Chapter 9:Part 15 黒の襲撃者
歩き続ける事数時間。
その間、マモンは襲撃を受ける事なく順調に歩みを進めていた。
やがて、彼女の眼前にかつて栄華を誇っていたであろう都市の廃墟が見えてきた。
「かつてこの場所に暮らしていた人間は、どのような生活を送っていたのかしら」
一人ごちるマモン。ふと、周囲の背景に目をやる。
砂の海に沈む建物の残骸。ほとんど原型を留めていない金属製の乗り物の骨組み。街灯とも標識のポールとも見分けが付かないほど折れ曲がり、捻じくれている金属製の柱。
それらが、この場所に都市があったという事を示すかすかな証だった。
人類が栄華を極め、やがて衰退への道を転がり落ち始めたこの世界は人類同士の戦争や環境の著しい変化、そして天使や悪魔の度重なる介入によって混沌の一途を辿っていた。その流れに飲まれ、いくつもの都市が滅び去っていった。
この場所に住んでいた人間は、どのような思いで日々を生きていたのか。そして、どのような思いで最期の瞬間を迎えたのか。
そんな考えを巡らせながら、マモンは都市廃墟へと足を踏み入れた。
次の瞬間、周囲の空気が微妙に張り詰めたものに変わったのを彼女は感じ取った。
歩く速度と足運びは変わらないものの、いつ仕掛けてきても対応できるよう即座に動ける体勢にしておく。
歩きながら都市の奥にそびえ立つ宮殿の廃墟を軽く見やり、そして周囲の建物の廃墟に気を配る。
少なくとも今の時点では廃墟の中に敵が潜んでいる様子はない。もし仕掛けてくるとすれば黒い方か、それとも白い方か。
今はともかく、二人の本拠地である宮殿の廃墟を目指す事が優先事項だ。
そこまでの距離を目で測り、何分で到達できるかをマモンは頭の中で計算しようとしたその時だった。
マモンは何か張りつめた糸のようなものを切った感触を覚えた。直後、彼女の側にあった瓦礫が大きな爆発を起こした。
マモンは凄まじい反応速度でその場から大きく飛び退く。一瞬遅れて爆発で弾け飛んだ瓦礫の破片が散弾のようにマモンが立っていた場所に降りかかった。
「ブービートラップですか……!」
思わず呟く。かつて退屈しのぎに見た戦争ものの映画で、ジャングルで草木の間に張られていたワイヤーを気付かずに切断した兵士が直後に降ってきたトゲ付きの丸太に串刺しにされた一場面を思い出した。
仮にあのトラップから逃れるのが遅れ、爆発と瓦礫の直撃を受けたとしても、堕天使である自分なら軽傷にも入らない程度のダメージで済むだろう(もっとも、人間が受けた場合だったら間違いなく見るも無惨な事になるのは火を見るより明らかだが)。
「そんなものでこのわたくしを倒そうなどとは……」
笑止、と言いかけたその時、彼女は再び糸のようなものを切った感触を覚えた。
直後、別の場所で爆発。
「またですの!?」
思わず叫び、着地する寸前に身を翻し、爆発と瓦礫を回避。さらに何かを切った感触。爆発。爆風と瓦礫。回避。切った感触。爆発。爆風と瓦礫。回避。切った感触。爆発――。
マモンは何度も繰り返される爆発と爆風、瓦礫の散弾を回避し続ける。が、堕天使である流石の彼女も息が上がっている。
「……ああもう! いい加減にしなさい!」
ついに苛立ちが頂点に達したらしく、マモンが声を荒らげて叫ぶ。
その瞬間、彼女の周囲三六〇度でほぼ同時に爆発が起こった。マモンが何が起きたのかを察するよりも早く、乱立する高層ビルと鉄塔の残骸が一斉にマモンめがけて襲いかかってきた。
「――よし」
感情のない声で黒い戦闘スーツに身を包んだ少女――マルファスは呟いた。
一斉に爆発の起きた範囲から近く、かつ爆発と爆風と瓦礫の被害を受けないほどの距離にある廃墟内に、細心の注意を払って姿はおろか気配、魔力をも完全に遮断した状態で隠れていたマルファスは自分の作戦が完璧に成功した事に内心ほくそ笑んだ。
彼女の作戦はこうだ。
宮殿廃墟の周辺区域、それも全域にワイヤートラップ――蜘蛛糸のようにとても細くて気付かれにくく、かつ少しでも触れると切れるよう強度を調節したワイヤーに、人間が受けたなら肉片すら残さないほどの過剰なまでの威力を備えた小型爆弾を仕掛ける。
