Chapter 5:Part 06 暴食系女子
「ベルゼブブ……?」
統哉が呟く。その名は以前堕天使について調べていた時にルーシーから聞かされていた。
ベルゼブブ。
七大罪の一つ、「暴食」を司る堕天使で、その名は「蠅の王」を意味する。
だが統哉には、目の前の、それも日中に談笑し、意気投合した彼女が堕天使だとは思えなかった。
何故なら、統哉は彼女からは全く魔力を感じていないからだ。
「……ここに来るまでの惨状は、君の仕業だな?」
いつ、何が起きてもいいように、いつでも行動を起こせる体勢へとごく自然に移行したルーシーが尋ねる。
「ん、そだよー。いい運動にはなったかなー」
その問いにベルゼブブは何て事ないかのように答える。その言葉に、堕天使達の表情が険しいものへと変わった。
「……では、ここにいた天使共はどうした?」
ベルが低い声で尋ねる。
「ああ、さっきからいっぱい襲ってきた天使達? それなら――」
そして、彼女は一呼吸おき――
「食べちゃった♪」
親に悪戯がバレた時のような、そんな軽い口調でそう宣言した。
「食べ……た……?」
統哉が怪訝な顔をする。それに対し、ベルゼブブはあの人懐っこい笑顔を浮かべる。だがその笑顔は瞳が紅く輝き、目は笑っていなかった。
「うん、そうだよ。腹ぺこなのが限界だった時に、たまたまここに来たら、<結界>ができたじゃない? そしたら天使達がいっぱいやってきてさ、お腹がもの凄くペコペコだったあたしはもう我慢ができなくてそいつらみーんな食べちゃった。で、この中にもいっぱい天使がいたからさ、やっぱりみんな食べちゃった♪ いやー、あんなにたくさんの天使を食べたのって本当にご無沙汰だったよー」
「……っ」
さも当然の事のように――それこそたまたま立ち寄った所で大食い大会に参加したかのような口振りで話すベルゼブブに、統哉は青ざめ、目眩を覚えた。あの異形共をこの女性が喰らったというのは、にわかには信じられなかった。だが、あの状況から見て統哉はそれが事実と受け入れざるを得なかった。
「――ここにいた守護天使はどうした?」
ルーシーが険しい表情を崩す事なく尋ねる。
「守護天使? ああ、あの歌姫みたいな天使の事だよね。あいつはね、手強かったけど、と~っても美味しかったよー」
心の底から満足そうな表情を浮かべるベルゼブブ。そんな彼女にルーシーは歯噛みしつつさらに尋ねる。
「では、<欠片>はどうした?」
「<欠片>? ああ、あの丸っこい球の事かー。あれは硬くて歯が立たなかったから、丸呑みしちゃった♪」
あっけらかんとした発言に、ルーシーをはじめ一行はぽかんと口を開けた。特に統哉は今までの堕天使にない、ベルゼブブの常軌を逸した行動に、意識が飛びかけた程だった。
「き、君は、<欠片>まで喰ったのか……!?」
ルーシーが信じられないという口調で声を発する。
「うん。喉に詰まるかと思ったけど、あれを食べたらさ、魔力がいっぱい溢れてきてね、あたしのお腹も、魔力も大分満たされたんだよねぇっ!」
ベルゼブブが言い終えるか否かの刹那、統哉は本能的な危険を感じ取り、瞬時に輝石を呼び出し、ルシフェリオンを生成、前方に構えた。
次の瞬間、ベルゼブブの魔力が爆発的に高まり、彼女を中心とした強烈な魔力の奔流が放たれた。それは暴風のように強烈な勢いで統哉達に殺到する。統哉はルシフェリオンを必死に構え、その奔流を凌ぐ。堕天使達も瞬時に魔力の盾を作りだし、相殺する。
爆発的な魔力の奔流と衝撃がステージを駆け抜ける。が、突如魔力の奔流がピタリと止んだ。不審に思った統哉達はそろそろと防御を解く。そこには力を抜いて、ただ俯いて立つベルゼブブの姿があった。
「でもさ……」
