Chapter 5:Part 07 蠅の王
『シャアアアアアアアアァッ!』
既に人ならぬ者の叫び声を上げるベルゼブブに対して統哉は説得を続ける。
「やめるんだ、ベルゼブブ! 正気に戻れ! お前は――」
「……統哉、もういい」
ベルがなおも説得を続けようとする統哉を手で制した。
「そうだね~。ゆっくり話そ、えるえる~」
「君好みの方法でさ」
アスカはキャノンを構え、ルーシーが拳を鳴らしながら前へ進み出る。
「……やるしか、ないのか……」
統哉も悩んだ末に、ルシフェリオンを構えて戦闘態勢をとる。
それを見たベルゼブブが咆哮する。目の前に立つ、四体のエネルギーと、魔力、生命力にあふれている血と肉の塊への期待に全身を震わせている。
そして、ベルゼブブは巨体に似合わぬ速さで肉薄してきた。彼女が動いた後、強烈な風が巻き起こった。
「――速い!?」
統哉が驚愕の声を上げる。するとルーシーが説明する。
「ベルゼブブは風の魔力を宿している。故に、あの巨体に似合わない素早い動きが可能で、さらには羽ばたく事で強風から真空波、果てには竜巻まで自在に起こせるんだ……危ない統哉、避けろ!」
「……っ!」
説明を聞くそばから、ベルゼブブは羽を蠢かせ真空波を放つ。ルーシーは横に転がってかわし、統哉はルシフェリオンで受け流す。
「くっ、ベルゼブブのあの姿を見るのはいつ以来の事か……」
焦りを隠さずにルーシーが呟く。
「あいつ、前にもああなった事があるのか?」
統哉の問いにルーシーが頷く。
「……あれは確か、前にいた世界で、地上に降りてきた天使の大群と戦った時の事だ。単独で迎撃に出たベルゼブブは一騎当千の活躍を見せたのだが、前に少し話した通り、彼女はいかんせん魔力の消費が多い奴でな。たった一人で天使の群れを殲滅させるのは流石に荷が重かったらしい。後から私達が応援に駆けつけた時には、彼女はあの姿に変じ、天使共を喰らい尽くしていた」
「どうしてあいつは天使を喰うなんて事を?」
「簡単だ。彼女は失った自分の魔力を、近い性質の魔力を持っている天使を喰らう事によって回復できるんだ」
「えげつないな」
「とは言っても、直接かぶりつくのではない。自分がトドメを刺した天使の魔力、魂を自分のものに変換し、吸収するんだ」
「それならまだエグくはないな」
「しかし、あの時は魔力が尽きて暴走した彼女は本能のままに天使を貪り喰うだけの存在と化していた。そして、彼女は私達も喰らおうと襲いかかってきた。まあ、あの時はすかさず私が脳天に踵落としを叩き込んで大人しくさせたが、今回はそう簡単にいきそうにないな」
「どうするんだよ? あいつ、元に戻せるのか?」
統哉の言葉にルーシーは首を横に振る。
「わからん。あの時は天使達を喰い尽くしていたおかげですぐに元通りになったが、天使が喰らいつくされた上、おかわりもない今、そうもいかないだろう」
「じゃあ、あいつはもう元には戻らないのか!? あいつを殺すしかないのか!?」
統哉の言葉にルーシーはしばらく黙り込んでいたが、やがて絞り出すように言葉を発した。
「……その時は、私が引導を渡す」
「そんな……ルーシー、それでいいのか?」
統哉の言葉に、ルーシーが反論する。
「私だって同胞をこの手で殺める事はしたくないさ! ……だが、動きを止める事ができれば何とかできるかもしれない」
「じゃあ、あいつを殺してしまわないように、弱らせればいいんだな?」
「ああ」
ルーシーが頷く。
「――二人共、話は終わったか? こっちはいい加減危ないんだが!」
息を切らせたベルが叫ぶ。見ると、ベルとアスカは二人がかりでベルゼブブの放つ真空波をかわしている所だった。統哉とルーシーは急いで二人の元へ駆けつけた。
「すまない。どうするかを話し合っていた。ベル、アスカ、わかっていると思うが今はベルゼブブの動きを止める事に全力を挙げてくれ」
「わかっている。あんな風に暴れていても、あいつはベル達の仲間なんだ。仲間を討つ事はできるならばしたくない」
「話が通じればいいんだけどね~。でも今はこれがわたし達にできる対話『砲』だね~」
「アスカ、字が違う」
統哉のツッコミが入る。
「……とーやくん、何でわかったの~?」
「勘」
「……も~」
