Chapter 8:Part 13 浮上
――きなさい!
ふと、誰かに声をかけられたような気がして、統哉はそっと目を開けた。
だが、視界に広がったのは一面の闇で、辛うじて自分の体が視認できる程度だった。それから統哉は自分の体が指一本動かせない事と、体が徐々に闇へ沈んでいっている事に気付いた。何かに拘束されているわけではないが、統哉がどれほど体を動かそうと意識しても、体に全く力が入らず、あがく事ができないのだ。
そんな状況で統哉はまるで他人事のように自分に何が起きたのかを思い出していた。
確か自分は沈んでいたルーシーを見つけて助けようとしたが、そこで息ができなくなって力尽きてしまったのだ。ふと気付くと、ルーシーの姿も見えない。自分が気を失っている間にどこかではぐれてしまったのか。その事が統哉の心をさらなる不安へ追い込んでいく。
自分は、ここまでなのか。
統哉が己の無力さを悔やんでいたその時――
――さ……と……なさい!
統哉の意識に、微かな声が響く。それはいかにも気が強そうな少女の声だった。その声に統哉の意識をはっきりとしたものにさせていく。
そうだ。自分はさっきもこんな声を聞いた気がする。だが、誰なのかを思い出す事ができない。
そうしている間にも、統哉の体は闇に沈んでいく。
――諦めない……よ! アンタ……終わる気なの!?
必死に自分へ呼びかけてくる少女の声に、統哉の奥底で何かが動いた。
そうだ。自分は生きなければならない。こんなところで終わるわけにはいかない。生きて、ルーシーとの約束を果たさなければならない!
――そうよ! 目を開けなさい! 起きるのよ! 起きなさい!
統哉の意識がだんだんと覚醒していく。それに伴い、訴えかけてくる少女の声もはっきりと聞こえてくる。だが、まだ体を動かす事ができないでいた。
――ああもう! さっさと起きなさいつってんでしょ、八神統哉! これで起きなかったら、未来永劫妬むわよ! だから、これで目を覚ましなさい!
少女の一際大きい叫びが響いた後、統哉は唇に何か柔らかくて暖かいものが触れたのを感じた。
その感触を通じて、統哉は自分の体に急激に力が漲ってくるのを感じた。今まで動かなかった体が動く。
「……そうだ! まだ俺は、こんな事で終わるわけにはいかないんだ!」
その直後、闇が裂け、一筋の光が差し込んできた。そして、光の中から青く輝く手が統哉に向かって伸びてくる。
統哉は迷う事なく、その手を掴んだ。手を掴んだ瞬間、統哉の体は凄まじい力で持ち上げられ、光の中に引き込まれていった。
突如、呼吸が楽になった事で統哉は意識を取り戻した。体が本能的に失っていた酸素を取り戻すために深呼吸を数度行い、肺に酸素を取り込んでいく。
呼吸が落ち着いてくると同時に、霞がかった思考が急速にクリアになっていく。
確か自分はザドキエルとの戦闘の最中、攻撃を受けて水底へルーシーを助けようと水に飛び込み、ルーシーを見つけたものの、息が続かなくなり、水を飲み込んでしまい意識を失ってしまったのだ。だが、一体どうして自分は呼吸ができているのか?
その時、統哉はおぼろげな視界の中に自分の顔を覗き込んでいる者がいる事に気付いた。徐々に鮮明になっていく視界の先にあったのは、澄んだ水を思わせる水色の髪を短めのツインテールに結わえ、エメラルドグリーンの瞳で自分を心配そうに見つめている、海洋生物を思わせる戦闘スーツに身を包んだ少女だった。
「レヴィア、タン?」
半ばぼうっとしながらも、統哉は目の前の少女――レヴィアタンに呼びかける。すると、レヴィアタンはエメラルドグリーンの瞳を潤ませながら頷いた。
「よかった……やっと目を覚ましたのね。もし目が覚めなかったら、アンタを未来永劫妬んで妬んで妬みつくすところだったわ!」
声を震わせるレヴィアタン。統哉がよく見ると、目尻に涙の粒が光っているのが見えた。
「……レヴィアタン、もしかしてお前、泣いてるのか?」
「な、泣いてなんかいないしっ! 水の中だから、水滴が付いただけよ! ほら、馬鹿な事言ってる暇があるならさっさと起きなさいな!」
少し声を上擦らせ、目元をゴシゴシと擦るレヴィアタン。そんな彼女の仕草に統哉はクスリと微笑み、体を起こそうとした。すると、起こそうとした体が大きく前のめりになってしまい、統哉は慌ててバランスをとった。
周囲を見渡すと、統哉は今、自分達が半径三メートルほどの巨大な泡のような球体の中に浮かんでいる事に気が付いた。
「そういえば、ここは……?」
「ここはアンタ達が落ちた水の中に、アタシの力で作り出した結界よ。これがあれば、水中でも陸地と同じように呼吸と活動ができるのよ。まあ、無重力っぽくなっているのが瑕にきずだけど」
レヴィアタンに説明され、統哉は初めて自分が水中にいるにもかかわらず呼吸ができている事に気が付いた。そして、すぐ側にルーシーが横たわっているのを見つけ、近付いた。
「ルーシー! 大丈夫か!?」
統哉は横たわっているルーシーに近付き、声をかけた。よく観察してみると、ルーシーは意識を失ってはいるものの、ゆっくりと胸が上下している事から、呼吸をしている事がわかった。
