第4話:それは秘密、と兎は言った。
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狼は肉に飢えておりました。
ミリアの作る料理は大変美味しいものでしたが、当然のことのように肉が入らないものばかりでありました。
いくら人間族の形をとろうと、味覚の好みは変わらないのです。
人間族も雑食ですから、そこらにいる野ネズミや鳥を食べても不自然ではないはず、です。
「肉料理が食い、たい」
出逢ってから1ヶ月ほど経って、ルドルフは躊躇いながらミリアに言いました。
内心では、なんで俺がこんなに躊躇わなきゃならないんだ、と納得いかない部分はありましたが。
ミリアはルドルフが初めて望みを口にしたことを少々驚きをもって見つめました。
ミリアが先回りをしてこれが欲しい?と聞くことはあっても、これまで一度もルドルフから主体的な希望を聞いたことがなかったのです。
「肉料理……そうよね。あなたは人間族だものね」
ミリアもさすがに種族にそれぞれ好む食があることを知っていました。
実際にミリアも肉を食べようとしたときがありました。結果、どんなに肉から美味しそうな匂いがしても、身体が受け付けないことも経験済みなのでした。
けれどルドルフの初めての望みなのです。
一緒に住むのに食の問題は大切なことです。
どうにか叶えたい、と思いました。
しかし作るのはいいとしても、肝心の材料がありません。ミリアは自分で狩りなどしたことがないのです。
空に見える鳥やたまに隠れ家の近くを通る野ネズミなどを見かけることはありましたが、それを食べたことはありませんでした。
そのことを伝えれば、どこかホッとしたような様子のルドルフがあっさりと言いました。
「問題ない。自分で獲ってくる」
そう言ってさっと外へ出て行くのでした。
その背中を見送りながら、ミリアは「もう身体は治ったのね」という言葉を呑み込んておりました。
言ってしまえば、ルドルフは自分の身体がとっくのとうに回復していることに気づくでしょう。
気づいてしまえば、ルドルフはここにいる必要がなくなってしまいます。
そうなればこの奇妙な共同生活が終わるような気がしたのであります。
ミリアはこの時自分がいかに卑怯か、いかに計算高いかを知って、密かにため息を吐きました。
そんな自分に嫌気が差しても、言ってひとりぽっちになるくらいなら自分からはルドルフに言わないことも、わかっておりました。
……彼女には秘密がありました。
正確には“あるのものの秘密を知っている”ということを秘密にしておりました。
そしてそれも、自分からはルドルフには言わないことを同時に再確認しておりました。
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ルドルフはこの頃、奇妙な衝動と闘っておりました。
いえ、実は前々からこの衝動はあったのですが、肉料理を食べればそれも治まるだろうと考えていたので少々厄介でありました。
その衝動はふとした時にやって来ます。
今だってそうです。
ミリアがこちらに背を向けて毛繕いをしております。毛繕いと言っても獣人の毛は耳としっぽだけですので、獣たちとはその範囲も異なります。
ミリアはまず長い耳の真っ白な毛をとかしてから、最後にまんまるでふわっとしたしっぽを丹念にブラッシングします。
その姿をぼんやりと眺めていただけだったのに、気がつけばミリアのうなじに片手が上がりかけました。
「そういえば、今日のお昼に湖の方で虹が見えたの!」
絶妙なタイミングでミリアが振り向き、なぜか慌ててその手をおろしました。
「ふーん……」
焦っていたことを知られたくなくて不機嫌で無愛想な返事しかできません。
ミリアはそれにぷんすか怒りました。どうやら反応の薄さが不満なようです。
「もーっ!もっと驚いてよ!虹よ!虹!」
「……すごいなー」
棒読みでありました。
それにますますミリアがつっかかるものですから、延々とくだらない口論がいつも通りに始まります。
そのことに、ルドルフは胸を撫で下ろしたのでありました。
……本当に何気ない、きっかけすらもよく分からない日常の合間に、ルドルフの手はミリアへと伸びていくのでした。
最初うちは、きっと肉を食べていないからだと思いました。
『狩り』と称した惨殺や捕獲をすることはあっても、狼族でもよほどのことがない限り人を食べたりは致しません。
“被捕食者”とはあくまで『狩られる弱者』を表しているのであります。
けれど、食べられないわけではないのだから思うままに食べてしまえば、いや、ミリアの血を見てしまえば満足するのではないか、と思ったこともありました。
食べたらミリアは己の一部になる、と考えた時に身震いするほどの昏い高揚と奇妙な安心感が一瞬沸き上がりました。
けれど良い考えに思えたそれすらも、『狩り』をした後の動かないミリアを思い描くと、途端に身体の芯からぞっとしてルドルフ自身が長い時間そこから動けなくなるのでした。
