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あなたへ…

作者: 鷹玖沙 眞

 平凡な日々…

 その定義を聞かれたら、何と答えるべきかを、高橋誠は通勤の電車の中で考えていた。


 今の日常には不満はない。

 27才で結婚をし、夫婦円満で5年経った今は、3歳と1歳の息子がいる。堅実で口は悪いが、それなりに優しい妻が生活を支えてくれる。そのお陰で体調管理も万全、健康診断も異常なし。

 仕事も成績がずば抜けて良い訳では無いが、温めてきたプロジェクトが軌道に乗り始め上役からの信頼も増してきた。


 羨ましい人生なのだろうか?

 同僚達は私の生活を羨ましがる。その事に対して自分はどうなんだ?と、考える。

 そこで最初の自問にたどり着いた訳だ。


 不満は無い訳じゃない。

 自堕落で不摂生だった独身時代を顧みれば、自由気ままだった日々に懐かしさを覚える事もある。

 だが自由すぎた上に孤独に蝕まれ、不摂生が故に不健康だったから、今の生活からは戻りたいとは思わない。


 そんな不摂生の象徴がタバコだった。

 最初は興味と大人への憧れだったし、初めての一本は独特の匂いと眩暈に襲われたのを覚えている。

 でも慣れていく内に、本数も増え辞められない悪習慣になったものだ。


 結局は長男が産まれるからと、妻の強い説得と自分に心の底から芽生えてきたタバコへの強い嫌気で辞める事ができた。それでもたまに見かけるサラリーマンが小難し顔で紫煙を吐き出している姿を見ると、昔の自分とダブって見えてきてしまう。

 カッコ良く決めるアイテムが、疲弊と苦労を飲み込む為の道具と化した気がしてきたのだ。


 そうした諦めと生活環境の変化の集大成が、誠にとっての平凡な日々なのだろう。

 だが平凡さに慣れて来ているが故に物足りなさが芽生えて来ている。


 だからといって浮気が出来るような人間でもなければ、夜遊びやギャンブルに走る性格ではない。

 財布の紐を妻に握られているが為に、飲み会の費用すら捻出するのも困難なのだから…


 そういえば今月は課長の送別会が有ったなぁ…などと思っているうちに電車は降りるべき駅のホームへと滑り込んだ。

 駅から見上げた空は、晴れてはいるもののどんよりとした重い青色として目に映る。


 「おはようございます」

 駅から歩いて10分もしないビルの5階に誠の勤め先が有る。エレベーターホールで、ボンヤリと階層表示を見上げていた誠は不意に背後から声を掛けられた。


 「どうしたんすか?ぼんやりして…」

 後輩の中谷だった。

 「何でもないさ、それより課長はいつまでだ?」

 「今月末までっすよ、でも後任は誰なんすかねえ…」

 お、来た来た、と中谷はエレベーターの扉が開なり、スルリと中に入り込む。中谷の俊敏さが羨ましく思えた。

 年齢とてさして違わないのに、動けない自分がもどかしい。


 「後任については何も聞かされてないな…かと言って上司不在も拙いし…」

 「先輩が昇進って事ないっすか?」

 「俺が?バカ言うなよ」

 年齢的にそうポジションについても、不自然ではない。だが時期尚早な気もする。

 「なに、月末までには決まるだろうさ。」


 「おはようございます」

 社内は朝からドタバタとしていた。月末に向けた書類の整理に追われ始めるからだ。

 返事を返してくれる者も居れば、目前の仕事に没頭しているのも居る。いちいち気にしている暇もないのだ。自分のデスクまで来ると、通勤用のバッグをドスンと置いた。そしてパソコンを立ち上げる。


 パソコンの起動が遅いのは、処理能力だけの問題だけではないらしい。寝起きの悪い利用者に似たのか、メールボックスがなかなか開かないのだ。

 イライラしても仕方がないのだが、即座に仕事に取り掛かれないもどかしさに舌打ちをしてしまう。


 「高橋君、ちょっと良いかな?」

 イライラを見越してなのか、背後から声がする。高橋の上司である部長の山内だ。

 本人は笑顔のつもりなのだが、如何にもと言うような引きつった顔をする。眼光も鋭く威嚇をするような眼差しなので、フロアの人間は全員が黙り込む。

 きっとここに居るスタッフは、誠が何かをしでかしたかと思っているに違いない。滅多なことでは人を呼ぶような人間ではないからだ。


 だが誠には何の心当たりも無い。

 はい!と返事をし、席を立ったのだが…呼ばれるからには何かが有ったのだろう。部長の下へ駆け寄る足も重い。


 「なに、大したことじゃないんだ」

 そう意味深な前置きをし、引きつった笑顔でミーティング用のデスクへと誠を誘う。

 その気遣いが妙に不安感を引き寄せる。


 連れられるまま誠は、デスクの椅子を引くとおずおずと腰を下ろした。

 「どうだね、今のプロジェクトは?」

 そこに部長の笑顔はない。いつもの強面上司が目前に居る。

 「今のところは順調です。しかしながら今後ネックとなるのは、中国向けの案件となります。

 残念ながら今のスタッフでは対応が…」

 

