【短編】(元)伯爵夫人イリスは許さない
「ルーク・レイヴァン伯爵閣下は、先の魔物討伐において、戦死なされました」
使者の声は、ひどく澄んでいた。
窓の外で小鳥が鳴いている。
春の陽射しが廊下に差し込んで、使者の鎧を白く光らせていた。
ああ。
死んだのか。あの人が。
私――イリス・レイヴァンは涙を流さなかった。
泣くほどの思い出が、なかったのだ。
◇
ルークと結婚したのは半年前。
政略結婚。
この国ではよくある話だ。
顔を合わせたのは三度。
婚礼の儀と、初夜と、翌朝の食卓。
四度目はなかった。
彼は翌朝のうちに出征し、そのまま帰らぬ人となった。
戦死。
子はいない。
身体を重ねたのは1度だけで、できていなかった。
国の慣例に従い、私は実家のネメシア子爵家に返された。
荷を解いた旧い自室は、嫁ぐ前と何ひとつ変わっていない。
まるで最初から何もなかったかのように。
◇
日々は、ただ静かだった。
朝起きて、窓を開けて、何もせずに閉める。
たまに庭に出て、剣を振る。
ネメシア子爵家では女子にも護身の剣術を仕込む。
嫁いでいた半年で鈍った身体を戻す。
それだけが、辛うじて「生活」と呼べるものだった。
「姉上、今度の王都の夜会に一緒に出ませんか」
弟のユリウスが、朝食の席で切り出した。
「気晴らしになると思うんです」
気晴らし。
何から気を晴らすのだろう。
悲しむほどの記憶もないのに。
けれど弟の目があまりに真剣だったので、私は頷いた。
◇
夜会は華やかだった。
驚くほど多くの男が、私に声をかけてきた。
結婚前よりも。ずっと。
中には既婚の貴族もいた。
花を差し出しながら「お寂しいでしょう」と囁く中年男の目が、私の顔ではなく鎖骨のあたりを見ている。
——穴の開いた壁なら、入りやすいとでも思っているのだろう。
私は微笑んで花を受け取り、テーブルの花瓶に突き刺した。
◇
帰りの馬車で、録音石を取り出した。
拳ほどの大きさの、淡く光る石。
声を記録できる魔道具。
出征中のルークから届いたもの。
嫁ぎ先から持ち帰った、数少ない私物のひとつ。
魔力を流す。
低い声が流れ出した。
『結婚したばかりなのに、すぐ出征ですまない。なるべく早く帰る。待っていてくれ』
そこで、いつも魔力を切る。
短い言葉。
それだけで十分だった。
彼の声が聞ければそれでよかった。
何度も聞いた。
彼が死んでから、何十回と。
今夜もまた。
……ああ。
やっとわかった。
ほとんど顔も合わせていない。
一度寝ただけの相手。
なのに、私はこの人のことが好きだったんだ。
好きだったことに――今さら気付いてしまった。
馬車の窓の外を街灯が流れていく。
録音石を両手で包んで、初めて泣いた。
◇
何度目かの夜会。
気乗りしない私の腕を、ユリウスが引く。
「いいから来てください。最近また引きこもりがちでしょう」
「人混みが苦手なだけよ」
「嘘ですね。前は平気だったじゃないですか」
言い返せなかった。
会場に入ると、見知った顔がふたつ並んでいた。
セドリック。
ルークの弟で、伯爵家の現当主。
そして、ドライゼ侯爵。
ルークの戦友にして、あの討伐戦で残された兵を率い、魔物の大群を退けた男。
友の死に屈さず国を守った英雄。
国中がそう称えている。
「やあ、イリス殿。お久しぶりです」
ドライゼが歩み寄ってきた。
端正な顔。
穏やかな微笑み。
「ルークのことは、本当に残念でした。彼は最高の友人だったのに」
そう言いながらも、両目は私の顔、いや、鎖骨を見ていた。
……友人を失った悲しみはどこにいったのか。
「イリス殿。今度、ふたりでゆっくり話しませんか。ルークの思い出を——」
「侯爵」
セドリックが割って入った。
