九話 始まりの始まり
魔王。魔物の王。村長さんは、話を聞いているとは言っていたが、そんな程度ではない。もう目の前までやって来ていた。
病的と思えるほど白い肌に、血のように真っ赤な瞳。モデルのような細さとは違い、男を誘うように蠱惑的な体は、真っ黒なドレスに包まれている。
銀の髪は一本一本が月の光を受けて煌めいている。
見た目だけ見れば、絶世の美女であることは間違いなかった。
しかし、この圧倒的な重圧。僕のようなものでも分かるほどの、濃密な死の気配。暴力的なまでの魔力の感覚。それが漏れ出ている。
それこそが、彼女が魔王であると、本能が僕に訴える要因だった。
「……魔王」
やっとのことで声をひねり出すが、一言呟くのが精一杯だった。
「その通り。そこのスライムや、今は逃げ惑っておるウサギ共のようなものの頂点に立つものじゃ」
「なん、で……」
「おいおい、そんなに怯えるでない。妾は貴様らを害しに来たわけではないというのに」
彼女は困ったような、面倒くさそうな表情を浮かべる。しかし、それは無理な話だ。たかがスライムと人間一人程度、彼女がその気にならなくとも一瞬で消し飛ぶ。それだけの確信があった。
「……ふぅむ? 妾とて話が早く進んだ方がよいと思い、魔力は押さえておるのじゃがな」
彼女は値踏みするように僕を見つめる。それだけで、僕の膝は限界を訴えていた。
時間にすればほんの二、三秒だっただろう。しかし、暴力的な力を向けられていた僕にとっては、一時間以上の時を過ごしているように感じた。
「まあ、よい。あやつらが言っていたことも、あながち間違いではないようじゃ。それに、そこの娘……」
今度はシェリーの方に視線が向けられる。シェリーはその力に耐えられず、スライムの姿に戻っていた。
「混ざりもの、か」
魔王の目がほんの少しだけ細められる。その瞳は、面白いおもちゃを見つけたように、どこか楽しげに見える。
「くははははは! 良い、実に愉快じゃ。気に入った!」
魔王は高らかに笑う。その動作で森はざわめき、辺りの草木が身を避ける。
そして魔王は恐怖の眼差しを向ける僕に近寄り、妖しい光を目に宿らせる。
「まあ、そう緊張するでない。すぐに終わる」
彼女がそう言うと、漏れ出ていた魔力が消えるように鳴りを潜める。
そして彼女は僕の唇に唇を重ね合わせた。
「むぐっ!?」
僕が突然の出来事に身を固めていると、彼女の軟らかい舌が僕の口を割って入り込んでくる。一瞬の出来事だったが、僕は唇どころか口内まで弄ばれた。
魔王は満足げに笑うと、口元から垂れた唾液を舌でぬぐう。
「女のような感触じゃのう……男前とは言いがたいが、なかなかどうして悪くない。それに、質の方も完璧じゃのう」
彼女は真剣そうな顔でそう呟く。しかし、僕としてはやっとのことで重圧から解放されたのだ。それどころではない。
僕は安堵のあまり膝をついた。緊張していたから体を支えてられていたが、とっくに限界だったのだろう。
魔王はそんな僕をちらりと見やり、地面についている手を持ち上げて顔を見るように向ける。
「契約じゃ」
彼女がそう言うと、いつの日か見た青白い魔法陣が姿を表す。そして、魔法陣はそのまま浮き上がり、僕と魔王を通過して消えていった。
何がなんだか分からず混乱している僕に、魔王は声をかける。
「いつか我を従わせに来い。なぁに、お主はそこの娘と同じように魔物を従わせれば良い」
彼女はそう言うと、僕の目の前に一冊の本を落とす。
「知人からお主に渡すように頼まれていたものじゃ。好きにしろとの伝言を受けている」
魔王の知人? 僕にそんな知り合いはいない。しかし、そんなことが些末に思えるほど、魔王が伝えた言葉は重大だ。
「僕が、君を従えに……?」
「うむ。ちなみに、契約は交わされた。逃れることはできんぞ」
目眩がしそうだった。意味が分からない。どうして魔王はそんなことをするのだろうか。
「詳細は本の中に。これも伝言じゃ。あやつらめ、妾をうまく使い走りにしおって」
魔王を使い走りにするなど、誰がそんな馬鹿なことを考えるのだろうか。いや、言うまでもなくこの本の届け主なんだろう。