 そんな誠の説明をうんうん、と聞いていた部長は腕を組み机を睨みつけるように思案している。

 「高橋君、君の隣の席だが空いているな?」

 「ええ…それが何か?」

 「君の隣になんだが、一人配属させようと思ってな。」

 よし、と太ももを叩くと部長は立ち上がり、誠に対しすぐに説明ができるよう、プロジェクトの資料を纏めるよう指示を出し、さっさと自席へと戻っていく。

 残された誠は釈然としないままだったが…。


 「…だそうだ」

 誠は午前中の業務にケリをつけ、中谷を連れて社食へと繰り出した際に部長との話について概要を説明をする。

 「そういう話だったんですか、出世話が現実になったかと皆で話してたんですよ」

 「それは無いって言ったろ」

 苦笑いを浮かべながら誠は一気にうどんをすすり上げた。

 「でも誰が来るんで…」

 「知らん、聞かされてもないよ」

 そう言ってもう一度すすり込むと、今度は思い切り蒸せた。大量に振り掛けた七味が気管支に入り込んだからだ。


 「先輩、落ち着いてくださいよ」

 「悪い悪い、まぁ何も知らされないってのは気分悪いがな…」

 咳き込み涙目になりながら、コップの冷や水を煽ると、誠はウ~と唸るようにして何とかして落ち着かせた。

 「うちの部署では中国語を話せる人材は…まず居ないだろ?そうなると他部署からの引き抜きになるな」

 「階下の推進部は?」

 「確かに何人かは居るな…かと言って、いきなり営業部配属ってのは難しいだろ?」

 「でしょうねぇ」

 深く考えるフリをしながら、カツを口に押し込み咀嚼する中谷は安易に答える。


 「先輩、伝が有るんで探ってみますか?」

 「お前にか?どんな伝だよ!?」

 けっと笑うと、誠は温くなった茶を一気に煽った。

 「有るんすよ、それが!深く聞くだけヤボってもんすよ?」

 なかなか面白い口答えをするようになったもんだ、と関心しつつノリで調べさせるかと考える。

 「なら特命だ、隣の席に座る奴を探って来い」

 「ならボス、報酬は?」

 なかなかふてぶてしくなったもんだ。


 「いつもの店で奢ってやるよ」

 「あそこっすか?」

 ちょっと渋ったような中谷の顔を見ると、ふてぶてしさだけでなく、舌も肥えてきたみたいだな…と苦笑いを浮かべるしかない。

 「妻子持ちの苦労も考えろよ」

 「有り難くやらせていただきます」

 そう言ってニカっと笑うのだから、抜け目が無いと言うべきか…

 「でも先輩、“特命だ!”なんてドラマの見過ぎっすよ?」

 思わず中谷の頭を叩きたくなった。

 

 しかし、その特命も昼休みまでという非常に呆気ないもので終わった。

 二人が事務所に戻ると、本人が座っていたのだから。ごく自然に、前から自分の席だと言わんばかりにくつろいでいた。

 「高橋さんてすか?」

 にっこりと愛くるしい笑顔で、小柄なその女性は中国人独特のアクセントで尋ねてくる

 「ええ、営業部の高橋ですけど?」

 貴女はと、言葉を続けようとするのを笑顔で遮る。

 「私、今日からお世話になる早見麻衣てす。よろしく、高橋さん」


 今日からと言われても…名前すら教えて貰ってもいなかったのに、女性だとも聞かされていなかった。

 「お、来たかね。」

 背後より現れた部長は、相変わらずの不気味な笑みで近寄ってくる。

 「二課からうちに来た早見君だ。高橋君のサポートにと三田君にお願いしたんだ…」

 「三田課長にですか?」

 「彼女以外に適任者はおらんだろう、不服か?」

 不服も何もいきなりすぎて何も返せずなのだ。いえ、助かります、とだけ返事をするとちらりと彼女を見た。

 彼女も私を見て微笑む、その顔に心の奥底では早鐘を打ち始めていた。


 「高橋さんはお幾つてすか?」

 誠は得意先を廻らなければならない予定だったから、業務の説明を兼ね、同行させる事にした。

 社有車に乗り込み、会話の口火を切ったの早見の方で、誠が色々と聞こうとした矢先に先手を打たれたのである。

 「私?32になったばかりだよ?」

 「嘘ぉ!?」

 その後で若い、と呟いたのは聞き逃さなかった。


 「こう見えても二児のパパなんだけどな…」

 「私より若いよ?」

 一瞬、間が空いた。

 「…見えないんですけど?」

 「私、今年で40になるよ~」

 「同い年ぐらいだと思ったのに…」

 お世辞でもなく、心底そう感じたのだ。先ず性格が明るい、自由に話すから若くいられるのかも知れない。


 本人曰わく、中国人なのだが日本人の旦那さんと結婚し、日本名を使っている。通り名と言うことで本名は張儷華、とポンポンと自己紹介を済ませると、何やら鞄から取り出した。