「義姉上はまだ喪の中にある身です。お心遣いはありがたいのですが」
「ああ、これは失礼。配慮が足りなかった」
ドライゼは素直に引いた。
引き際が綺麗すぎて、かえって芝居じみている。
ユリウスも駆けつける。
「姉上、大丈夫ですか」
「大丈夫。ただの挨拶よ」
弟の肩をぽんと叩いて、私は人混みの端に移動した。
◇
気晴らしに外の庭園に出たところで、物陰から声をかけられた。
「少し、お時間をいただけますか。お伝えしたいことがあります」
低く、硬い女の声。
騎士の正装を纏った赤い髪の女性。
カティア。
ルークの騎士団にいた女騎士だ。
面識だけはある。
物陰に向かうと、彼女は単刀直入に言った。
「ルーク様は謀殺されました。ドライゼ侯爵の手によって」
風が吹いた。テラスのカーテンが揺れる。
「……根拠は」
「ルーク様が戦死される前日のことです。
ドライゼ侯爵の従者が、ルーク様の鎧に触れているのを見ました」
「鎧に?」
「防護魔道具の接合部を開いて、何かを嵌め込んでいた。
禁呪特有の黒い光が、一瞬だけ見えました」
カティアの声は淡々としていた。
事実だけを、順番に並べている。
感情を殺して。
「翌日の戦闘中、突然、ルーク様の防護結界が消えたんです」
「……」
「私はすぐ隣にいました。あの結界が途切れたことなんて、一度もなかったのに」
彼女の拳が白くなるほど握り締められていた。
「魔物の爪が、無防備になった胸を貫きました。それが、公式には『戦死』です」
「上には、伝えましたか」
「報告しました。騎士団の上官に、その日のうちに。……翌朝には、私の報告書だけが記録から消えていました」
息が詰まった。
「鎧も、討伐戦の直後に侯爵家の息がかかった工房に送られています。今ごろは細工の痕跡ごと溶かされているでしょう」
風が止んだ。
「私の証言だけでは、侯爵は倒せません。わかっています」
「それを私に言って、どうしたいの」
「……わかりません」
カティアは唇を噛んだ。
「ただ、誰かに言わなければ、壊れそうだったんです」
沈黙が落ちた。
「……私はルーク様のことが好きでした」
突然の言葉だった。
「騎士として仕えながら、ずっと。……だから、あなたのことが羨ましかった」
風が止んだ。
私は彼女の目を見た。
赤い髪の下に、赤い目。
泣いてはいない。
泣き尽くした後の顔だった。
「私もよ」
「え?」
「羨ましいのは私のほう。あなたはあの人の隣で戦えた。私は初夜に一度抱かれて、翌朝にはもう、それっきり」
カティアが息を呑む。
「ずるいわね、お互い」
そう言ったら、彼女は少しだけ笑った。
◇
帰りの馬車。
ユリウスが怒っていた。
「ドライゼ侯爵、あの態度はないでしょう。まだ半年ですよ? 姉上はルーク殿の奥方だったのに。友人を亡くした悲しみがあるなら、もう少し弁えて——」
「そうね」
「あの男、前から信用できないと思っていたんです。英雄だなんだと持て囃されてますけど――」
「ユリウス」
「はい」
「ありがとう」
弟は少し照れたように黙った。
私は窓の外を見た。
暗い街路を、ランタンの光が等間隔に流れていく。
——殺してやる。
いや。
殺すだけでは足りない。
あの男のすべてを壊してやる。
◇
それから——私は変わった。
夜会に自ら足を運び、ドライゼの口説き文句に微笑み、差し出されたグラスを受け取り、彼の隣で夜風に当たった。
「今日も綺麗ですね、イリス殿」
「お上手ですこと、侯爵様」
にこりと笑う。
胃の底が冷たかった。
◇
「義姉上」
ある夜、セドリックが私の腕を引いた。
「あの男に近づくのは、やめてください」
「どうして?」
セドリックの顔は白かった。