軽くむくれるアスカ。だが今ので場の雰囲気が少し和んだ事を一行は感じ取った。
全員が本来の力を発揮するには、過度の緊張は大敵である。それを和らげるためにアスカは冗談を言った事を統哉達は理解していた。
「よし、緊張もほぐれた所で、全員、散開! 彼女を弱らせるんだ!」
ルーシーの号令で統哉達は素早く散らばり、攻撃態勢に入る。
ベルが後方から放った数発の火球をベルゼブブは脚の鉤爪で切り裂く。その隙に統哉は素早くベルゼブブの懐へ接近する。
「ベルゼブブ、痛いけど我慢してくれよ!」
統哉は一言謝罪し、走りながら袈裟斬りを放った。その時――
「――えっ?」
刃が空を切った感覚に、統哉は思わず間の抜けた声を発した。
自分が駆け抜けた後ろを見ると、ベルゼブブの巨体は影も形もなく、不気味な沈黙がホールを支配していた。
「あいつ、どこへ……?」
統哉が周囲を確かめつつ、そう呟いた時――
「とーやくん! うしろ~!」
「えっ?」
アスカの声に統哉が背後を振り返ると、統哉の視界いっぱいに、高速で迫ってくるベルゼブブの足が映った。次の瞬間、統哉は以前に受けたルーシーの蹴りとは比べ物にならない重い蹴りの直撃を受けてしまった。
「――ぐはっ!?」
統哉は喀血し、一気に数メートルもの距離を吹き飛ばされた。
がしっ。
その時、何者かが統哉を受け止めた。痛む体に鞭打ち、何とか背後に目を向けると、ルーシーが統哉の体を支えていた。
「統哉、大丈夫か?」
「あ、ああ、何とかな。このコートに守られたよ」
蹴りの衝撃で傷ついたコートを示す統哉。もしコートを纏っていなければ自分はあの蹴り一発で即死していただろう。統哉は璃遠に感謝した。
「しかし、何だったんだ、今のは?」
ルーシーの助けを得ながら床に降り立った統哉が呟く。
「急に姿が消えたと思ったら、また急に現れる……ワープか何かか?」
「彼女は蠅の王の二つ名に恥じず、蠅を操った天界式CQCができる。これはその一つ、『スーパーフライ』だ! 自らの体を無数の蠅に分解し、攻撃を回避、及び相手の死角から奇襲を仕掛ける際に使われる!」
「回避面も死角なしかよ!」
統哉が叫ぶ。一方、ベルとアスカも応戦する。
「フレアショット!」
「ばすた~!」
同時に放たれたベルの火球とアスカのレーザーがベルゼブブに直撃する。しかしそれらの攻撃はベルゼブブの皮膚によって受け流されてしまう。
「くっ! 炎があいつの皮膚で防がれてしまう!」
「こっちもダメ~! ビームが散らされちゃう~!」
ベルとアスカが呻く。
「皮膚を魔力で覆い、攻撃を屈曲、または反射させているんだ。全く、私達を狩るのに全力を出しすぎだろ……くっ!」
放たれた暴風に吹き飛ばされそうになるのを堪えながら、ルーシーもスフィアを放つ。だがベルゼブブはそれをものともしない。その間にもベルゼブブは真空波や蹴りを矢継ぎ早に放ち、統哉達を追い詰めていく。
「……くっ、このままではまずいな……!」
頬を真空波が掠め、思わず統哉が呟いたその時、ベルゼブブの双眸が一際紅く輝いた。次の瞬間、ベルゼブブを中心に、大きな竜巻が巻き起こり、統哉達を吹き飛ばした。統哉は背中から壁に叩きつけられ、呻き声が口から漏れた。
「……ぐっ! ……くそっ、とんでもないパワーだ!」
そう呟き、統哉はベルゼブブを見据える。すると、統哉はある事に気付いた。
ベルゼブブの持つ二対の羽の内、一枚の先端が細かい塵のようになり、空間に霧散していくのが見えた。
「あれは……?」
「まずい! 時間がない!」
統哉の呟きに被さるように、ルーシーの切羽詰まった声が響く。すかさず統哉が尋ねる。
「ルーシー、あいつに何が起こってるんだ!?」
「もう彼女は限界だ! この島にきた時点で既に限界を超えていた彼女は、天使を喰らっても意味はなかったんだ! しかもこの戦いで彼女はただでさえ少ないエネルギーを使い切ってしまった事で、彼女の体は自己崩壊を起こし始めているんだ!」
「何だって!?」
その間にもベルゼブブの体は崩壊していく。崩壊は羽の一対を浸食し、消滅させていく。
「……こうなってしまっては、もう彼女を助ける事はできない。ならば、せめて苦しまないように……!」
ルーシーは悲しげな表情で拳を構える。ベルとアスカもしばしの逡巡の末、攻撃態勢に入った。一方統哉はその場を動けずにいた。