 「吸って良い?」

 手にしていたのは、日本でも売られている中南海という銘柄のタバコだった。誠が良いよ、と応えれば嬉しそうに一本取り出し柔らかそうな唇にそっと挟む。

 その振る舞いに、鼓動が高まるのを誠は覚えた。


 「ただいま」

 そう玄関から声を掛けた所で返事など何も無かった。

 いつもならムッとする事なのに、今日はさほど嫌な思いはしない。


夜も遅いから子供達は寝ているだろう。なら妻の麻紀は…と言うと、子供相手に疲れたのだろう。居間のソファーでこれまた眠りに落ちていた。

 「おい…風邪引くぞ?」

 「…帰ったんだ」

麻紀は不機嫌そうな声でゆっくりと起き上がる。


 「メール見なかったのか」

 そんな暇ないわよ…と不機嫌なまま台所へと向かう。

 「子供の相手でヘロヘロよ、メールなんて着てるかわかりゃしないわよ」

 そう文句を言いつつもテキパキと誠の夕飯を用意する。

 俺だって疲れてるんだ…と言いかけたが、言えば不機嫌に拍車を掛けるだけだ。ぐっと堪え背広とシャツを脱ぐ。


 「ちょっと…ワイシャツぐらいは洗濯カゴに入れなさいよ!」

 麻紀はそう怒ると、ワイシャツを掴んで洗面所へと消えて行く。

 味噌汁を啜りながら、同じ女性なのにこうも違うのか…と早見の事を思い返してしまう。

 自由で笑顔の堪えない子供じみた年上の女性、かたや家事に追われ神経を常に尖らせた年下の女性…


 「…何にやけてるのよ?」

 気持ち悪い…と呟くのを誠は聞き逃さなかった。

 「にやけてないよ」

 「デレってしてるわよ…」

 自然と口元が緩んでいたらしい。


 「女でも作ったんじゃないでしょうね?」

 誠は思わず口に含んでいた味噌汁を噴き出しそうになった。

 「ば、馬鹿言うなよ!俺にそんな金と暇が有るか?」

 「なら何なのよ?」

 「仕事が上手くいってるだけだ!

