接触
「今日も来たんだ。もしかしてあいつの血も青色なんじゃないの? 人間じゃなくて実は宇宙人とか?」
一月蒼士が席に座ると、教室のどこかから彼を蔑む声が聞こえてきた。話しかけているわけではなく、蒼士に聞こえるように誰かが悪口を言う。朝のホームルームが始まる少し前、2年5組の一日は、いつも張り詰めた空気が混じって始まる。
蒼士は「くだらない」と心の中でつぶやき、特に反応することなく朝のホームルームが始まるのを待った。今朝テレビで、全国各地で 血液が青色に変化した子どもが確認されているというニュースが流れていた。世間では大騒ぎしているようだが、血が青い、それだけのことだ。
もはや蒼士にとって悪口は気にして心を傷つけるものではなく、クラスに馴染みたいと思わない自分と周りの生徒との分断された境界線を確認するための日課となっていた。
朝のホームルームが始まると担任から読書感想文に関するプリントが配られた。蒼士は教室の一番後ろの席のため配布物があるときは最後に渡されることになるのだが、これがまた陰湿ないじめにつながっている。
蒼士の前に座る高山秋斗のところまでプリントが来ると、秋斗はプリントを一枚ぐしゃりと握りつぶしてから何も言わずに蒼士の机に置いた。
いつも配布物は何かしらの危害を加えて渡される。読みづらく思い、以前に一度、先生に配布物を交換してもらったことがある。しかし、その後しばらくの間、上履きを隠されたり体操服を隠されたりとさらにいじめがエスカレートして面倒なことになったので、それ以降そのまま黙って受け取ることにしている。
だが、蒼士にとって一番後ろの席は好都合だった。配布物に危害が加わるよりも、教室全体を後ろから観察することのできるとっておきのポジションに入れることの方が重要だった。
このとっておきのポジションは、席替えがあっても変わることはない。なぜなら誰からも話しかけられることなく、その場所だけ触れてはいけない何かがあるかのように席替えが行われるからである。
蒼士のクラスメイトにとっては、一番後ろの席という好ポジションが一つ開くより、配布物をぐしゃぐしゃにできる方がよほど大切なようだ。
***
朝のホームルームが終わり、一限目の古典の授業が始まった。授業中、蒼士は手を滑らして消しゴムを床に落としてしまった。消しゴムは隣の席の生徒の足元に転がっていった。
「ご…ごめん。消しゴム拾ってもいいかな?」
蒼士はダメもとで話しかけてみたが当然返事はない。
「なあ、今なんか聞こえた?」
「さあ?幻聴なんじゃない?」
その生徒は、蒼士のことは無視をして別の生徒と聞こえないふりをした。結局、蒼士は他に何も言うことなく消しゴムを拾ったが、その時に手を踏まれてしまった。
「うわ。今何か踏んじゃったかも」
どう考えてもわざと踏んでいる。しかし、蒼士自身も汚れをとるためにハンカチで手を拭っただけで、他に何を言うわけでもなく何をするわけでもなかった。
隣の席の生徒は、その様子を見て舌打ちをした。明らかに蒼士に聞こえるような大きさの舌打ちだったが、聞こえないふりをした。
***
昼休みになると、前横斜めと蒼士を囲う席からは誰もいなくなる。まるで海にぽつんと浮かぶ孤島のような席で昼食を取ることになるのだが、やはりこれも蒼士にとっては気にならないことだった。
なぜ昼休みになると蒼士の周りの席が空くかといえば、彼がいじめられることになったきっかけに由来する。
蒼士がいじめられるようになったのは一年の夏、同じクラスにいる山田リーコのお気に入りのキーホルダーにオレンジジュースをこぼしてしまってからだった。
鞄についていたキーホルダーに向かってオレンジジュースをこぼし、キーホルダーから汚れがとれなくなってしまった。蒼士はとにかく謝ったがリーコは決して許さなかった。
リーコは医者の娘で有名ファッション雑誌の読者モデルでありながら人気高校生インフルエンサーとしても活動をしている学校一の人気者だが、裏の顔はどす黒く、一度嫌った相手は排除しないと気がすまない性格をしていた。
いじめが始まってから、リーコが蒼士に直接手を出したことはない。必ずリーコ以外の誰かが嫌がらせを行う。学年カーストの頂点に君臨するリーコに逆らえるものは誰もいなかった。
毎日、陰湿ないじめは続いている。しかし、蒼士はいじめを気にすることなく学校生活を送っているため、なかなかリーコの思い通りにはなっていないというのが現状だった。しかし、リーコは焦らない。裏から指示を出して陰湿ないじめを続けるつもりである。
***
一日の授業が終わり放課後になった。