「ルシフェルなら大丈夫よ。さっきザドキエルから奪い返した<慈悲>の<欠片>を戻してあげたから、しばらくしたら目を覚ますはずよ」
レヴィアタンに声をかけられ、統哉は彼女とルーシーを交互に見やると、大きなため息をついた。
「よ、よかった……レヴィアタン、ありがとうな。けれど、あれから何があったんだ? 確か俺はルーシーを見つけたところで溺れてしまったと思うんだけど」
「アンタ達を見つけた時、二人とも水を飲んでいたせいで息をしていなかったのよ。堕天使や<天士>の身体能力が普通の人間より桁違いとはいえ、長い事溺れていると意味がないもの。ひとまずアタシはすぐに水中呼吸ができる空間を作って、それからすぐルシフェルに<欠片>を戻したのよ。そうすればルシフェルと、力がリンクしているアンタの力と意識が回復すると考えたわけ」
「じゃあ、レヴィアタンの予想は見事的中したわけだ」
しみじみと呟きつつ、統哉は神妙に頷いた。キツい言動ばかりの彼女だが、根はいい奴なんだと、心の中でそう思った。
「そ、それはそうなんだけど……」
「えっ?」
「あ、あの……<欠片>を戻した時点でルシフェルは大分回復したんだけど、アンタはまだ呼吸が止まっていたの。だからね……その……」
ふと、レヴィアタンが頬を染めて統哉から顔を背けた。そして、自らの指をそっと唇に当てたかと思いきや、急に悩ましい溜息をつき、悶えだした。
その時、統哉に電流が走った。
それは先ほど見たビジョン。確かその時自分の唇に何か柔らかく、温かいものが触れたような……。
そして、水を飲んで呼吸が止まっていたという自分。そういった時、応急処置として有効な、たった一つの冴えたやり方とは――。
「じ、人工呼吸をしてやったのよ! あ、アタシの初めてを捧げてアンタを助けてやったのよ……って、ああああ! 言わせんな恥ずかしい!」
鬼灯のように顔を真っ赤にし、涙目で叫ぶレヴィアタンのカミングアウトに統哉は絶句した。その脳裏に、「奴らはとんでもないものを盗んでいきました。あなたの唇です」と渋い男の声が響く。
ファーストキスはベルからの不意打ちによって奪われ、セカンドキスは救命措置のため、当人の知らぬところで奪われたのだ。どうしてこうも自分は堕天使に唇を奪われるのかという理不尽な思いが沸き上がる。
だがその一方で、レヴィアタンが決死の覚悟(?)で自分を救ってくれたのだから、心から感謝しなければいけないという思いもこみ上げてきた。
そして、統哉は顔を真っ赤にし、涙目になっているレヴィアタンの肩にそっと手を置き、優しく語りかけた。
「……ありがとう、レヴィアタン」
心からの感謝を込めて、統哉はレヴィアタンに礼を言った。すると、レヴィアタンは沸騰したやかんの如く頭から湯気を噴出させた後、急激に冷静さを取り戻していった。そして、軽く息をつくと、まだ微かに頬を上気させた顔を統哉に向けて微笑んだ。
「……別に、いいわよ…………アンタだったら、特別なんだから……」
最後の方はやたら小声で聞き取れなかったが、彼女から喜びの気持ちが伝わってくるのを統哉は感じ取った。
「さあ、<欠片>も奪い返した事だし、ここに長居する理由はないわ! 戻るわよ!」
晴れ晴れとした顔で宣言し、レヴィアタンはすっと手を上げた。すると、統哉達がいる水球の結界が急速に浮上を始め、あっという間に水面にまで戻ってきた。
「お前達! 無事だったか!」
水球の中に浮かぶ三人を見つけたベルが嬉しそうな声を上げる。後からアスカとエルゼも合流し、三人の無事を喜んだ。
「みんな、無事だったんだね~。よかったよかった~」
「ああ、みんな無事でよかったよぉ~! あたし、すっごい心配したたんだからね……わああああ」
満面の笑顔を浮かべるアスカと感極まって泣き出してしまったエルゼ。それを見た統哉とレヴィアタンは思わず顔を見合わせ、そして笑い合ったのだった。
その後、統哉とレヴィアタンはベル達に事情説明を行った。一応、人工呼吸の件は伏せておいたが。
「……そうか。失われていたルーシーの<欠片>もこれで五つめを取り戻したというわけか。残り半分。ここまでかなり順調じゃないか?」
話を聞き終えたベルが神妙に頷く。
「うんうん、るーるーから感じる魔力もだいぶ強くなってきてるのがわかるよ~。まだまだ全盛期にはほど遠いけどね~」
まだ目を覚まさないルーシーを見守っているアスカが柔らかな口調で言う。その言葉にエルゼが軽く頷き、それから統哉を見る。
「それに、統哉君から感じる力も強くなっているみたい。まあ、四人もの堕天使と契約してるからね……ん? ちょっと待って? 四人……?」
何か腑に落ちないのか、エルゼが首を傾げる。それを訝しく思った統哉が声をかけようとした矢先――
「そういえば~、一つ気になっていたんだけど~……」
「ん? どうしたアスカ?」
突然疑問を呈したアスカに統哉が向き直る。するとアスカはすっと腕を上げ、一行の背後を指差し、
「なんで、欠片>を取り戻したのに~、ざどきーがまだ消えないでいるのかな~?」
その言葉が終わらないうちに、アスカとルーシー以外の全員が一斉に背後を振り返った。その瞬間――
力尽きていたはずのザドキエルが、耳を劈かんばかりの咆哮を上げて活動を再開した。




