間章Ⅱ:Part 02 食事は大人数でとるのが楽しい
時刻は七時半過ぎ。
エルゼと早朝のトレーニングを終えた統哉は帰宅後、着替えて朝食の支度に取りかかろうとしていた。
「さーて、いっちょやりますかね」
すると、その言葉に反応したのかエルゼがキッチンへとやってきた。
「お? 統哉君、これから朝ご飯の支度?」
見ると、エルゼは先程までのジャージ姿からうってかわって半袖シャツにハーフパンツというラフな格好だ。エルゼ自身が放つ健康的な雰囲気と相まって、よく似合っている。
「ああ」
「……ふーん、統哉君って自炊するんだね」
エルゼはきょろきょろとキッチンを見渡しながら意外そうに言った。
「何せ、一人暮らしだからな。とはいっても、今はあいつらを養うのが日常になっちまったけどな」
「……あー、あの三人相手だとねー……うん、大変だよねぇ……」
肩を竦める統哉にエルゼが深い溜息をつきながら呟く。
「……よし決めた! あたしも手伝う! ううん、統哉君、あたしをこれからこの家の食事当番として使ってください!」
深々と頭を下げて頼み込むエルゼ。いきなりの申し出に統哉は驚いた。
「おいおい、いきなりだな……ん? 待てよ?」
(彼女は地上界の食文化にただならぬ興味を示し、直属の部下であるニスロクと共に地上界のあらゆる食を研究し、それを極めた)
(和・洋・中、その他諸々を食し、実際に作って私達に振る舞っていたくらいだからな。ぶっちゃけその腕は、一流シェフですら大ジャンプして急降下土下座するくらいの腕だ)
……と、ルーシーが語っていた事を統哉は思い出した。
「そういえば、エルゼって前の世界では料理について色々と研究して、実際に作っていたんだよな?」
「うん」
「……その腕、信用していいんだな?」
統哉の確認するような視線をエルゼは正面から受け止め、しっかりと頷いた。
「うん。あたしは天界の三分の一にあたる堕天使達の胃袋を満足させた、万魔殿の総料理長、ベルゼブブ! 直属のニスロク、その配下の調理、給仕、食器洗いに至るまでの全てを総括する、『暴食』の称号を持つ堕天使だよ!」
力説された。何だかエルゼの背後から後光が差しているように見える。
「わかった。エルゼに任せるよ」
「任された! さーて、タンカも切った事だし早速調理開始といきますか! というわけで統哉君、冷蔵庫見せてねー」
言い終えないうちにエルゼは冷蔵庫のドアを開き、中身を僅かな時間で物色し終えた。
「――よし。卵、野菜、果物、その他諸々。これだけあれば!」
エルゼは力強く頷き、キッチンへ立った。
「さあ、バリバリ作るぞ♪」
真紅の瞳を輝かせ、エルゼは宣言した。
――そこからはもう、ずっとエルゼのターンだった。
最初のうちは統哉も材料を切るなどして手伝っていたが、凄まじい速さで動くエルゼを見て、やがて邪魔になるといけないと感じた統哉はごく自然に退いた。
何せ、エルゼは生体加速でも使ったかのような速さでキッチン中を駆け抜け、ある時は材料を切り、またある時は卵を焼いたりと、大忙しだった。最終的にはエルゼが何人にも分身して同時に調理を行っているように見えたほどだ。
そして、三十分後。
「――――よし! できたっ!」
エルゼはテーブルに最後の一品を置き、額の汗を拭って調理の終了を宣言した。
「お疲れ様」
統哉はエルゼの肩を軽く叩き、彼女を労った。
「それにしても、美味そうだな……」
テーブルの上を見渡し、思わず感嘆した統哉が呟く。
なんという事でしょう。
テーブルの上にはほかほかの白飯、焼いた鮭、納豆、トースト、ハムエッグ、サラダ、フルーツヨーグルト、etc……。
「……って待たんかい!?」
統哉が素っ頓狂な声を上げる。
「ど、どうしたの統哉君!?」
エルゼがびくっと身を震わせる。
「どうしたのじゃないよ! 何このフルコース!? 朝からこれだけの量とか多すぎだろ! これなら昼と晩も賄えそうだよ! しかも何故和洋折衷!? ……あー冷蔵庫の食材ほとんどないし!」
冷蔵庫を覗き込みながら悲痛な叫び声を上げる統哉。
「……で? この始末、どうするんだよ?」