衝動は日に日に強さも回数も増してゆくのでした。
気がつけば手を伸ばす回数は増え、同じだけそれを押し止めては、その衝動を自覚するのでありました。
思い返してみれば、ミリアがルドルフを支えなくなってからその衝動は酷くなったような気がするのでありました。
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狼が隠れ家の庭にしゃがみこみ、ちょいちょいと指を動かして兎を呼んでおりました。
兎は好奇心と警戒を秤にかけ、少しだけ好奇心が重たいのかじりじりとそちらへ近寄っておりました。
いつの日かも同じように、ミリアはルドルフに手招きされてなんの疑いもなく側に寄りました。
するとルドルフは反対側の握っていた手をぱっと開いて、ミリアにチコの実を渡したのであります。
それを見て、ミリアの目は輝きました。
チコの実は胡桃と同じ大きさで、兎族に好まれる木の実でありました。
ミリアも例に漏れずチコの実は大好きなのです。
その時は初めてルドルフからもらったプレゼントをとても喜び、彼に笑顔で感謝をしたのでありました。
ルドルフは眩しそうにその笑顔を見つめておりました。
その日から3日後、ルドルフはまた同じようにミリアを呼びました。
ミリアはやはりなんの疑いもなくちょこちょこと駆けてゆきます。
ルドルフがまたその握り込んだ掌を開くと―――ピョンッと飛び出したのは小さな青い蛙なのでした。
普段であればミリアとて小さな蛙は嫌いでありません。
しかし、まったく予期せぬ蛙の登場にミリアは驚いて悲鳴をあげながら飛び退いてしまいました。
それをルドルフはさも愉快そうにククッと笑いながら見ておりました。
その日、ミリアがお肉の在庫がたんとあるにも関わらず、野菜尽くしの夕飯を作ったのは仕方のないことでありましょう。
こうしたプレゼントとイタズラをルドルフは巧みに混ぜ合わせながらミリアに贈るようになりました。
くだらないはずのその行事が、今のルドルフにとってはとても楽しいのでした。
困ることといえば、騙された時には真っ赤になりながらぷりぷり怒るミリアの表情が自分でも不可解なほど笑えてしまうことと、喜んだときに見せる綻んだ笑顔に動悸が激しくなることぐらいでありました。
ちなみに今日は、野菜尽くしの夕飯になりそうでした。
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今日も今日とて、ルドルフはミリアを指先で呼び寄せます。
ミリアはすぐにでも飛び退けるように中腰のまま少しずつ近寄りました。
昨日はイタズラでした。バッタがピョンッと飛び出してやはりまた驚かされました。
一昨日もイタズラでした。チクチクの実を洋服につけられて取るのに難儀いたしました。
そういえば3日も同じものが続いたことはないはずです。
それを思うと僅かに余裕が生まれます。
しかもだいたいイタズラを仕込む時は周りが汚れるのを見越して、ルドルフは外でミリアを呼び寄せます。
今、二人がいるのはいつの間にかルドルフの部屋となっている、布団が敷かれた場所なのです。
きっと今回は贈り物に違いない。
ちょびっと期待も生まれました。
ルドルフのプレゼントはチコの実やドングリなどの食べ物だけでなく、綺麗な石や葉っぱ、珍しい羽根などなのです。
それを想像してミリアは分かりやすくワクワクとルドルフの掌を見つめます。
ルドルフはそんなミリアの様子にニヤリとして、ぱっと大きな手を広げました。
「あれっ?」
ミリアは小さく声をあげました。
無理もありません。何もその掌には乗っていなかったのです。
「今日も引っ掛かったな」
得意気にこちらを見るルドルフの目は笑っておりました。
ミリアはしょんぼりと肩を落としました。今回はイタズラでもなかったので怒るに怒れなかったのです。
また贈り物だと期待していたため、ちょびっとだけみじめでした。
しゅんと下を向くしかできませんでした。
怒るでも笑うでもない、そのいつもと違う様子にルドルフは焦りました。
耳の先から項垂れたミリアにかける言葉を探しますが、どうすれば笑ってくれるのか分かりませんでした。
贈り物があれば良かったのですが、今日はこれといったものが見つからなかったので、手持ちにありません。
何もできないのが息苦しく、なにやらズキリと心に痛いのです。
その頼りない姿に胸の底がじりじりと焼けつくような感覚がしました。
そして、いつもの衝動がまたルドルフを襲ったのでありました。
今回のソレは止める間もないほど突発的で、ぐわっと目覚めた本能のようなものでした。
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気付けば身体が勝手に動いておりました。
ぐいっと腕の中にその小さな身体を引き寄せると、胸の奥のじりじりとしたものは消え、代わりにじわりじわりと甘い痺れがルドルフの身体中を満たしました。