 このプロジェクトが上手くいったら出世できるチャンスなんだよ」

 ふ~ん、と実に素っ気ない返事を返す妻に、新しく入った女性の同僚の話は迂闊に出せない。


 下手に勘繰られると、尋問のような時間が待ち受けているからだ。

 「出世したらどうなるの?」

 「昇給するさ」

 「それだけ?」

 なってみないと判らないさ、そう言っておかずを口にほうり込む。


 「だからって小遣いアップはしないわよ?」

 「何でだよ…」

 「余計なお金を持たせたら浮気するでしょ?」

 「またそれかよ…

 心配しなくても言い寄る女なんか居ないさ」

 そうね、と悪びれずに肯定すると、先に入浴するからとリビングを離れた。


 「…出世すると良いわね」

 ぽつりと照れたように呟いた妻の一言で、誠は咄嗟についてしまった嘘を悔やんだ。

 別に浮気じゃない、同僚としての関係なのに…いや、それでも思い返せば胸焦がれるものがある。

 だからと言って麻紀と離婚するか、と言われるとそれも無い。


 誠が消化不良を感じたのは、決して遅くに食べた夕飯だからと言う訳ではない気がした。


 「課長さん、白髪多いね」

 誠の営業なついて来るのが当たり前のようになった早見は、車の助手席に座りコンパクトで睫毛を確認しつつぽつりと言った。

 「…課長じゃないけどね」

 「そうだっけ?」

 「うん」

 そう否定するものの、内心は悪い気がしない。


 ただ朝から誠は沈黙を貫いていた。

 理由などない。

 ただ麻紀の一言が胸に残ってすっきりしないだけだ。


 「出世か…」

 思わずぽつりと呟いた。

 「どした?」

 「な、なんでも無いよ。それより、僕ってそんなに白髪有るかな?」

 誠は咄嗟に話題を戻した。

 「う~んまぁ多いんじゃない?」

 「苦労しているからね」

 そう言ってニッと早見を見て笑った。彼女もいつも通りにニコニコしていたが、一言「それ関係ないよ」とぴしゃりと言い放った。

 「私なんて頭真っ白だよ?」


 西日が差し、輝いた栗色の髪を綺麗だなと誠は思ったが、染められた髪だとは思えなかった。

 「遺伝よ」

 「なら僕は祖父さんの遺伝は受けたくないな…」

 「どして?」

 「ハゲる!」

 その一言に早見は爆笑していた。


 つられて誠も笑ったが、こんな他愛の無い事で笑ったのはいつのことだろう。

 胸の内でスーっと風が吹き抜けたような自由さと爽快感。


 出会ったばかりの麻紀と話していたあの頃の気持ちがふっと甦る。

 恋人にはならないけど、仕事のパートナーとして早見とならずっと一緒に居たい。

 何故だか誠はそう切に願っていた。


 「どうだね、高橋君」

 相変わらず引き攣ったような笑みを浮かべた部長は、上機嫌で誠の肩を叩いた。

 声が弾んでいるから本当に機嫌が良いのだろう。

 「早見さんと回って3ヶ月になりますが、予想以上の結果ですね」

 「そうか!」

 「ええ、客の反応が良いんですよ。

 あの堅物のK物産の部長様が早見さんを気に入ってあっさりOKですよ」

 ふむふむ、と頷き「この調子で頼むよ」と足取り軽く自分のデスクへと戻っていった。


 「先輩、ちょっと良いですか?」

 上機嫌な部長とは裏腹にやけにシリアスな表情をする中谷が入れ代わるように話し掛けてきた。

 チラリと早見を見ると、小声で「できれば会議室で…」と誠を促した。

 「どうしたって言うんだ?別に聞かれちゃマズいって話じゃないだろ?」


 会議室の椅子に腰掛けると、誠は切り出した。

 「早見さんがうちに来た理由っすよ!」

 「うちで欲しい人員がいて、あちらに行きたい人員がうちに居たって話じゃないか」

 「違うんですよ、それ!」


 中谷は誠の横の椅子に座ると「実はですね…」と前置きを付けて話だす。


 「不倫…なんですよ」

 ドクンという心音がハッキリと聞こえた気がした。

 「誰が?」

 「早見さんと二課の三田課長がっす」


 中谷の説明によると、三田課長が早見を口説き不倫が始まり、バレて終焉を迎えたのが移動になる半月前の話だ。


 「…そう言えば三田課長の姿を見ないな。」

 「何でも常務に知れて急遽左遷らしいっすよ」

 「よく早見さんは残ってたなぁ」

 普通の神経なら居残るという事を選択しないはずだ。ましてや公になれば風当たりも強くなる。


 「ここに来るまではずっと一人でいたみたいですよ」

 「なら何故辞めなかったんだ?」

 「常務も早見さんを狙っていたんですよ。だからみせしめ的に退職を許さなかったと…」


 「だからって…

 それで社内でも知り合いの居ないうちに甘んじて来たと?」

 おそらく…と中谷は話を打ち切った。

 「解った、この話は聞かなかった事にする。だから早見さんには変に気を使うな」 

 意識したらお互いにやりにくくなるだけだからな、と中谷に釘を差すと会議室の扉をノックする音がした。


 「課長さん、何してる?」 

 ひょっこりと顔を出したのは早見だった。

 「いやね、早見さんがうちに来て3ヵ月になるってのに歓迎会もしてなかったからな、こいつに会を開けって言ってたんだよ」

 咄嗟の嘘に“えっ!”という表情を浮かべた中谷の顔など見なくても判る。 


 「本当!嬉しい!中谷さんありがと」

 飛び上がらんばかりに喜ぶ早見を見れば、無下にも断れないと察したのだろう。

 「何時が良いっすか?」と引き攣った笑みで中谷が算段し始める。


 「俺は何時でも良いぞ」

 「課長、ゴチになります!」

 さっきの無茶ぶりの仕返しだろう。早見も“なりま~す” なんて追従されたら今度は誠が苦笑いするしかない。

 「俺は小遣いが少ないんだ、アテにはするなよ」


 「お代わり~」

 早見は中ジョッキのグラスを掲げ、ビールを要求した。

 緊急ではあったものの、なんとかスタッフが全員参加の飲み会が決まったのは、中谷に無茶ぶりをした三日後の事だった。


 結局は安い、量が多い、小汚いと三拍子揃った行きつけの居酒屋で集合となったのである。

 うちの部署は中谷と早見を除き、男女2人ずつだがこうした会を開くと女性陣は良く呑む。だからか早見がメンバーと溶け込むのは早かった。


 「早見さんは強いね~」

 中谷なんて舌が回っていない。

 「そうよ、中国は呑めないと仕事出来ないもん」

 そう言ってジョッキのビールを煽る。

 「高橋さん、呑めないっすよ~」

 「なに情けない事言ってるのよ、早見さん見なさいよ」


 若い男性スタッフが弱音を吐いたかとおもいきや、女性スタッフが笑って酒を勧める。

 「お前ら無理だけはするなよ」

 そう窘める誠も実は三杯目だったりする。

 久しぶりに呑むビールだったが、こんなに旨いと感じたのは久しぶりだった。

 