「くそっ! もうどうする事もできないのか!?」
統哉が叫んだ時だった。
(助けて……あたしを……止めて……)
「……っ!?」
一瞬、脳裏をよぎった言葉――否、思念に統哉は動きを止めた。
「ベルゼブブ……?」
統哉がベルゼブブに声をかける。彼女は動かずに統哉を見つめていた。
だがそれも一瞬の事で、ベルゼブブは耳障りな咆哮を放った。
「統哉! 何をやっている! 早く彼女を止めないと……!」
ルーシーに声をかけられ、統哉は我に返った。見るとルーシーは拳を胴体に叩きつけようとしていた。
「やめろ!」
統哉の鋭い声がかかった。ルーシーは驚いて拳を引っ込め、バックステップで後退する。
「統哉! 気持ちはわかるけどやるしかないんだ!」
「違う! ルーシー、違うんだ! ベルゼブブはまだ完全に正気を失っていない! もしかしたら、助けられるかもしれない!」
「えっ!?」
ルーシーの表情が驚愕に染まる。
「どうして、それがわかるんだ?」
「よくわからないけど、あいつの声が聞こえた。『助けて』っていう、あいつの声が」
統哉とルーシーはしばし無言で見つめ合う。そして――
「……わかった。君の言葉を信じよう。だが、これが最後のチャンスだ。本当にやばくなったら、その時は覚悟を決めてくれよ?」
統哉は力強く頷いた。
「ベル! アスカ! 話は聞いたな? 統哉曰く、ベルゼブブはまだ完全に正気を失っていないらしい!」
「……できるのか?」
「……助けられるの?」
ベルとアスカが同時に口を開く。統哉は静かに頷いた。
「……ああ。たった今思いついた作戦だけど、やってみる価値はあると思う」
統哉は思念で作戦を素早く伝えた。そして、彼らは頷き合い、行動を開始した。
「――全く、世話が焼けるのは昔から変わっていないな、ベルゼブブ」
憎まれ口を叩きつつも、柔らかな口調でベルが指先に火球を生みだし、一斉に投擲する。数発は直撃コースを、もう数発は足元に向けて放ち、足止めする。
「統哉君があそこまで言うんだもん。だったらわたしも頑張るしかないよね!」
いつの間にか本気モードにシフトしていたアスカがベルゼブブの周囲を取り囲むように電撃の嵐を放つ。これで彼女の動きを封じ、同時にスーパーフライによる離脱も封じているのだ。
それでもなお激しく身を捩って抵抗するベルゼブブに、統哉は<神器>をルシフェリオンからベルブレイザーに切り替え、限界まで弱めた火炎弾を撃ち込んで動きを止める。
そしてついに、ベルゼブブの動きが止まった。
「――ルーシー、任せたぞ!」
上を見上げ、統哉が叫ぶ。視線の先には、足に光を宿したルーシーがいた。
「……動きが完全に止まった一瞬に、最大級でかつ、ギリギリまで手加減した一撃を叩き込む……なかなか難しい事を言ってくれるじゃないか。しかし、私ならば!」
そして、ルーシーは力を解き放った。
「究極! シューティングスターキック! ただしギリギリ全力手加減版!」
光を纏った蹴りを叩き込んだルーシーは相手を蹴り貫かず、蹴りの勢いを利用して統哉達の側へと着地した。
「どうだ……!?」
統哉が息を殺してベルゼブブの様子を窺う。ベルゼブブはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてその巨体は地に倒れた。
そして、ベルゼブブの体がぼんやりとした光に包まれたかと思うと、そこには人の姿に戻ったベルゼブブの姿があった。統哉達は急いで彼女の元へと駆け寄る。
ベルゼブブは焦点の合っていない瞳に虫の息という有様だった。そして、統哉の姿を認めると彼女はゆっくりと口を開いた。
『……統哉……クン……あたシヲ……殺シテ……』
その声は所々歪んでいたが、ベルゼブブそのものだった。だが声には力が全くこもっていなかった。
「お前、何を!?」
『モウ、あたしは助からナイ……ワカルンダ……何もかもアタシから抜け落ちていくのガ……』
その時、統哉の脳裏に、両親を失った時の記憶が蘇った。
何もできなかった自分。大切な人を失った悲しみ。統哉の中に無力感が沸き起こってくる。
(……俺はまた、何もできないのか……? 目の前で、ただこいつを看取る事しかできないのか……?)