「……」
泣きたいのを堪えながら、統哉はエルゼに尋ねる。彼女はしばらく黙っていたが、やがて――
「……作り過ぎちゃった♪ てへぺろ♪」
ウィンクをしながら舌をペロッと出してみせるエルゼ。
「開き直るな!」
統哉がツッコむ。
「……だ、だって、久しぶりにあたしの腕を発揮できると思ったからついつい張り切り過ぎちゃって……」
しょぼんと肩を落とすエルゼ。それを見た統哉は軽く息を吐き、
「……まあいいや。逆に考えよう。昼と晩のおかずを作る手間が省けたと」
その言葉に、しばらくきょとんとしていたエルゼだったが、やがて微笑んだ。
「……統哉君、優しいね」
笑うエルゼに、統哉は少し頬を赤くしながら背を向けた。
「……さて、あいつら起こしに行くか」
統哉とエルゼは堕天使達の居住空間である混沌空間に足を踏み入れ、統哉は思念を飛ばして堕天使達に呼びかけた。
(おーい、お前ら朝飯だぞー。エルゼが作った朝飯フルコースだぞー)
思念を飛ばしてからかなりの時間が経過した。だが、誰一人として起きてくる気配がない。
「……だめだ。全然伝わった感じがしない」
統哉がやれやれと肩を竦める。すると、エルゼがすっと前に進み出てきた。
「あたしに任せて」
「任せてって、どうするんだよ?」
「こうするの」
エルゼは短く答えると、右足を一歩前へ出した。
「こおおおっ…………」
次に大きく、かつ深く息を吸い込みつつ、片足をすっと上げた。そして、裂帛の気合いを込め――
「――覇っ!!」
思い切り地面を踏みつけた。
一瞬の静寂。直後、大きな振動が混沌空間を襲った。振動は大きく、たっぷり五秒間は続いた。
「……うわっ!?」
統哉は思わずバランスを崩し、その場でたたらを踏んだ。やがて、揺れが収まったのを確かめると、そろそろと姿勢を直した。
「……な、何だよ今の!? 地震か!?」
未だ興奮が収まらない統哉に、エルゼはサムズアップと共に告げた。
「震脚」
「震脚……?」
「中国武術の一つで、足で地面を強く踏みつける動作の事だね。それにあたしが魔力を込めて、ちょっとした振動発生装置っぽくしてみたんだ。まあ、人間にしてみればあくまで型の一つだからここまで大きく振動を起こせはしないけど」
「……いや十分凄いんだけど。それにしても、今ので起きてくるのかな……?」
「まあ、見ててごらん」
エルゼが笑って言ったその直後――
バン!
三つのドアが一斉に開かれ――
「何だ今のは!? 激しく上下に動いたんだが!?」
「何事だ!? べるの体が前後おおおん! って動いたぞ!?」
「……ん~、ウチは新聞取りませんよぉ~……?」
三者三様の反応をしながら、堕天使達が夏用の寝間着に身を包んでぞろぞろと部屋から出てくる。どうやら効果は抜群だったようだ。
突然の振動によって叩き起こされた堕天使達(ただし一名を除く)に、エルゼがパンパンと手を鳴らして呼びかける。
「はい、みんなおはよう。ルーシー、ベル、朝ご飯できてるから顔洗ってきて」
「「サーイエッサー……」」
眠たげな目をこすりながら、ルーシーとベルは洗面所に向かう。アスカもその後に続こうとしたが、エルゼがそれに待ったをかけた。
「アスカ、ちょっと待った」
「……ほにゃ~……?」
「……服、着てきなさい。シーツで体を隠しているのはいいけど、統哉君にとっては目に毒だから」
「……」
統哉はエルゼの横で視線を思い切り真横にずらしていた。
そう、アスカは寝る時は裸で寝る主義なので、突然の出来事に対しても平然と裸で出てこれるのだ。
とは言っても、統哉もやはり健康的な男子なので、そういうのには慣れていないのだ。いくらラッキースケベ率の高さに定評のあるアスカでも、慣れないものは慣れないのだ。
統哉からは見えていないが、シーツ越しにアスカのナイスなボディラインがくっきりと浮かんでおり、さらにシーツでカバーできていない所からは白い肌と肉付きのいい脚が覗いており、「色欲」の称号は伊達じゃないという事を全力で押し出していた。
「……ん~、統哉君なら別に構わないけど~……」