 「よし、そろそろお開きにするか!」

 終電も近くなり、乗り遅れる輩が居ては一大事だ。

 「皆さん、今夜はありがと。楽しかったよ」

 そう早見が言うと、ワッと拍手が涌いた。ちょっと照れ臭そうな顔をしている。


 結果として誠が一万を支払い、早見以外のメンバーが割り勘をするという有りがちな支払いを済ますと、駅まで歩くうちに一人ずつ別れていった。

 結局、電車に乗って帰るのは誠と早見だけになる。


 「飲みすぎたかな」

 早見は少しトロンとした眼差しで誠を見る。

 「久しぶりに飲んだからね、家に帰るのが怖いよ」

 「ならうちに来る?」


 いくら酔っているとは言え、おいそれとは“うん”とは言えない。

 「辞めとくよ、ご主人に迷惑掛かるだろ?」

 その誠の一言に、早見は突如として一筋の涙を流した。誠の酔いが醒めるのに、効果は絶大過ぎる。


 「あの人…浮気してるよ」

 早見の声には、いつもの明るさはない。

 「あの人は前から浮気してた。私知らないふりしてたけど、寂しかった」

 誠は黙って聞くしかなかった。

 「あの時もお酒飲んで、三田さんが優しくしてくれて…」

 もう三田さんも居ない…そう言って、ワッと泣き出した。

 そしてひとしきり泣くと、誠の肩を枕に寝入ってしまったのだ。


 結局は早見が起きるのが早いか、降りる駅に到着するのが早いかという話になったが、誠が降りる駅のホームを見えてくる。

 早見を車内に残すわけにもいかない。 

 抱きかかえるように支えると、改札口で妻の麻紀に電話を入れた。


 「で?」

 夜半であり、子供と共に眠ろうとして呼び出され機嫌が悪い麻紀に誠は睨まれた訳である。

 「だから部下を置いて帰る訳にはいかんだろ…」


 「まさかとは思ったけど女を連れて来るとはね~」

 よほど機嫌が悪いようだ。早見は客間で妻の用意した布団で寝ている。


 「別に疚しい事はしてないだろ?」

 「そうだけどアンタは好きな仕事して、お酒呑んで良いわよ」

 嫁の嫌味もここまで来るとぶちギレそうになる。

 そこをぐっと堪え、中谷からの報告を交え連れ帰った経緯を説明をした。

 「アンタは人が良すぎるわよ」

 麻貴は溜息をつくと、もう寝るわ、と寝室へ消えて行ったのである。

 「…俺も休むか」


 「あ、課長おはよう」

 今日が休日だからとダサい私服姿の誠は、早見の声にドキリとした。

 飲み会の帰りに早見を送り届ける事が出来ず自宅まで連れて来たのは自分だがその事をしっかり失念していた。

 「あなた何時出世したの?」

 妻も嫌味ったらしく皮肉ってくる。昨夜ほどの怒りはもうない。寧ろ仲良く話し込んでいたみたいだ。


 ねぼすけな息子達も起きてきた。

 特にはいずり回る次男がかわいいと気に入ったらしく、キャーキャーと騒ぐ早見に、昨夜の心配はなさそうだ。


 おかげで騒々しい朝食となり、簡単な中国語教室と化しながらも早見は我が家でも人気だった。


 「また来てね~」

 すっかり懐いた長男は寂し気に手を振ると、ニコニコと笑顔でまたね、と早見は家路についた。

 

 「あの人も大変よね」

 「なんだよ、急に…」

 息子達が昼寝を始めるなり、不意に早見の事を話題にしてきたからだ。

 「だって…旦那さんを好きになったからって日本まで嫁いで来たのよ?」

 「そりゃ覚悟の上での話じゃないか」

 そりゃそうだけど…と口ごもる。


 「なんだよ、すっきりしないな」

 「好きな相手に浮気されたのよ?」

 「他人の家庭に口を挟む訳にいかんだろ?」

 「好きだから離れられない。ただじっと待つだけの日々よ?