……なんだか、今まで考えていたことがどうでも良くなってゆくようでした。
ふわふわと柔らかな耳と髪の毛があるミリアの頭に顔を埋めたい衝動のまま、ルドルフはつむじに唇を寄せるのでありました。
甘く優しい香りが胸一杯に広がります。
一方、ミリアは初めびっくりして硬直しておりました。
しかしなにもされないことを知ると、ルドルフの突然の行動を疑問に思いつつもじっとすることに決めました。
――――『こういう時』は抵抗してはダメだよ。
いつかの声が甦りそうになりましたが、慌てて打ち消しました。
暖かみと思いやりがその腕に込められているように思えましたから、まだ『その時』ではないはずです。
こうして抱き抱えられているのが心地よいからじっとしているのであって、『その時』を覚悟してのことではないのだ、となんとか自分を落ち着かせました。
しばらくそのままでいると、ルドルフは物足りなくなってゆきました。
身体中がミリアの感覚を取り合うように、触れたいという純粋な想いが自分でも無視できぬほどでした。
慰めようとしていたことすら忘れて、あとからあとから、新たな熱が生まれてくるのでした。
そうして、とうとうその熱にルドルフは耐えきれなくなりました。
己でも何をしたいのかなど意識する間もなく、身体が動くのに任せてミリアをそっと後ろへ押しやりました。
なんの抵抗もなく少女の身体は後ろの布団の上へと倒れ込みます。
そのことに気を良くしたルドルフは、細い両手首をミリアの顔の横で縫い止め、投げ出された足には自分の重さを少し預けて動かないようにしました。
殺意などなくとも、これからしようとすることからミリアは逃げ出しそうな気がしたからです。
長いこと抱擁されていたミリアはあまりの安心感と温かさにうとうととしていたため、押し倒されているという状況が上手く飲み込めず、驚いてされるがままになっておりました。
しかし、ルドルフの満足げに笑う口元と、熱と飢えをはらんだ瞳を間近に見て、やっと一つの考えに思い至りました。
やはり、そうでなければ良い、と思っていた『その時』が来たのです。
何かが終わる予感とともに、口からは自然と言葉がこぼれておりました。
「私を食べるの?―――狼さん」
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ルドルフは今聞いた言葉が信じられませんでした。
言うまでもなく狼さんとは狼族を示すものなのです。
空耳かと思いました。そうであって欲しいととっさに願っておりました。
けれど見下ろす先にある、常日頃の子どもっぽさや、無邪気さなどどこかに置き忘れてしまったようなミリアの顔が、それが聞き間違えでないことを教えてくれるのでした。
その表情は諦めたような、悲しいような、困り笑いのような、何とも言い難い複雑なものでありました。
ミリアは2つのことを知っておりました。
1つは『食べられる時』は抵抗をしてはいけないこと。
動けば動くほど苦しみは増すのです。
“被捕食者”の間でよく伝えられるその教えを、ミリアは祖母から聞いておりました。
もう1つは、彼が狼族であることを秘密にしている、ということ。
彼の秘密を知っていることを、秘密にしておりました。
最期まで言わないだろうと思っていたことを言ったのは、最後くらいはルドルフに狼族として遠慮しなくてもいい、と伝えたかったからでした。
先程まで感じていた熱はとうに引き、代わりに四肢から冷えていくような感覚に囚われます。
胃袋に鉛を詰め込まれたようなズンとした衝撃が走り、額にじっとりとした嫌な汗が滲みます。
確かにミリアを追い詰めているはずなのに、実際に追い詰められているのはルドルフの方なのでした。
急激に冷え込んだ胸に、ぐるぐると疑問が渦巻きます。
何故、知っているのだろう。いや、本当に知っているのか?ここに住んでから、俺は人間族の変化を解いていないのに……
そう思い直して適当に取り繕おうと思いましたが、下にあるミリアの身体が自分と同じに細かく震え、冷たいままであることに気づいてしまいました。
先程の複雑な表情の中にも、無言のまま見つめ続けていれば、思い出したように怯えの色が走るのです。
ルドルフは、半ば呆然とミリアが己の正体を知っていた事実を認めざるをえませんでした。
そうしてまたもや疑問は増えるのでありました。
……そもそも知っていたら、何故まだ俺の側にいる?いや、俺がここに居座っているだけで、俺の側にいるのはコイツの本心ではないのか……それに、知っていたというのなら……
「……いつ、から……」
なんとか掠れた声を絞りだしましたが、震えを誤魔化すことはできませんでした。
ミリアはそんなルドルフの顔を見て驚いたように瞠目すると、ふふっと思わず笑みをこぼしておりました。
「それは秘密」
そう言って微笑むのでありました。
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あと1話で完結予定です。