アスカがにんまりと悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「……せっかくだけど遠慮する。ほら、早く服着てこい」
「……ふぁ~い」
アスカは軽く頬を膨らませると、ぽてぽてという足音が似合うほど緩慢な動きで部屋へと戻っていった。
ロビーには統哉とエルゼの二人が残された。
「ね? 簡単でしょ?」
エルゼの手際の良さに、統哉は素直に頷くしかなかった。
「……ああ、大分慣れてるようだけど、あいつら、前の世界でもこんな感じだったのか?」
「うん、天界にいた頃はみんな早寝早起き、規則正しい生活を送っていたのに、堕天してからというもの、みんな寝起きが悪くなってさー。あたしは寝起きがいいからいいんだけど、みんながあの様だから、あたしがこうして叩き起こすのが日課になっちゃった。特にベルフェゴールはもうね、強行突入して部屋から引きずり出すのがデフォルトだったよ、あはは……」
エルゼが遠い目をして乾いた笑いを浮かべる。
「そうか、エルゼって前々から苦労してたんだな……」
彼女の苦労の一端を垣間見た統哉は心の底からエルゼに同情したのであった。
午前八時。
「おお、これは……」
「さ、流石エルゼ……」
「いっぱいだー」
顔を洗ってきた堕天使達がテーブルいっぱいに並ぶ料理を見て口々に反応を示した。
「いやー、エルゼの料理を食べるのは本当に何世紀ぶりの事かなー」
ルーシーが感慨深そうに言う。
「全くだ。万魔殿にいた頃の量と比べると可愛いものだがな」
ベルも頷く。
「え、じゃあ万魔殿にいた頃のエルゼ達って一体どれだけの料理を作ってたんだ?」
「え~と、朝食がバイキング形式で~、昼食と夕食がだいたい決まった献立をおかわりも含めてもの凄い量作ってたかな~。大食いな子もいっぱいいたし~」
アスカが統哉の疑問に答えた。
(い、一体どれだけの量を作ってたんだ……?)
統哉の中にそんな疑問が沸き起こったが、統哉は頭を振ってその疑問を振り払った。あまりにもスケールが大きすぎて朝から頭痛がしそうだった。
「まあまあ、早く冷めないうちに食べよ? ね?」
エルゼが手を叩いて統哉達を促す。
「そうだな。久々のエルゼの料理なんだ。しっかりと味わうとしよう」
ルーシーの言葉に、統哉達はそれぞれの席についた。
「「「「「いただきます!」」」」」
五人の声が重なり、朝食が始まった。
統哉達は思い思いに料理へ箸をつける。そして――
「「「「美味い」」」」
エルゼを除く全員が同時に呟いた。
的確な調理、絶妙な味付け、食材の一つ一つが互いを引き立て合わせる事で生まれる味のハーモニーがそこにあった。
あまりの美味さに、統哉達はそれだけしか言葉を発する事ができなかったほどだ。
「ふふっ、ありがとう! 頑張った甲斐があったってものだよ!」
エルゼが心底嬉しそうに笑う。
「ねえ、統哉君、どうかな? 統哉君の忌憚なき意見を聞かせていただきたいかと」
期待半分、不安半分という表情を浮かべるエルゼに、統哉は少しの間を置いて、言葉を紡いだ。
「……そうだな。調理、味付け共に完璧で、文句なしに美味いよ。ただし! どうしても言っておきたい事がある」
「何かな?」
「作りすぎだ」
「あう」
ド直球ストレートを食らい、エルゼは痛い所を突かれたという表情をした。
それもそうだろう。冷蔵庫内の食材を大幅に消費して今日一日の食事を賄えるほどの朝食を作る者は普通はいない。
だが当のエルゼは統哉達よりも大きな器に盛られた料理を早いペースで見る見るうちに平らげていく。
「……」
思わず絶句する統哉。
「とーやくん、気にしない方がいいよ~? えるえるにとってはこれぐらいの量なんて何ともないんだから~」
「……この量を、いつも、完食するのか?」
思わず唖然とする統哉。初めて出会った時もかなりの量を食べていたと思っていたが、どうやらそれは氷山の一角にすぎなかったらしい。
腹八分目という言葉はエルゼの辞書にないのだろうか。
「何、気にする事はない。いずれ君にもこの光景が日常と化してくるさ」