それを仕掛け終えた後、周囲の建物より一段大きな高層ビルと鉄塔の残骸が乱立し、かつその中心部へそれらが倒れ込むよう爆薬を設置する。起爆装置は自分の手元にある起爆スイッチ。そのスイッチを押すとビルと鉄塔の残骸に仕掛けた爆薬が「ほぼ」同時に爆発する仕掛けだ。
この「ほぼ」同時というところがミソである。
全てを一斉に起爆させても、堕天使、それも七大罪クラスの身体能力なら隙間を縫うか、潜り込む事によって回避されてしまうだろう。しかし、爆発にわずかなラグを生じさせる事によって回避ルートを潰す事ができる。一つを避けても別の建物の崩壊によってマモンを潰す事ができる計算だ。いくら七大罪といえども大きな質量を持つ鉄筋コンクリートと瓦礫の雨に潰されては再生も間に合わないだろう。
相手がこの作戦にかからないという懸念ももちろんあった。しかしマルファスは地上界における、長期に渡る潜入・諜報活動、暗殺で培ってきた経験から相手がどのように動くかを地形面と心理面から分析し、爆発と爆風の威力、瓦礫が飛び散る方向を一つ一つ計算し、相手が必ず目的地へ向かうように爆薬をセットして回った。
そして、相手は自分の思惑通りに動き、作戦は完璧に成功した。あとは相手の死体を発見、死んでいるかを確認すれば終わりだ。
そう考え、マルファスは隠れていた廃墟から姿を現した。
前方はビルと鉄塔の残骸を一斉に爆破した事によって生じた巨大な土煙に覆われていて全く見えない。これは少々やりすぎたかとマルファスが考えたその時だった。
「――今のは、なかなか危なかったですわ」
土煙の中から、よく通る声が聞こえてきた。その瞬間マルファスは全身の毛穴が総立つのをはっきりと感じ取った。
「――発想は素晴らしいものでしたが、相手が悪かったですわね」
再び土煙の中から声が響く。マルファスは焦りを気取られないように平静を装いつつ、腰を低く落としていつでも動けるよう身構える。
すると、土煙の中から人影がゆっくりとこちらへ近付いてくる。そして、マルファスから二メートルほどの距離まで近付いたところで足を止めた。
その時、強風が吹き、土煙を吹き飛ばした。
土煙の先から現れたのは、純金をそのまま一本一本の髪の毛にしたかのような美しい金髪、まっすぐにこちらを見据えるその目は楽しげと言いたげに細められ、紫水晶を思わせる紫色に輝いている。
着物をモチーフとした黒いドレスは多少の砂埃で汚れてはいるものの、あれだけの爆発と爆風、そして瓦礫の雨に曝されたにもかかわらず、少しの綻びも見受けられない。
「ど、どうして……」
「『どうして』、なんてお決まりの台詞はやめていただけませんこと? ただ、あの時わたくしは自分の身体能力を一気に引き上げた上で、倒れかかる建物と瓦礫のほんの僅かな隙間を最短距離で駆け抜けただけですわ。しかし、レディにあんな運動を強いるなんて、貴女もなかなか意地悪ですのね」
思わず狼狽するマルファスにマモンは身体の前に流れていた金髪を優雅な所作で払いながら何て事ないかのように言う。言葉こそ不機嫌そうだが、口調は楽しげだ。
一方のマルファスはその一言でさらに焦っていた。マモンの言う事が正しければ、彼女は崩れ落ちる瓦礫のほんの僅かな隙間を、迅速に、かつ針の穴に通すほどの正確さをもって突破した事になる。もしあの場にいたのが自分ならば、即座にそう判断し、行動に移せるだろうか。そして相手はその判断と行動を当たり前のようにやってのけてしまうほどの人物。マルファスの中では、この者に勝てるイメージが浮かばなくなっていた。
自分に迫る危機によって狼狽するマルファスをよそに、マモンはさて、と言葉を継ぐ。
「やっと、会えましたわね。わたくし、七大罪が一人、『強欲』のマモンと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
柔和な笑みを浮かべ、会えるのを心から楽しみにしていたという口調で語りかけながらマモンは優雅に一礼した。
「……マルファス、です」
相手のペースに飲まれてか、思わずマルファスも自己紹介を返してしまう。
「さて、事前に通達した通り、これから貴女を捕縛させていただきますが……覚悟はよろしくて?」
マモンが静かに告げる。口調こそ穏やかだが、その目には有無を言わせぬ強い意志が宿っている事をマルファスは感じていた。
