ヒトニヨル……」
どうやら、この世界において魔法が使えるかどうかというのは、素質が関わってくるらしい。その為、このスライムではそれを判別できないようだ。
「君は魔法を使える?」
「ミズノマホウ……スコシダケ……」
どうやら、このスライムは水に関係する魔法を使う事が出来るようだ。
「左腕を治してくれたのは君?」
「ミズノ……マホウデ……スコシダケ……」
どうやら、左腕を治してくれたのはこのスライムのようだ。おかげで、ちょっとした日焼け程度まで傷は治っている。元はといえばスライムが原因なので、あまりお礼を言う気にはなれないけど。
「ここはどこ?」
「マショウノ……モリ……。マモノガイッパイ……ダカラ……マショウノ……モリ……」
どうやら、この場所は『魔性の森』と言うらしい。でもまあ、魔物が住んでいると言う意味なら『魔生の森』と呼ぶ方が正確だろう。
まあ、どちらにしろこの場所が危険なことに代わりはない。
「この近くに人は住んでる?」
「ココハ……マショウノモリノ……オクノホウ……。ムラ……イチニチイジョウ……カカル……」
この場所は魔生の森の奥地に当たるらしい。一日以上かかると言っているところから、ひたすら歩くのも悪くない手段だったようだ。まあ、生きていられるか分からなかったんだし、この手段で正しかったとも言える。
「君は僕に従っているの?」
「ゴシュジンサマ……ワタシト……ケイヤクシタ……。ワタシワ……ツカイマ……ゴシュジンサマ……アルジ……」
僕はいつの間にかスライムと『契約』したらしい。正直思い当たるフシがない。襲われているときは気が動転していたせいで、記憶自体があやふやだ。
「契約は僕が襲われているときにしたの?」
「スライムガ……ワタシト……ゴシュジンサマノ……ヒダリウデ……タベテルトキニ……」
「『スライムが私とご主人様の左腕食べてる時に』ね。……うん?」
このスライムの『ワタシ』と『スライム』は別物なのか? 今のこのスライムの語り口だと、それが正しい読み取り方になる。しかし、あの場にいた『ワタシ』と言うと……。
「君は、あの女の子なの?」
「ワタシワ……オンナノコ……。スライム……マザッタ……」
「待て待て待て。この世界ではスライムと人間が混ざることは普通なの?」
だとしたら、僕の知るスライム像は大きく変わる。確かに、人を補食することでその者の経験などを奪うというストーリーの物もあったが、その論理でいくとこの世界のスライムは非常に強敵であるということになる。
「スライムハ……スライム……。ニンゲンハ……ニンゲン……。ソレガ……フツウ……」
「じゃあ、なんで君はスライムと混ざったの?」
「ワタシワ……シニカケ……タマシイ……スコシダケ……。スライム……モトモト……タマシイ……スコシダケ……。ケイヤクノトキ……オナジバショニ……アッタ……。ダカラ……マザッタ……」
『私は死にかけで、魂が少ししか残っていなかった。スライムは元々魂が少しだけ。契約の時に同じ場所にあったから混ざった』。
「なるほどねぇ……」
僕は呆れながらその場に深く座り込む。そんなことが起こり得るのだろうか? そもそも魂というものが本当にあって、それが原因なのか。疑問をあげ始めたらキリがない。そういう学術的な話は、もっと落ち着いた場所でするべきだ。
「じゃあ、君はスライムなの? それとも人間なの?」
「ワタシハ……ワタシワ……」
彼女はスライムの体を大きく震わせて、黙り混んでしまった。僕は好奇心のあまりナイーブな問題に突っ込んでしまったらしい。
「それじゃあ、質問を変えよう。君の名前は?」
「ワタシノ……ナマエ……」
彼女はまたも体を震わせて黙り混んでしまった。今度は全体をさざ波のように動かしているところから、泣きそうになっているわけではないようだ。というか、スライムの体で泣きそうってなんだよ。
「ナマエ……オモイダセナイ……。オトウサンモ……オカアサンモ……オモイダセナイ……」
「…………」
記憶喪失。健忘症とも呼ばれるそれのようだ。しかし、彼女の場合は勝手が違う。ファンタジーに表現するなら、彼女は魂の大部分を失い、スライムの魂と混ざり会うことで一個体になったのだ。
それは……自我を喪失し、新たな生を得たとも考えられるのではないか?
「……よし、名前を考えよう」
「…………?」
徐々に体の震えが大きくなっていく彼女の様子を見て、僕は手を叩いてそう言った。
「流石に名前が分からない状態じゃあ今後の生活もやりづらい。だったら、思い出すまでの仮の名前を考えよう?」
「カリノ……ナマエ……」
仮の、とはいっても、本当の名前を思い出せなければ、それが彼女の名前となる。だとしたら、キチンとしたものを考えてあげたい。
僕は少しだけ思考を巡らせる。そして、自分の最悪なセンスに辟易しながらも、思い付いた名前を口に出す。
「シェリー・ガストって言うのはどうかな?」
「シェリー……」
彼女は体をプルプルと震わせる。しかし、その揺れは今までの悩みや悲しみの揺れとは、少し違って見える。
「ワタシハ……シェリー。シェリー・ガスト」
「……うん。それじゃあ、よろしくね。シェリー」
彼女の――シェリーのおかげで、最悪だった異世界生活が、少しだけましになったかもしれない。
嬉しそうに体を震わせ、柔軟な体を僕に押し付けてくるシェリーの様子を見て、僕はそう思った。