第1話:コイツは当分使えるな、と狼は思った。
短編小説にしたかったのに…なぜ。
∞∞∞
むかしむかし。
あるところに、一人の深傷を負った狼族が倒れこんでおりました。
『チクショウ……っチクショウ……っ』
彼は声にならない声で先ほどから何度も何度も悪態をついておりました。
それすらも咳き込むのに邪魔をされてさらに苛立ちを募らせておりました。
狼族とは捕食者であります。
捕食者は被捕食者を襲い、時に食い、時に騙し、時に意味もなく虐殺するなどと非道の限りを尽くしておりました。
その中でも狼族は高位の捕食者で、気に入らなければ仲間同士でも争うほど気性の荒い者たちでありました。
さて、ここに倒れております狼族の者は長候補の一人でありました。
彼は今まさに仲間同士の争いで手酷い裏切りにあい、情けなくも地に這いつくばっているのでした。
発熱からくる焼けつくような喉の渇きもそろそろ限界へと達しようとしておりました。
『…クソッ……アイツら…覚えてろ……っ!』
身体は傷ついておりましたが、心はまったく傷ついておりませんでした。
彼らにとっては裏切りや騙し合いが日常であり、それができない者・騙される者こそが愚か者の証ですらありましたから。
ただし騙された怨みは募り、必ずや復讐してやることをすでに決めておりましたが。
その為にはまず身体を癒さねばなりません。
しかし今のこの狼族にこの傷を癒すほどの力はありませんでした。
普段であればみるみるうちに塞がるはずの傷口が、ぱっくりと開いたままで血がまったく止まらないのです。
その時すぐ側の茂みからガサリと音がしました。
『…………っ!』
ここまで近くになるまで気づかないとは不覚でした。
ここら一帯は普段狼族…いえ捕食者の間ではまったく取り沙汰されない場所でありました。
なんでか今日に限って見慣れない道に出逢い、運良く茂みに覆われた、身を隠すには丁度よい場所に辿り着けたのでありました。
長い時間ここに居ましたが、危ない気配は一度も感じなかったので油断していたのです。
『………もしかしたらコイツは捕食者ではないかもしれない…』
発見者が捕食者であればどのみち終わりなのです。
ならば賭けです。
見つけるのが被捕食者であれば、狼族のままでいてはきっとすぐに仲間を呼ばれて終わりです。
同じ被捕食者として弱って居れば、お優しい奴等のことです。勝手に保護してくれるでしょう。
そう瞬時に判断した彼は最後の力を振り絞り、ぶるりと身を震わせ人間族へと化けました。
耳と尻尾と尖った犬歯を隠せば完成するこの変化が一番楽なのです。
「あ、あれ?なんだか血の匂いがするわ。誰かいるの?怪我をしているの?」
身動ぎした結果、どうやら血の匂いが動いたようでした。
それにようやく気づいた愚か者のなんとも惚けた声が茂み越しにかかりました。
どうやら血の匂いに警戒して、すぐに出てくる様子はありません。
被捕食者は総じて臆病なのです。
『……そうだ。助けてくれ』
そう言おうとして、零れてきたのはやはり咳き込む音のみなのでした。
けれどそれが逆に良かったのか、相手の警戒を解いたようでした。
「まぁ!あなた、大丈夫?人間族ね?」
茂みの向こうから駆け寄って来るのは兎族の小さな少女でした。
「ひ、どい……ま、まずこれで血止めをしないと……それよりもお水?えーっと、あなた、お水は飲める?」
あまりにも凄惨な傷にわたわたとして次にどうすれば良いのか分からなかった兎は、とにかく持っていた水筒から水を飲ませました。
怪我を負ったその者はとてもいい飲みっぷりでしたので、今にもその筒を奪い取りそうでした。
兎族の少女は相手が急くように飲むのを調節して何とか咳き込まないようにゆっくりと水を飲ませてやったのでした。
「血止めをするわね」
覚悟を決めるようとしたのか、相手に触ることを前もって知らせようとしたのか分かりませんが、兎族の少女はそう呟いた後に傷口の様子をしっかりと確認しました。
その時触れた手は冷たく、指先は細かに震えておりました。
その姿は狼族にとってとても滑稽に映りました。この程度の傷口のどこが怖いのか、と朦朧とした意識の中で嘲笑しました。
それでも兎族の少女は近くの湖とその場を往復して血を洗い流し、丁寧にその傷口を治療していきました。
辺りに充満していた自分の血の匂いが薄まると、狼族にとって極上とも言える獲物の匂いが強くなりました。とてもとても美味しそうな兎族の匂いでありました。
そんなことは知らぬげに兎族の少女はくるくると動いてその場で手当てを進めていくのでした。
「……もう大丈夫よ。血が止まってきたわ。私の家にあなたを連れて行きたいけど他に人手が無くて……まだ歩けないわよね?……どうしましょう…」
無理もありません。
少女に対してその狼族の者は2倍ほどあったのですから、一人で運ぶのは無謀でしょう。
下手に動かして傷口を広げたらもともこもありません。
仕方なく兎族の少女はその場に毛布やら雨露をしのぐ布やらを取り揃えてきました。
そうしてまだまだ幼く十代前半だと思われるその少女は、真っ赤な綺麗な瞳に涙をいっぱいにためて甲斐甲斐しく手当てをしてくるのでした。
そんな姿を狼族はほくそ笑みながら眺めるのでした。
『…コイツは当分使えるな……』
旨そうな獲物の匂いを嗅ぎながら、ゆっくりと意識が溶けてゆきました。
∞∞∞