その時、統哉の奥底で、何かがコトリと音を立てた。
(――違う! 今の俺には力がある! ルーシーが与えてくれた、生き抜くための力が! 生き抜く力……だったら俺にこいつを生かす事はできないか!? いや、生かしてみせる!)
「……んなよ……」
「……統哉?」
何かを呟いた統哉に、ベルが怪訝そうな顔をする。
「――ふざけんなよ!」
統哉は心の底から叫んだ。統哉の言葉に、堕天使達の顔に動揺が走る。
「もう目の前で誰かを失うなんて、俺は嫌だ! それが、友達の友達だったらなおさらだろっ!」
さらに統哉は言葉を紡ぐ。
「ベルゼブブ! お前はまだ生きたいか!? 生きて、まだ食った事のない美味いものを食ってみたいと思わないか!?」
ベルゼブブの目に、僅かながら活力が戻った。そして、唇が動き、一つの言葉を紡ぎ出す。
(生き……た……い)
それを見た統哉は頷いた。
「魔力を喰いたいんだろ? だったら、たっぷり喰わせてやる!」
統哉は叫び、自分の力を解き放った。髪が銀色に染まり、光彩が縦に裂け、瞳が金色に輝く。彼が持つ潜在能力の覚醒と解放――オーバートランスだ。
「統哉!? 一体何を!?」
ルーシーの叫びに、統哉は確信を持った口調で言い放った。
「俺がこの姿ならば、魔力が桁違いに上がるんだろ! だったらその状態で高まった魔力を、ベルゼブブにありったけ与えればいいんじゃないか!?」
「無茶だ! 今のベルゼブブの魔力枯渇状態は君の想像を遙かに越えるほど深刻なんだぞ! 下手をすれば、君まで魔力枯渇を通り越して、生命力まで彼女に吸い取られてしまう! いくらなんでも――」
「それがどうした!」
なおも喋ろうとするルーシーを制し、統哉はベルゼブブの手を取る。
「できるできないの問題じゃない。やるしかなければやるだけだ! この力で、俺は今度こそ助けられる命を助けたいんだ!」
統哉はそう言い切り、ベルゼブブの手をしっかりと握り、彼女に魔力を流すよう働きかける。
次の瞬間、統哉は自分の魔力が凄まじい勢いでベルゼブブに吸収されていくのを感じ取った。それはまるで、とてつもなく強力なバキュームで自分の全てを吸い込まれているような錯覚を彼に与えた。
「……ぐっ……ああああっ!」
あまりの勢いに、統哉は苦悶の呻き声を上げる。だがそれでも彼は手を離さず、魔力を分け与える事を決してやめようとしなかった。
堕天使達はその凄絶さに、呆然とその様子を見ているだけだった。だがその時、ルーシーが立ち上がった。
「――統哉が頑張っているというのに、私が指をくわえてみているわけにもいかないな。彼の言う通り、彼女は私の仲間であり、友達だからな」
そう言って、ルーシーは統哉の元へと歩いていく。それを見ていたベルとアスカだったが、やがてお互いに頷き合い、立ち上がった。
「……全く、世話の焼ける坊やだ」
「でも、それがとーやくんらしいけどね~」
「……ところで、勝負はどうするんだ?」
ベルの問いにアスカはいつもの柔和な笑みを浮かべて――
「……もう、なかった事にしていいんじゃない? むしろ、ここでえるえるを助ける事ができれば全員の勝ちって事で~」
「――そうだな。ベル達と、統哉の勝ちだ」
ベルとアスカは軽く笑い合い、統哉の側へ向かう。
そして堕天使達は統哉の側へ歩み寄り、何も言わずに手を伸ばし、統哉の手に重ねた。
「……みんな……」
流し込まれる魔力が大きくなるのを感じて、統哉は彼女達が必死に力を振り絞って、友を救おうとしている事を知った。
「戻ってこい、ベルゼブブ」
「このベルがここまで力を分けているんだからな、戻ってこなかったら承知しないぞ」
「えるえる、戻ってこなかったら、わたし泣いちゃうよ~?」
統哉は彼女達に目を向け、軽く頷いた。そして自分も、ありったけの魔力をベルゼブブに分け与える事に集中した。
(戻ってこい、ベルゼブブ。みんな、お前を待っている。ルーシー、ベル、アスカ、俺がお前を信じて待っているんだ。正気に戻ってくれ。元の、人懐っこい笑顔が素敵なお前に)
統哉は祈るような気持ちで魔力を与え続けた。
――戻ってくれ!
長い時間が過ぎたように感じた。そして――
「おいしい……」
統哉の意識がブラックアウトする寸前、彼はベルゼブブの満足そうな声を聞いた気がした。