「それと、妾からの置き土産じゃ。これからの事に役立つじゃろう」
彼女はそう言うと近くの木をつかみ、魔力を流し始める。木はバキバキと音をたてながら萎んでいき、徐々に人の形をとっていく。
「これくらいでよかろう」
魔王が手を離したときには、その足元に一人の女の子が寝転がっていた。魔王は満足げに笑うと、僕の方に向き直る。
「ほれ、契約をせい。そこの娘と同じく主従契約を結べば良い」
「いや、あの……」
魔王はそう言うが、僕は契約の方法を知らない。いつの間にか契約を結ばれるばかりで、自発的に契約と言う魔法を使ったことなど一度もないのだ。
「発言をよろしいでしょうか」
僕が答えに困っていると、人間の形態を取り戻したシェリーが片膝をつき、魔王に声をかける。
「構わぬ。……が、膝をつくのをやめい。仕方の無いこととはいえ、主君以外の前で膝をつくことなど許されぬ」
「……感謝いたします」
シェリーは膝をつくのをやめ、両足で立ちながら魔王に相対する。先程のような重圧が感じられないため、さほど辛いことではないだろうが、それでも相手が魔王であるという恐怖は残る。
「主人が交わした契約は死の間際に行った一度きり、それも、偶発的な物だと思われます。私も元は人間であったため、奴隷契約以外の契約は失伝して久しく……」
「ああ、どちらも知らなんだか。よい、では妾が直々に教えてやろう」
魔王はシェリーの説明に納得した表情を見せると、今までとは違い悪戯っ子のような表情を見せる。
なんか、以外と表情豊かなんだな。
そんなことを考えられるほどには余裕が出てきた。
魔王は僕の腕をつかみ、無理矢理立たせる。そして、僕の指をくわえて皮膚を噛んだ。
「痛っ!」
「男なら我慢せい。契約のためには、まずは体液の交換を必要とする。ただし、主従契約の場合はその限りではない。主足る人物が体液を与えさえすればよい」
魔王は淡々と説明を続けながら、指から血が出ていることを確認する。
僕は魔王に手を添えられながら、目の前の少女の口内に指を突っ込む。温かくて柔らかくて触っていて心地いい。あと、どことなくエロい。
「いつまで突っ込んでおるつもりじゃ。さっさと抜け」
「え、あっはい」
僕は急いで指を抜く。シェリーの僕を見る視線がどことなく冷たい。
「終わったのなら、後は相手が生命活動に必要とする魔力の一割程度を与えてやれば、契約は終了する。ああ、常時与える必要はないぞ、最初だけじゃ」
僕は魔王の指示を聞き、自分の中にある魔力を引きずり出す。流動的でつかみ所の無い物だが、シェリーのおかげで感覚はつかめている。ヘラで水を押し出すように、力強く、ゆっくりと動かすのだ。
「ほぅ……」
魔王から感嘆の声が漏れる。何かしてしまったのだろうか。しかし、時既に遅い。僕の魔力はずるずると引き出され、目の前の少女に流れ込んでいる。
必要とする量はそれほど多くないのか、すぐに供給は止まった。シェリーの頃よりも少し少ない量で良かったようだ。
僕の様子を見ていた魔王がシェリーに話しかける。
「こやつの魔力の総量はどれ程じゃ?」
しかし、シェリーは表情を暗くして首を振る。
「分かりません。一度調べたのですが……」
「なに?」
魔王の表情があからさまに曇る。そんなはずはないと、表情は物語っている。
「お主、仮にもスライムじゃろう。総量を受け止めてみれば確認できよう」
「その、量が多すぎまして、時間と場所を考慮するとあまりにも膨大で……」
「……ふむ、なるほど。よい」
魔王は回答に納得したのか、質問をやめる。その表情は楽しげだった。
僕が魔力の受け渡しを終えると、先程と同じように青白い魔法陣が現れる。それは僕と女の子の周囲を囲い、空中に溶けるように消えていく。
「さて、これで終わりじゃ。あとはお主らの好きにせよ」
彼女はそう言うと魔力をみなぎらせる。契約とは違う形の魔法陣が彼女の足元に現れ、彼女は大空へと飛び去っていった。
「……なんだったんだよ全く」
「無駄に疲れた気がします」
すやすやと眠りについている少女をよそに、僕とシェリーは安堵のためいきをついた。