突如、声色を低くしたベルゼブブに、統哉達は素早く目を向けた。
「腹ぺこなんだよ……ひもじいんだよぉ……」
かろうじて聞き取れるほどの声でベルゼブブは呟く。
「数ヶ月前に、この世界で目が覚めたのはいいけど、力が――それも魔力がとてつもなく弱まっててさ。そのせいでいつもいつも空腹に苛まれてた。でも、毎日必死に生きてたよ、あたし。そして、流れるようにこの島に来てからは、ずっと腹ぺこで、しんどくて、どんどん体中から力や魔力が抜けちゃってさぁ、いくら食べても食べても全然満たされなくってさぁ……でも」
唇が、両端からきゅっと吊り上がった。
「みんな、とっても、美味しそう――みんな、あたしが食べちゃえば、もう腹ぺこにならなくてすむかなぁ……?」
「みんな食べるって……ベルゼブブ、一体何を……っ!?」
ベルゼブブが発した異常な言葉に、統哉が反応した時――
ベルゼブブの紅の瞳が血走り、これまでになく強い、飢えた光を発した。
『……モウ、我慢デキナイヤ……統哉君……喰ッテモイイ……? 喰ッテモイイヨネ……?』
その時、ベルゼブブに異変が起きた。首がありえない角度に捩れ、背後に立っていた統哉達に、血走った事で深みを増した紅の瞳を向けた。そこには、極限までに高まった「飢え」が映っていた。
そして、緩慢な動作で統哉達に向き直り、ゆっくりと口を開いた。
『……違ウ……統哉君、みんな、アタシ……』
歪んだ声で途切れ途切れにベルゼブブは言葉を紡いだ。
『アタシ、違ウ、コンナノ、望ンデナイ……あたしは……アタシハ……』
統哉は、ベルゼブブが浮かべる悲しげな表情を見た。だが――
『……アタシハ…………ミンナヲ喰ライタイ!』
次の瞬間、ベルゼブブの体からはゴキゴキ、バキバキと耳を塞ぎたくような不協和音と共に、どこからともなく飛んできた蠅の大群が頭の先から爪先まで、ベルゼブブの体を埋め尽くし、それはどんどん面積を大きくしていく。
目の前で繰り広げられている、目や耳だけでは足らない、感覚を遮断したくなるほどの光景に、思わず統哉は震え上がった。だが統哉はその光景を見つめるしかできなかった。
『――コレ喰ッテモイイカナ? イイヨネ? 答エハ聞イテナイ!』
蠅の固まりはしばらくの間伸縮を繰り返していたが、やがて蠅の大群は飛び散った。そして、そこから姿を現した者は、まさに「蠅の王」と呼ぶに相応しい存在だった。
「何だよ……これ……」
今になってこみ上げてきた吐き気を必死に抑えながら、統哉は呆然と呟いた。
ベルゼブブが立っていた場所に現れたのは、六本の脚を持つ、巨大な黒い昆虫のような化け物だった。昆虫らしい、くびれた腰と長い手足。全身は甲虫を思わせるような、鈍く光る固い皮膚に覆われ、頭部には昆虫そのものの複眼が二つ、爛々と紅く輝いている。
頭の先からは二本の触覚が生え、獲物を探すかのように絶えず動いており、背中からは巨大な二対の羽が生え、その内の一対には、ドクロが描かれている。
六本の脚のうち、上段と中断の脚には鋭い鉤爪が光り、下部の脚は強靱な筋肉を備え、しっかりと床を踏み締めている。
そして、その異形の口から漏れた声は、壊れたスピーカーを通したかのように歪んでいたが、ベルゼブブの声に違いなかった。
だが、飢えに満ちた紅の双眸は、もはや統哉達を「エサ」としかみなしていなかった。肉を裂き、骨を砕き、命を奪い、その全てを己が糧とするための、上等なエサとしか。
『アタシ、ミンナ、マルカジリ!』
「――あれこそ、魔力が枯渇し、飢えが理性を覆い尽くした暴食の化身――ベルゼブブ暴走態だ!」
ルーシーの叫びがこだました。
『アハハハハハハハハ! サア、メインディッシュダヨ!』
そして、歓喜に満ち溢れた狂笑が響き渡った。