マルファスが考えている中、一歩、また一歩とマモンが距離を詰めてくる。そして、二人の相対する距離が一メートルを切ったその時――
「キエーーッ!」
突如マルファスは奇声を発したかと思うと、すぐ側にあった壁の残骸を駆け上がり、その頂点で大きく跳躍し、廃墟から廃墟へと目にも留まらぬスピードで飛び移っていった。
そして、その場にはマモン一人が残された。彼女はしばらくその場で呆然と立ち尽くしていたが、やがて小さく呟いた。
「……そうですか。今度は鬼ごっこというわけですか。いいでしょう。ならば貴女が満足いくまでお付き合いしてさしあげますわ」
そこまで呟いた後、彼女は口元を三日月のように歪め、不敵な笑みを浮かべた。
「――さあ、狩りの時間と参りましょう」
「……逃げも隠れもしますよ、あれは……!」
廃墟の一角に身を潜めたマルファスは荒い息を整えつつ、額の汗を拭った。
「……しかし、あれが七大罪……あの距離で、あそこまでのプレッシャーを感じさせるとは……」
直接対峙したのはほんの数分だったが、その間にマルファスはマモンの力量を感じ取っていた。
もしかすると自分達はとんでもない相手に喧嘩を売ったのではないかという後悔の念が今になって押し寄せてきた。
しかし、マルファスは首を数度力強く振って不安や恐怖といった感情を強引に振り払った。
そうだ。自分達は自由を守るために戦うんだ。相手が誰であれ、全力で戦って、自由を勝ち取るんだ。
自由を勝ち取るという意志が、マルファスの中に宿る闘志を引き出す。闘志を引き出した彼女は冷静な思考を取り戻し、今自分が下せる最大の一手を必死に探っていた。
最大の手段であった建物の爆破は失敗に終わった。もはや爆薬類は残っていない。ならば――
彼女はスーツの両足に装備している、コンバットナイフを納めたシースに手をやる。
「自分の持ち味を最大限に活かす……それだけですね」
そう呟くと、マルファスはその場から音もなく姿を消した。
「さあて、獲物さんはどこかしら?」
場違いなほどに明るい口調でマモンは廃墟を進む。その足取りはまるで散歩をしているかのようで、これまた今の状況に相応しくないものだった。
「しかし、これはわたくしにとって分が悪いですわね。本来なら地震を起こすなり、瓦礫を吹き飛ばすなりして炙り出すんですが……これは向こうから仕掛けて来るのを待つしかないかしら?」
するとマモンは軽く咳払いをすると――
「出てらっしゃいな~。隠れていても無駄ですわよ~」
あろうことか、大声でマルファスに向かって呼びかけながら歩くという行動に出たのだった。
「それともアレかしら、豆が欲しいのかしら? 豆が欲しいなら、出てきてくださるならば欲しいだけ差し上げま――――ッ!?」
彼女がそこまで呟いたその時、突如、物陰から何か光るものがマモンめがけて飛んできた。マモンは即座に反応し、素早く横に飛び退いてそれをかわした。
刹那、その場所に何かが突き刺さった。マモンが目を凝らして見ると、それはスローイングナイフだった。
彼女がスローイングナイフを認識するや否や、彼女の直感が閃いた。彼女が咄嗟に視線を向けると、再び自分に向かって何かが高速で向かってくるのが目に入った。よく見るとそれは指先ほどの大きさをした数個の金属の玉だった。
その時、マモンは堕天使が持つ凄まじい動体視力によって奇妙な光景を捉えていた。
突如、その金属の玉が波打ったかと思うと、それが急激に引き伸ばされ、形を変えていく。次の瞬間、金属の玉だったものはスローイングナイフとへ形を変え、勢いを減衰させる事なくマモンへ殺到する。
マモンは咄嗟に飛び退いてスローイングナイフをかわすが、金属の玉がスローイングナイフへと変化する様に目を奪われていたために反応が一瞬遅れていた。結果、ナイフがドレスの裾を掠め、切れ目を作った。マモンは思わず舌打ちする。
マモンはすかさず廃墟の中へと飛び込み、息を整える。
「――今のは、錬金術に魔術を組み合わせたものかしら。しかし、方向性の異なる二つの技術体系を組み合わせる事、それにあれほどの速さと正確さを併せ持っているとは、そうそうできるものではありませんわね」
