誘拐
ランチを終えた有永スバルと高槻明里はお店を出た。
「ご馳走してもらっちゃったね。今日は色々とありがとう!」
「こちらこそ楽しい時間をありがとう」
明里はお店から駅に向かう間、会話を一切止めることなく歩き続けた。地下鉄に乗ったら、そのままそれぞれが降りる駅で電車に乗りながらの別れになる。
電車が各駅に着いてから扉が閉まるまでの時間はほとんどなく、しっかり話ができるのは実質このタイミングが最後になってしまう。明里は、いまこの瞬間が永遠に続けばいいのにとさえ思っていた。
「美術館も楽しかったし、さっきのスープパスタもすごく美味しかった。今日は素敵な時間をありがとう。スバル君がもし良かったらなんだけど、また私とお出かけしてくれる?」
「もちろん。明里ちゃんにそう言ってもらえて僕も嬉しい限り」
「また夏休み中に絶対誘うね!」
スバルと明里は帰りの電車に乗り、スバルが先に「じゃあね」と爽やかな笑顔と共に降りていった。明里は一人、吊り革に捕まりながら今日のデートに想いを馳せた。
電車は明里の家の最寄駅に到着し、彼女は電車を降りた。そして軽やかな足取りで駅の構内を歩き、いつもなら長く感じる地上への階段も今日は短く感じた。
明里が地上へ出て少し歩いたところで、彼女は異変を感じた。いまこの瞬間まで確かにまわりに人はいたのだが、突然誰もいなくなった。道沿いにあるコンビニやケーキ屋などのお店の中にも人の気配がない。
突然の異変に明里はその場でたじろぎ、動けなくなった。スマートフォンを取り出して母親に連絡しようとしたが、電波は圏外だった。
明里が焦っていると、コンビニから一人の男が出てきた。良かった、人がいた。そう思った明里だったが、それはすぐに恐怖へと変わった。
「こんにちは」
男が明里に声をかけてきた。
知らない男からの挨拶に、明里は怯えた。
「こ……こんにちは」
怯えながらも挨拶を返した明かりだったが、男から返事はなかった。そして、明里は挨拶をしてきた男の首に見覚えのある模様があることに気づいた。
それは以前、明里の家に尋ねてきた男が首に施していたドクロのタトゥーと同じものだった。明里はすぐにそのことに気づき、「ひっ……」とかすかな声が漏れ、体が震え始めた。
ドクロのタトゥーの男は何も言わず、さらに明里へ距離を詰めてきた。明里は震える足を何とか動かし、後ろを向いて逃げようとした。
「どこ行くの?」
しかし、後ろにもう一人男がいた。
明里は腰が抜け、その場に尻もちを着くようにその場にへたれ込んでしまった。
「ははっ……! お前のせいで怖がってるじゃん」
「いやいや。お前のせいだろ」
男二人は不気味に笑い合っていた。
「あとは俺が眠らせて終わりだな」
明里が意識を失う前に聞いた言葉はそれが最後だった。
***
明里の前に現れた男は、椎名大吾と武田和樹。スバルや佐々木豪と同じ龍の血脈であり、スバルの協力者だった。スバルから依頼料をもらい、明里と一月蒼士を廃墟まで誘拐して来るという役目を負っている。
まずは一人目、明里を帰宅途中に攫って、廃墟まで運んでいた。廃墟に到着した大吾と和樹は、スバルからの指示通り、椅子が二つ並べてある部屋の床に明里を寝かせた。
外はまだ明るく、廃墟にも太陽の光が差し込む。もちろん空調設備など効いているわけもなく、大吾と和樹の顔には汗が滴っている。
「ふぅ。一人目完了。次は一月蒼士ってやつか」
大吾は額の汗を腕で拭いながら、そう言った。
「早く行かないとな。ぼさぼさしてると遅れちまう」
「まったく。スバルも人づかいあらいよなー」
「まあいいじゃねえか。たっぷりともらえるわけだし」
「少しぐらい休憩させてくれ。さっき攫う時に久々能力使って疲れた」
大吾はすでに、かなりの体力を消耗していた。