あなただったら耐えられる?」

 私だったら離婚届けを叩きつけて実家に帰るわ、と吐き出すように呟いた。


 週も明け、誠は気が張り詰めた会社へと出社したのだが、自然と頬も引き締まるもなのに、机上置かれた箱が疑問の表情に切り替わらせる。


 「課長、私からね」

 いつの間にか背後に立っていた早見に、挨拶がわりの先制パンチを喰らった訳だ。

 「お菓子よ、みんなで食べてね。

 奥さんにもよろしく」

 中身は月餅だった。

 「ありがとう、好きなんだよこれ」

 ニッコリ笑うと早見も微笑んだ。

 しかし早見の姿がこの日で消えた。


 ここ数日で早見の無断欠勤が続いているのである。

 誠が電話を掛けても通じず、事件に巻き込まれたのでは?と社内で憶測が飛んでいた。

 誠も皆には、大丈夫だから仕事しろ!と発破をかけても、自分がミスをするという状態が続いている。


 「先輩…早見さんはどうしたんすか?」

 「俺が知りたいよ…」

 社食で交わす会話も自然と重苦しくなる。

 「またひょっこりと現れると思うんすけど…」

 「連絡ないとなぁ」

 揃って溜息つくと、誠は中谷と黙って昼食を済ませる。


 そんな雰囲気を打ち破ったのは、誠の携帯に掛かって来た早見からの電話だった。

 「今、何処にいる?」

 誠の部下達は一斉に誠を見た。

 「…解った!すぐ行く!」

 中谷が早見さんからですか?と聞いてきたが誠は構っていられなかった。


 「俺はちょっと出てくる、頼む!」

 ジャケットを羽織り、社有車の鍵を握ると走りだした。


 スピード違反ギリギリの運転で誠が市内の市民病院に着くと、受付で病室を聞き出し、階段を駆け登る。


 「課長、ゴメンね」

 そう小声で謝る早見は、頬がそげ髪が乱れていた。泣き腫らした顔で誠に抱き着き、顔を埋めむせび泣く。

 「良いんだ、大丈夫だから…」

 早見の肩に手を乗せ、落ち着かせるとベッドを見下ろした。


 酸素ボンベに繋がれ、心拍数を示す心電図が弱々しく波打つ。

 若く見える男だ。

 この男が早見の旦那であり、早見を家に残し浮気に走った男。

 何故ベッドに横たわる?


 「この人、浮気相手に刺された…」

 やっと落ち着いたらしく、何が有ったのかを早見は語りだした。


 早見が家に帰ると、その夜は旦那も家にいた。

 冷めきった夫婦関係になった二人は、何を話すでもなく食事を済ませたのだという。

 そして会話の無いまま過ごす夜に突然の来訪者が現れたのだ。


 それが旦那の浮気相手だった。


 玄関先で、“よせ”とか“落ち着け”という旦那の声が聞こえていた。

 そして旦那の体をすり抜け、包丁を持った女が部屋に乱入してきたのだ。

 手にした包丁を振り回し狂乱した女が現れたのである。


 「あんたを殺してやる!あんたさえ居なかったら、私は堕胎なんてしなくて良かったのに…」

 柄を握りしめ、早見に向かってきた。


 刺された!

 体に鈍い痛みを覚えた。しかしそれは旦那が早見を押しのけ、倒れた事による痛みだった。

 旦那を見れば腹部に包丁が刺さっている。

 女も脅す為の刃物だったのに、愛した男を刺してしまったのだ。

 「どうして…」

 女が放心している間に早見は隣家へ助けを求めたのだという。

 女は逮捕され、旦那は病院に搬送され虫の息だった。


 「私の事、嫌いなのに…」

 誠は呼吸器を付けた男を見下ろした。

 妻を庇うことが彼の愛情なのか、それとも愛人を殺人犯にしたくないが為の事か、本人でしかわからない。


 早見の話では刃物が内蔵にまで達しており、見た目以上に深刻で医者からは「今夜が峠だ」と無慈悲な宣告を受けたのだという。


 「なら祈るしか無いじゃないか…」

 もし自分が家族を顧みない男だったら、浮気をしたら、病室のベッドに横たわっている


 「何も食べて無いんじゃないか?コンビニで買ったおにぎりだけど食べなさい」

 「でも…」

 「良いから、ここは私が見ておくよ」

 やつれた表情の早見を待合室へと向かわせ、代わりに誠が腰掛ける。


 不変を嫌い、刺激を求めた男はベッドに拘束され、刺激に憧れつつも不変から脱却できない男がじっと見下ろす。

 この男はシュディレンガーの世界に足を踏み入れた自分の姿かもしれない気がした。

 ー生命維持装置の電源を落としてしまうか?

 ふっと悪魔の囁きが脳裏を駆け巡る。


 ーそのスイッチを切っちまえば、あの女はお前のモノだぞ?

 これは誠が求めている刺激なのか?


 ーこっちに来ちまいなよ、毎日がスリルに溢れて楽しいぜ?

 本当に自分はそれを望むのか?だがそんな自問とは裏腹に手は装置のスイッチへと伸びてゆく。

 ーそうだ、自分に素直になれよ…

 嘲り笑うように頭の中の悪魔は誠を誘う。

 スイッチに指が掛かりそうだ…


 ーそうだ、やっちまいなよ兄弟。

 ー早く来なよ殺人者


 誠の指がスイッチに触れる寸前で止まった。

 誠にとって早見は奪う対象ではない。

 この男を生かし、罪を償わせた上で早見が愛すべきか突き放すべきかを決めれば良いのだ。


 早見の意思を尊重し、幸せになることを見守らねばならない。

 早見の幸せは相手に依存させるのではなく、選ばせる自由を得る事だ。


 「…俺はあんたを許せないよ、だが簡単に死なせるほど優しくもないよ」

 誠はぽつりと呟いた。


 早見も食べ終えたのか戻ってきた。

 「大丈夫だよ、心配はいらない」

 早見はホッとしたようだ。と同時に誠の心の中では嫉妬も芽生えていた。


 自分の妻はここまで心配してくれるのだろうかと…

 「大丈夫だよ、何か有ったなら携帯に連絡ください」

 話相手が欲しかったのだろう。早見は目で居残って欲しいと訴えたが、自分にも残された仕事がある。

病院を出ると、とりあえずは会社に一報だけ入れた。


 “早見の旦那は事故に会った、しばらくはつきっきりの看護が必要だ”