蒼士が机の中に入れた教科書を鞄に片付けて帰り支度をしていると、クラスメイトの有本京子が話しかけてきた。クラスメイトに話しかけられたのはいじめが始まってから初めてのことだった。
「ねえ、風紀委員長が呼んでるから、今から風紀委員室に行って」
京子は蒼士の名前を呼ぶのも嫌なほど彼のことを嫌っていた。京子はリーコの親友で、リーコの敵は自分の敵だと思っている。だからリーコと同様に蒼士のことを嫌っている。
できれば話しかけたくないが、風紀委員の京子は風紀委員長に逆らうことはできない。蒼士に仕方なく話しかけることさえリーコに許可を得てからだった。蒼士がリーコの方を確認すると、彼女は蒼士のことを睨みつけていた。
「ねぇ、聞いてる? 私は伝えたから」
「あ……うん。ありがとう」
蒼士がお礼を伝えても、京子はそれ以上何も言うことなくそそくさと去っていった。そして離れたところから、「あー、最悪」という京子の声が聞こえてきた。
この最悪という感情は、蒼士に話しかけたことに向いたものではなく、風紀委員長に集団でのいじめに気づかれたかもしれないということに対して向いたものだった。
教室中が静まり返っている。あの風紀委員長がいじめを問題として取り上げたら必ず自分たちにも都合が悪いことが起きるのは、誰もが確信していた。
蒼士は支度を終えると、教室を出て風紀委員室へと向かった。クラスメイトはただ黙って蒼士が出ていくのを見ている他なかった。
蒼士は風紀委員室に到着した。そして、扉をノックすると「どうぞ」という綺麗な声が中から返ってきた。扉の冷たい取手に手をかけ、ゆっくり扉を開けた。
風紀委員室の中にいたのは委員長ただ一人。光の反射する黒い長髪は艶やかで、少し吊り上がった大きな瞳は見ているだけで吸い込まれそうになる。絵に描いたような美しさの風紀委員長だった。
仕事中だったのだろうか。風紀委員長はペンを握っていたが、机には書類と文房具が綺麗に並べられており、乱雑さが少しもなかった。それどころか室内全体も綺麗に片付けられており、風紀委員長の席の前には4人がけのテーブルが一つと、壁回りにいくつか棚が置いてあるだけだった。棚の中のファイルなども綺麗に並べられている。
「私は風紀委員長、2年3組の神野七莉。あなたは2年5組の一月蒼士君ね?」
「は……はい。同じクラスの有本さんに聞いて来ました」
「今日は聞きたいことがあって来てもらいました。そこにかけてください」
蒼士は4人がけのテーブルの七莉に近い席に座り、鞄を隣の椅子に置いた。
「あ……あの……。どうして僕はここに呼ばれたのでしょうか?」
「本題に入る前に、何か少し怯えてるようだけど大丈夫? 私が怖いの?」
「すみません……」
「なんで謝るの。確かに冷たいイメージは持たれてるかもしれないけど、何も一月君を怒ったりとか責めたりとかはしないから」
「すみません……」
七莉は、なぜか謝ってばかりの蒼士のことを心底情けないと思った。これ以上雑談をしても意味はないと悟り、本題に入ることにした。
「一月君、気分を悪くしたら申し訳ないんだけど、いじめられてませんか?」
蒼士はやはりこれが聞きたかったのかと思うと同時に、どう返事をしようか少し戸惑った。
そして、口を開いた。
「え……えっと……いじめられていません」
予想外の返事に、七莉は眉をひそめた。蒼士がいじめられているのは確信している。もしかしたらいじめを暴露した報復が怖いのかもしれない。
「本当に? もし仮にいじめられているとして、仕返しが怖いなら私がしっかり手を回しますけど」
それでも蒼士は「いじめられていない」という回答を貫いた。風紀委員室には、しばらく張り詰めた空気が流れた。そして再び、七莉は口を開いた。
「私も一月君と同じ学年だから噂は知ってます。山田さんのキーホルダーを汚して怒りを買ったというのは有名。誰も知らない人はいないと思うのだけど」
「そうですか……。確かに山田さんのキーホルダーを汚しました。でもそれは事故で……とにかく僕と山田さんの問題なんです」
「どういうこと?」
「そ……それは言えません」
七莉は、蒼士とリーコの間に噂以上のことを聞いたことがなかった。
今回のいじめの件も徹底した調査の結果、最後の一手だと思って呼び出したのに本人は頑なに否定する。キーホルダーを汚したという些細なきっかけだけに思えて、実は他の何かが潜んでいる可能性が新たに出てきた。
七莉はペンをギュッと握りしめた後、力を緩めてそっと机に置いた。そして一息つき、「今日は来てくれてありがとう」と蒼士を解放した。
「今回の件は何かが引っ掛かる。焦らず解決しよう」
誰もいなくなった風紀委員室で、七莉はそう呟いた。