「そりゃトレーニングしてないからじゃん。まあ俺も人のことは言えないけど。俺だって眠らせるのは一瞬だけど、めっちゃ疲れるんだよね」
「そうなの? よく分からん」
「ってか話してる場合じゃねぇ。早く行かないと」
大吾と和樹は廃墟を出て、近くに停めていた車に乗り込んだ。運転手は和樹だが、二人とも免許は持っていない。偽造した免許証を財布に入れているだけだった。
「運転悪いな。とりあえず着くまで寝させてもらう」
大吾は助手席に乗るやいなや、車が出発する前に目を閉じた。
「ったく。この借りは高いぞ」
和樹はそう呟くと車を出発させた。知り合いから安く譲ってもらった型落ちの車でも、二人にとっては愛着のある相棒だった。
***
明里は目を覚ました。しかし、そこは真っ暗な空間だった。
窓から流れ込む生暖かい風が明里を撫でる。静寂の境目に虫の声も聞こえた。
夢か現実か、状況を把握しきる前に二人組の男に襲われたことを思い出した。
急いで立ちあがろうとしても、椅子に縛り付けられて力が入らなかった。
「えっ……! なにこれ……! どこなの……!? 誰かー!」
明里は叫んだ。
しかし返って来たのは静寂だけだった。
「ちょ……! はぁはぁ……! た……助けてよー!」
明里は自分が何者かに誘拐されたのではないかということに気づき、息が荒くなった。そして、誰でもいいから気づいて欲しくて、とにかく叫んでみても返事は一向に返ってこなかった。
明里は、風の通り具合と声の反響から、自分は広い空間にいることを理解した。しかし、誰もいない。少し目が慣れてくると、床に転がる瓦礫や無造作に生えている植物、遠くに見える窓や出入り口が見えてきた。
「はぁ……はぁ……。怖い……。なんで? なんでこんな廃墟なんかにいるの?」
明里の目から涙がこぼれ始めた。
少しでも気持ちを落ち着けるために声が出る。
「誰か助けてよ……。ねえ……! 誰か! スバル君……!」
明里は自然とスバルの名前を口に出していた。
もう藁にでもすがるしかなかったのだ。
「呼んだ?」
明里にはスバルの声が聞こえた。
恐怖で幻聴まで聞こえ出したのかと、明里は思った。
「大丈夫?」
しかし、違った。
出入り口の方から歩いてくる人影が見えた。
「え……? スバル君?」
人影は明里の目の前までやって来た。
やはりそれは、スバルだった。
「そうだよ」
目の前にスバルがいる。
明里が安心したのも束の間、一瞬で恐怖に変わった。
「でも……なんでここに……!? どういうこと……?」
「それは明里ちゃんと会うためだよ」
「え? え? なんで? ねえ、助けてよ! ねえ!」
明里はとにかく叫び続けた。
「助けて! 助けて! たす……! ……っ!」
スバルの冷たい手が明里の頬に強く当たった。明里の頬はじんじんと傷んだ。偶然ではないことくらい、明里にもすぐ理解できた。
明里の目からさらに涙が溢れ出す。スバルとのデートを思い出し、嗚咽が止まらなかった。明里の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。
「うるさい。汚い。醜い」
もうそこに明里の知るスバルはいない。嗚咽する明里を、冷たく蔑む非情な男がいるだけ。
明里の体は恐怖で震え、心拍がとても早くなり、嗚咽と相まって呼吸をするだけで精一杯だった。
「目を覚ましたのか?」
スバルの他にもう一人、声が聞こえた。誰かがまた、出入り口の方から歩いて来る。
しかし、その声は明里にも聞き覚えがあった。
「豪も見てくれないか? この醜さを」
「ああ。ひどいな」
豪も明里の目の前までやって来た。スバルと同様、そこにいるのは明里の知る豪ではなかった。
明里はもう何も考えたくなかったが、恐怖と緊張が絶え間なく、彼女の頭も心もかき乱していた。