マモンが純粋な驚愕を込めた口調で呟く。元々魔術と錬金術とは堕天使が地上へもたらした知識の一つで、それを人間達が独自に研究、発展させたものだ。物質の構成や特性を理解し、異なるもの同士を融合させたり、一つの物質を分解、再構築する錬金術。魔力を元に人智を越えた力を生み、解き放つ魔術。方向性の違う二つの業を組み合わせる事によって更なる大きな力を生み出す。それを組み合わせるだけではなく、息をするように、できて当然と言い切るように完璧に使いこなしている様に、マモンは口元が緩んでいくのを止められなかった。
「……素晴らしいですわ、マルファスさん。貴女、最高でしてよ」
思わずニヤリと笑う。直後、再び金属の玉が変化したスローイングナイフが飛来する。回避できないようにするためだろう、時間差をつけて放たれたスローイングナイフをマモンは凄まじい体捌きでかわす。さらに間髪置かず、一瞬の隙を突いて廃墟の陰に潜んでいたマルファスが大振りのコンバットナイフを構えて飛びかかってきた。
マモンはこれまた凄まじい反応速度で体を傾け、振るわれたナイフを回避する。一撃を外したマルファスは軽く舌打ちすると再び廃墟の中へと飛び込み、姿を消した。
「……なるほど、スローイングナイフで牽制しつつ、一瞬の隙を狙って得物による一撃必殺を狙うというわけですか。ですが――」
マモンはそこで言葉を切り、紫水晶を思わせる瞳に意志を込めた。
「そんな回りくどい戦い方はナンセンスですわ。物事はスマートに、かつエレガントに。このマモンの戦い方、存分に見せてさしあげますわ……!」
そう一人ごち、マモンは全身の力を抜き、ごく自然に身構える。直後、マモンを取り囲むように無数のスローイングナイフが一斉に飛んできた。しかしマモンは全く焦る事なく、すっと右腕を掲げる。すると、手元の空間が歪む。
<大烏の嘴>。
マモンにとって、剣でもあり、槍でもある武器。黒く輝く、細い両刃を持つそれが彼女の手に握られた。次の瞬間、マモンは<大烏の嘴>を構え、それを回転する風車のように、高速で振り回しながらその場で横に一回転した。
自分の身の丈ほどもある漆黒の刃が、目にも留まらぬ速さで風車のように振り回された事によって、マモンを刺し貫こうとしていた無数のスローイングナイフはほぼ同時に、全て粉砕された。
マモンは<大烏の嘴>を高速で振り回したためか、得物を振り抜いた姿勢でその場から動かない。だがその隙を見逃すほど、マルファスは甘くなかった。音と気配を完全に消し、彼女の死角に忍び寄っていた彼女は両手にコンバットナイフを構え、自分の身体能力を最大に引き出し、両腕を交差させてマモンへ飛びかかった。
極限まで研ぎ澄まされた身体能力と、鈍色の刃がマモンを切り裂こうとする。しかしマモンは得物を振り抜いた姿勢で、マルファスに一瞥くれる事なく、一気に得物を横へ振り抜いた。
この行動にマルファスも思わず驚愕の表情を浮かべる。刹那、手の中にあったコンバットナイフが砂糖菓子のように砕け散る。手の中に走る衝撃。そして襲いかかる衝撃波。マモンが振るった<大烏の嘴>によって生じた衝撃波によって、マルファスは吹き飛ばされた。
吹き飛ばされたマルファスの体は廃墟の壁にぶつかって止まり、彼女は思わず呻いた。呻きながらもマルファスは全身の力を振り絞って体を動かそうとする。骨や内蔵にダメージはほとんどないが、衝撃波によって叩きつけられた体は痺れ、思うように動かない。それでも彼女は瓦礫を背もたれにしながら辛うじて首から上を動かし、相手を見据える。しかし直後、マルファスは驚愕した。
彼女の視線の先では、マモンが深く腰を落としつつ、得物を軽く持ち上げる姿が見えた。そして、穂先をこちらに向け、それに軽く左手を添える。それはさながら、ビリヤードのキューを構えるかのようだ。一連の動作は一秒足らずだったが、マルファスにはそれが長い時間のように思えるほど、マモンの動作は美しく、鮮烈な印象を彼女に与えていた。
そして、マモンは一歩を踏み出した。それはまるで、歩くような優雅さだった。
次の瞬間、マモンの姿が一瞬でかき消えた。それが優雅な一歩から繰り出された強烈な踏み込みと、一瞬で自分の身体能力を一気に引き上げる業、そして背中の翼を羽ばたかせる事によって得られた推進力を使った爆発的な加速によるものだと理解したのは、得物を突き出した姿勢でマモンがすぐ眼前まで迫ってきた時だった。