「あなたに、危ない真似をしてほしくないんです」
「ありがとう。でも、私はもう貴方の義姉ではないわ。……ルークはもういないもの」
私はずるい女だ。
こういえばセドリックが言葉に詰まることを分かって、わざと口にした。
セドリックの手が震え、私の腕から離れる。
「僕は、貴方のことが――」
「心配してくれているのでしょう?」
「そうじゃなくて、いえ、それだけではなくて……」
彼の言葉を最後まで聞かず、私はその場を去る。
ごめんなさい。
私にはもう、これ以外の道はないの。
◇
ユリウスにも詰められた。
「侯爵と親しくするのは反対です」
「心配しすぎよ」
「姉上がそう言うときは、だいたい心配したほうがいい状況です」
鋭い弟だ。
でも止まれない。
◇
ある日。カティアが再び接触してきた。
夜会のテラス。前と同じ場所。
「イリス様、どうかおやめください」
「何を?」
「とぼけないでください。何をしようとしているか、わかります」
私は黙った。
「セドリック様が動いています。ルーク様の死の真相を暴こうと、証拠を集めている。だから、もうあなたが何かをする必要はないんです」
「あなたは?」
「……え?」
「あなたは、もういいの?」
カティアの表情が揺れた。
「正直に言います。私には今、想い合っている人がいます。騎士団の仲間で……」
「……そう」
「ルーク様のことは忘れていない。でも、過去に囚われてばかりでは、と」
それはまるで自分に言い聞かせるような口調だった。
彼女は迷っているのだろう。
これでいいのか、と。
「大丈夫よ」
私は笑みを浮かべて、カティアに声を掛ける。
「貴女はルークの謀殺について教えてくれた。それで十分よ」
テラスの風がひどく冷たい。
違う。
私の身体が熱いのだ。
「けど、私はあの人の妻だから。――最後の瞬間まで、妻でいさせてちょうだい」
胸の奥で何かが燃えている。
この炎を鎮めるつもりはない。
燃え広がらせ、私の身体ごとドライゼを焼き尽くして消えてしまおう。
ルークと同じところにいけなくていい。
これはただのエゴだから。
◇
ドライゼと二人きりになったのは、ある夜のことだった。
侯爵の別邸。暖炉の火が部屋を赤く染めている。
「嬉しいですよ、イリス殿。……いや、イリス、と呼んでもいいかな」
「ええ。好きに呼んで」
グラスを傾ける。甘い葡萄酒が喉を焼いた。
「正直に言ってもいいかしら」
「もちろん」
唇が、渇いた。
「嫌いだったの。あの人のこと」
ドライゼの目が微かに見開かれた。
「婚礼の翌日に出征よ? 残されたのは知らない屋敷と知らない使用人だけ。子供もいない。半年間、何のために嫁いだのかもわからなかった」
嘘だ。
全部、嘘だ。
けれど、声は震えなかった。
「正直、死んでくれて楽になったわ」
「……驚いたな。いや、そこまで胸の裡を明かしてくれるとは」
「ドライゼ。あなたに聞きたいことがあるの」
「何だい?」
「あなたが殺してくれたんでしょう?」
暖炉の薪が爆ぜた。
沈黙。
そして、ドライゼは笑った。
「知っていたのか」
「噂で聞いたくらいだけど」
「……ああ、そうだ。俺がやった」
暖炉の炎が、彼の瞳の中で揺れた。
「あいつの鎧の防護魔道具に喰蝕の呪石を仕込ませた。戦闘中、結界が内側から蝕まれて消える。あとは魔物が勝手にやってくれる」
「……上手くやったものね」
「卑怯かもしれないが、気付かない方が悪い。鎧はすぐに回収して、うちの工房で処分した。呪石の痕跡も残らない。記録上は戦死だ。誰も疑わない」
「なぜ、あの人を」
「邪魔だったんだ。騎士団の統率も、武勲も、国王の信頼も全部あいつが持っていた。俺は永遠に二番手だった」
ドライゼが私の手を取った。
温かかった。