 それが誠が上長に報告した全てだった。仔細を話すだけ、早見の立場は苦しくなる。

 真実なら胸の内にしまっておけばいい。


 早見の旦那の容態が悪化したのは、誠が病院を尋ねた二日後の事だった。

 その夜も残務に追われ、嫁に帰宅が遅くなる旨を伝えると同時に着信が社内に鳴り響く。

 舌打ちして閉じた携帯を開くと早見の名前が明滅している。

 「あの人、死んじゃった」

 その一言を誠に伝えるのが精一杯だったのだろう。


 受話器からは早見の泣き声しか聞こえない。

 すぐに行くから、と言って携帯を切る。

 なんの償いもせず、早見を置いてこの世を去ったあの男に対し、やり場の無い怒りを覚えながら職場を後にした。


 病室の早見は更に痩せていた。

 疲労と困憊で立つ事もままならない。泣き腫らしたせいか、放心状態で椅子に座り込んでいる。


 「ご家族ですか?」

 白衣を着た老紳士が誠に話掛けてきた。

 「いえ…」

 表情が曇る。確かに身内でない者が真っ先に駆け付ける方がおかしい。


 「彼女の上司ですよ」

 「まぁ…良いでしょ、こちらとしても助かりますし」

 誠を病室から連れ出すと、喫煙が出来る談話室へと向かった。


 「吸われますか?」

 内ポケットからタバコを取り出すと、一本を誠に差し出した。誠は手で静止すると、老紳士は黙ってタバコに火を点ける。


 「お話するには躊躇われるんですけどね…」

 「何か…有ったんですか?」

 ふぅっと紫煙を深く吐き出す。何処と無く重々しい。

 「誰かがね…生命維持装置を触ったみたいなんだよ」

 そんな…思わず誠は絶句した。


 「もしかして…先生は彼女を」

 「証拠など有りませんよ。コンセントが抜けていましてね…確かにあの部屋には患者と奥さんしか居ませんでしたからね」

 「それだけの理由で彼女が犯人だと?」


 老紳士は結論を急がぬよう、一口吸うと紫煙を吐き出してから話を続ける。

 「奥さんは不倫させられてたんでしょ?」

 「それはプライベートですから答える必要も無いでしょ!」

 誠は憤りを隠せなかった。早見がそんな事する人間じゃない。


 「…すいません、ちょっと感情的になりまして。」

 「いえ、私の方こそ言葉を選ぶべきでしたせな。」

 私は医者で、調べるのは警察官の仕事でしたな、とまたタバコを口にする。

 聞かなかった事にして下さい、と医者である老紳士が呟くのを背に誠は病室へと急いだ。


 早見は放心状態で、椅子に座っていた。

 正直、誠が何て声を掛けるべきか、立ち尽くすしか何も出来ない自分にもどかしさを覚える。

 「ご主人はお気の毒だったね…」

 やっとの思いで話せたのはこの言葉だけだった。


 「私…嫌われてたよ」

 「そんな事無いさ、でなきゃ君を庇おうとなんてしなかったさ」

 「分からないよ、そんな事…」

 投げ遣りに、窓の外を見つめながら、早見はぽつりと呟いた。


 「ご主人はね…貴女の事を愛していたと思う。

 本当は…君と話したくって、でも話せなかった。男ってのは見栄張って、意地っ張りで…」

 「そんな事言わなきゃ分かんないよ!」

 「分かんないさ、でもそうやって格好つけるのが男なのさ」

 ずるいよ、そんなの…と小声で呟くと、二人黙ったまま時間が過ぎた。


 結局、誠はどうやって病院を出たかなど覚えちゃいなかった。とりあえず帰社をするなり上長の山内に早見の主人が亡くなった事と、早見の様子を簡潔に報告する。

 山内自身は、そうか…と短く答えると強面の顔で溜め息をつく。


 自分の席に着くなり、中谷がすり寄ってきた。

 「…先輩?」

 誠が顔を上げると、部下は全員が不安そうな顔で誠を見ていた。


 「ああ…早見さんなら身内に不幸が有った。暫く休むぞ…」

 パソコンの電源をいれ、ボンヤリと液晶を眺める。調子悪いパソコンはゆっくりと立ち上がり、それを無言で誠は待つ…

 無性にタバコが吸いたかった。


 「先輩…」

 昼休みにビルの屋上から、ボンヤリ街並みを眺めていると、中谷が背後から声を掛けてきた。

 振り返ると、中谷はタバコを差し出している。


 「…禁煙中だぞ」

 「早見さんの旦那の線香代わりっすよ」

 それでも吸おうという意思はなかった。吸いたいと思ったイライラはボンヤリと見ていた風景に掻き消されたようだ。


 「よく此処が判ったな。」

 「何か有ると此処でタバコ噴かしてたじゃないすか…」

 今は僕が吸うようになりましたけどね、と紫煙を空に向かって吹き上げた。


 「先輩、早見さんは大丈夫すかね?」

 「警察からも事情聴取を受けたみたいだがな、生憎アリバイも有った。機械装置が移動していた様子から奇跡的に記憶を戻した旦那が装置を停めたと見ているとさ…」