突き刺さる刃、そして建材の砕ける音と衝撃。
しばしの静寂の後、マモンが口を開いた。
「チェックメイト、ですわね」
そう言ってマモンは得物の柄から手を離した。
「……しかし、最後の最後にまさかの手痛いしっぺ返しをもらってしまいましたわ」
そう言ってマモンは自分の右手の甲に目をやる。そこには三センチほどの切り傷があった。だがマモンは右手を動かそうとはしなかった。いや、できなかったといった方が正しい。
「七大罪であるわたくしをここまで麻痺させる事ができる毒……どんな毒ですの?」
そう言ってマモンは自分を傷つけた相手を見下ろす。その声に怒りはなく、純粋な疑問が込められた声だった。
「……毒を持つ魔獣から採取した体液や分泌物を特別な配合で調合した、超強力な麻痺毒を塗ったナイフです……もしも人間が食らったなら一瞬で全身の神経が麻痺し、死に至るほどのね……ですが正直言って、あなたのような方に効くかどうかは一つの賭けでした」
息も絶え絶えといった様子でマルファスが答える。その手にはコンバットナイフよりもかなりコンパクトな一振りのナイフが握られていた。そして、彼女の顔の横、僅か数センチのところに<大烏の嘴>が突き刺さっている。
「あなたは私を捕縛すると宣言していた。だからあの一撃も私を殺すつもりで放ったものではないとわかっていました。だからこそ、私はその隙に全てを賭けたんです。まあ、結果は酷いものでしたが一矢報いる事ができただけでもよしとしましょう」
してやったりといった表情でマルファスは笑った。それにつられてマモンも微笑んでみせる。
「確かに、今のわたくしの右腕はまるで感覚がありませんわ。おそらく当分はこの右腕は使い物にならないでしょうね。それにしても、わたくしを迎え撃つための入念な準備、それでわたくしを仕留められなくとも、冷静かつ大胆に次の手を打つ、一瞬の隙を逃さない観察力と行動力……素晴らしいですわ。文句なしの合格です」
「…………え? 合格?」
間抜けな顔をしながらマルファスが尋ねる。するとマモンは何て事ないかのように頷いた。
「ええ。採用試験は合格ですわ」
「ちょ、採用試験ってどういう事ですか!」
マルファスは己を苛む痛みと疲労感も忘れ、体をがばりと起こしてマモンを見やった。
「ちょうど、わたくし直属の従者が欲しくなりましてね。そこへ貴女達の情報が入ってきたので、わたくしはそれに興味を抱き、捕縛ついでに貴女達をわたくしの従者にするための試験をしようと思い立ったのです」
「な……な……」
マルファスは驚愕に目を見開き、わなわなと体を震わせている。無理もないだろう。入念な準備を整え、自分達の縄張りに過剰なまでに罠を張り、必死に戦った相手がまさか自分達のヘッドハンティングのためだけに自分達と戦ったとは。
「たったそれだけのために、あなたはあそこまでやりあったというのですか……!? 砂漠のヌシを討ち、廃墟都市に仕掛けた罠をくぐり抜け、私と戦ったというのですか!」
マルファスが怒りと呆れと悲痛さが入り混じった叫びを上げる。しかしマモンはどこ吹く風と言わんばかりにしれっと言った。
「ええ、その通りですわ。そして貴女は見事わたくしの眼鏡に適う人材と判断いたしました」
そこでマモンは一旦言葉を切り、続けた。
「ですが、現時点ではあくまで内定という形。貴女を正式採用するのはもう一人の試験を終えてからですわ。だからそれまで貴女はここで休んでいてくださいな」
そう言うとマモンは有無を言わせず、首筋に左手で手刀を叩き込んだ。マルファスは軽く呻いた後白目を剥き、その場に倒れ伏した。
マモンはそれを確かめると、<大烏の嘴>に左手をかざして魔力を流し、金色の粒子へと戻した。粒子が空間に溶けると同時に、握られていた右手が力なくだらりと垂れ下がった。指一本動かない右手を見やり、彼女は溜息をついた。
「……しかし、これからどうしたものでしょうか。<大烏の嘴>を利き腕でない腕で扱うのはかなり難儀ですわ。もう一人の方の試験を行うのに、どう戦いましょう、どうしましょう」
上品な仕草で首を傾げた後、マモンはゆったりとした足取りで廃墟都市の奥へと進んでいった。