ルーシーが笑って言う。その間にも、テーブルの上に並んでいた料理はどんどんその質量を減らされていく。
「……うん、何かもう、何も言えないな」
呆れた顔で呟く統哉。
「だが統哉、一つ言わせてもらってもいいか?」
と、そこへベルが声をかけた。
「何だよ?」
「統哉は気付いていないかもしれないが、今のお前、嬉しそうな顔してるぞ」
「え?」
ベルに指摘され、統哉は口元に手を当てた。
確かに、その口元は緩んでいた。
「……本当だ」
意外そうに統哉は呟く。
「……統哉、なんだかんだ言ってこの状況を楽しんでないか?」
ルーシーが微笑みながら統哉に尋ねる。
そう言われてみて、統哉はふと振り返る。
確かに、ついこの前まで自分はたった一人で料理を作り、食べていた。
それは、腹を満たす事はできても、心は満たされないどこか虚しいものだった。
だが、今は違う。成り行き上とはいえ、自分の周囲にはこうして食卓を囲んでくれる者がいる。
最初のうちは色々と戸惑う事もあったが、今の自分は確かにこの状況を楽しんでいた。
「……そうだな。楽しんでいるな」
統哉は自分に言い聞かせるように答えた。
何はともあれ、統哉達は賑やかな朝食を楽しんだのであった。
ただし焼き魚やハムエッグを除く一部の料理(そのうちの数割はエルゼが平らげたが)は昼と夜に持ち越す事になった。
朝食の後片付けが終わった後、統哉はエルゼの部屋に呼び出された。何やら話があるらしい。
「はーい」
ドアの向こうからエルゼの声が返ってくる。そして、ドアが開きエルゼが顔を出した。
「統哉君、待ってたよー! さ、入って入って!」
エルゼが統哉の手を引き、部屋へと案内する。統哉は転ばないようにしながらも、「お邪魔します」と一言言うのを忘れなかった。
「……へえ」
感心したように統哉が呟く。
エルゼの部屋はベルやアスカの部屋とほぼ同じ規模で、調度品も揃っていた。だが彼女達の部屋と違う点は本棚に入っている本の大半が料理本や格闘技に関する本だった点だ。
そして、何よりも目を引いたのは、部屋のスペースを拡張して設置された、規模の大きいダイニングキッチンだった。テーブル一式まで揃っていて、レストランの一部を切り取ってぽんと置いたような印象を統哉に与えた。
壁には大型の冷蔵庫が設置してあり、コンロや壁にかかっている調理器具はピカピカで、彼女が料理好きの堕天使だという事を改めて実感させた。
「ごめんね、女らしくない部屋で」
困ったように笑うエルゼに、統哉はそんな事ないと言った。
「……凄いな。ここまで本格的な設備、間近で初めてみたよ」
統哉は純粋な感想を述べた。するとエルゼは表情を明るくさせた。本当に表情がコロコロ変わって面白い奴だなと統哉は思った。
「うん! あたし、料理が好きだから璃遠に無理言って自分の部屋にもキッチンを設置してもらっちゃった♪ ……あ、ごめんねせっかく来てもらったのに何も出さないで! 今飲み物出すから、その辺に座ってて!」
エルゼは軽やかな足取りで冷蔵庫に向かう。統哉はその言葉通りにクッションへ腰を下ろした。
エルゼは手際よくガラスのコップを二つ取りだし、次に冷蔵庫からオレンジジュースのパックを取り出して注いだ。それを小さなトレイに入れて戻ってきた。
「お待たせ」
「ん、ありがとな」
エルゼに礼を言い、統哉はコップを受け取った。
「それで、話って?」
オレンジジュースを一口飲んで口を湿らせた統哉が切り出した。
「……うん。統哉君、あの時は助けてくれてありがとね。あたし、どうしてもその事を言っておきたくて」
頬を赤らめながらエルゼは統哉に礼を言った。
「その事か。まあ、あれは俺がそうしたいって思ったからそうしただけなんだけどな」
照れたように統哉は笑う。
「……正直言って、あの時あたしは死ぬかと思ったんだ。でも、それを統哉君が真っ先に飛び出して、あたしを助けてくれた……本当に、嬉しかった」
「エルゼ……」
「それからあたし、もっと統哉君の事が知りたいなって思ったんだ」
そしてエルゼは真紅の瞳に強い光を宿し、口を開いた。
「……統哉君、あたしと戦ってくれないかな?」