 葬儀も済み、早見は暫く休んでいた。こちらとしても無理は言えなかったのだ。


 「早見さんな、会社辞めるぞ。」

 「えっ!?」

 そんな、良いんすか?と抗議を上げる中谷に、背広の内ポケットから取り出した“辞表”と書かれた白い封筒を見せる。


 「遅かれ早かれ出るもんだったのさ、彼女の決断だから仕方ない。」

 本当だったら俺も破り捨てたいけどな…と、恨めしく封筒を見つめ、誠は内ポケットに収めなおした。これからこいつを仏頂面した部長に預ける事を考えると気が引ける。

 「本人も故郷へ帰るそうだ。ここに居るよりはマシだろう。」

 そうっすねぇ…と答える中谷の返事はどこか寂しげだった。


 結局、早見の退職届はあっさりと受理され、早々の内に処理された。

 本人も荷物をさっさと纏めると、帰国の手配まで済ませてしまったのだ。


 「何時…出るんだい?」

 誠が昼休みに屋上で早見に電話を掛けた。仕事用ではないプライベートな番号にだ。この番号を知っているのは会社でも誠だけだった。

 ―手続きはいろいろと終わったから…来週の土曜日に出国するよ。」

 「そっか…家内が会いたがってたぞ、それに子供達も君に会いたいって。」

 ―会わないよ、会ったら帰りづらくなる。奥さんもお子さんもいい人。

大事にしてあげてよね

 「わかった。ありがとう、家族にも伝えておくよ。」

 そう言って電源を切ったのは覚えている。


 また慌しい日々が始まった。

 主を失った事務所の机は何時の間にか資料などで山が出来上がっている。

 「おいおい、片付けろよ!」

 そう誠が注意をするものの、片付く気配が無かった。早見が居たらさっさと片付けていたに違いない。結局は誠が片付けるという事が多くなった。


 「あなた、時間無いわよ!急いで、急いで!」

 「そう急かすなよ、まだ時間は有るんだろ?」

 誠は妻の麻紀にそう返事をする。土曜日の空港は人が多かった。その中を二人の子供を抱えて走るのは大変だったりする。早見が搭乗する飛行機にはまだ時間がある。ましてや搭乗手続きをするカウンターも開いている状況ではない。

 「待ち伏せすんのよ!急に現れたらビックリするでしょう?」

 「そりゃそうだが…」


 その計画は無意味だぞ、と言いたげに誠は視線を近くのベンチに向けた。

そこに座っていたのが早見だったからだ。


 「来てくれたの?」

 早見は驚いたようだが、ニコニコと笑って麻紀に手を握って喜んでいる。

 「当たり前でしょ!それにお土産、飛行機の中でお腹が空かないようにオニギリも作ってきたんだから!」

 「おいおい…そんな荷物ばかり増やすなよ…」

 「大丈夫よ!オニギリなんて食べちゃえば良いんだから!」

 全く持って無茶苦茶な嫁だ、と誠は苦笑いを浮かべるしかなかった。子供達もはしゃいで早見との再会に喜んだのだが、楽しい時間はあっという間に過ぎる。

 早見は出国ゲートに向かいつつ、大きく手を振って別れを告げた。それが早見との別れだった。


 「見えるか?たくさん飛行機あるだろう?」

 滑走路を見渡せる空港のデッキで、子供達を抱え上げた。子供達は一度にたくさんの飛行機が見えた事に興奮をしている。

 「パパ、どの飛行機に早見さん乗ってるの?」

 「あれかなぁ…」

 「あ、動き出したよ!」


 飛行機は静かに移動を始めた。大きな空へ羽ばたく為に、滑走路への端へと移動する。それは新しい“早見の未来”へと飛び立つ為の、助走準備にも見えた。

 ゴウッという低く重いモータ音が響く、いよいよテイクオフなのだろう。

 飛行機が勢い良く走り出すと、上体が浮き上がり、一気に空へと浮かび上がる。


 「飛んだよ、パパ、飛んだ!」

 子供達ははしゃいでいた。誠も空を見上げ、飛行機が小さくなるまで見送る事しか出来なかったが…。


 早見の居ない日々はだいぶ慣れてきた。

 仕事の方も早見に代わるスタッフが入り、今までどおりの慌しい日常に引き戻されていく。

 誠は自分には平凡な日々がやはり合っている、と思う。今を必死に生きている方が波乱万丈な日々よりは良いと感じるからだ。


 「あなた、手紙が届いているわよ。早見さんから。」

 帰宅すると、麻紀は白い封筒を私に差し出した。見覚えのある懐かしい字面だった。

 「何て書いてあるのよ?」

 「今、開けるって…」


 封書をあけると、そこには手紙と写真が入っていた。早見の写真だ。活き活きとした楽しげな表情を浮かべる早見がそこに居た。


 そして手紙の文面は…

 “あなたへ…”と切り出されていた。

 


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