吐き気がした。
「だが、これでよかったと思っている。君が俺の隣に来てくれたんだから」
「……嬉しいわ」
微笑んだ。
もう十分だ。
聞きたいことはすべて聞けた。
ドライゼの手が私の肩に回る。
暖炉の炎だけが、ゆらゆらと揺れていた。
◇
翌朝。
別邸を出た。
振り返らなかった。
◇
十日後。
王都の大舞踏会。
場の空気が変わったのは、セドリックが壇上に立った瞬間だった。
「ドライゼ侯爵」
会場が静まる。
「兄・ルーク・レイヴァンの死について。お話しいただきたいことがあります」
ドライゼは酒杯をテーブルに置いた。
表情は変わらない。
「貴殿は私の兄を謀殺した。すでにいくつかの証拠は国王陛下にお渡ししてあります。この場での詰問についても、陛下のご許可をいただいております」
ざわめきが広がる。
公の場での糾弾。
いわゆる「公開裁判」。
古い慣例だが、前例はある。
ドライゼは微笑んだ。
「セドリック。君の気持ちはわかるよ。兄を失った悲しみが、妄想を生んでしまったのだ ね」
「妄想ではありません」
「では、決定的な証拠は?」
「……っ」
「ないだろう? 状況証拠に過ぎないからこそ、公開裁判という手を取った。私からどうにか失言を引き出して、存在しない謀殺の罪を着せるために」
会場がざわつく。
「最近、よからぬ噂が流れているらしいね。私が戦友のルークを謀殺した、と。国王陛下はそれを払拭するため、あえて君に詰問の許可を与えたのだろう。さあ、ショーを始めようか。いくらでも質問するといい。すべて否定してみせよう」
ドライゼは余裕の表情を浮かべている。
公開裁判はいまや検事と被告が入れ替わり、セドリックへの公開処刑となりつつあった。
……けれど、そうはさせない。
「ひとつ、よろしいかしら」
歩み出た。
視線が集まる。
ドライゼが私を見た。
訝しむような表情を浮かべている。
「この石に録音された声を、皆さまにお聞きいただきたく」
私は録音石を掲げた。
ルークの形見となってしまった、あの録音石だ。
魔力を流す。
ドライゼの声が、会場に響き渡った。
『ああ、そうだ。俺がやった』
あの夜。
私は懐に録音席を偲ばせていた。
『あいつの鎧の防護魔道具に喰蝕の呪石を仕込ませた。戦闘中、結界が内側から蝕まれて消える。あとは魔物が勝手にやってくれる』
今日までのすべては、この男の口から証言を引き出すためのもの。
それが実った。
『卑怯と思うか? 気付かない方が悪い。鎧はすぐに回収して、うちの工房で処分した。呪石の痕跡も残らない。記録上はただの戦死だ。誰も疑わない』
静寂。
完全な、静寂。
ドライゼの顔から色が消えた。
「……俺を騙したのか」
「気付かない方が悪い。これ、貴方の言葉よ」
ドライゼの身体が崩れるように沈んだ。
衛兵が駆け寄る。
セドリックが、呆然と私を見ていた。
ユリウスが、口元を手で覆っていた。
私は壇上を降りた。
誰の目も見なかった。
◇
ドライゼは投獄された。
英雄の仮面は剥がれ、待つのは相応の裁きだけ。
国中が騒いだ。
セドリックは泣いた。
ユリウスは「姉上は無茶しすぎです」と怒りながら泣いた。
カティアは短い手紙を寄越した。
「ありがとうございます」と一言だけ。
けれど、私の胸は凪いでいた。
空っぽだった。
あの録音石。
再生しても、もう、彼の声は聞こえない。
ドライゼの自白を録音するために、上書きしてしまったから。
……寂しい。
◇
ある夜のこと。
眠れなかった。
ふらりと屋敷を抜け出した。
ただの思いつき。
夜道を歩く。
月明かりだけが頼りだった。
どこに向かっているのか、自分でもわからなかった。
……嘘だ。
わかっていた。
海の見える崖。
子供の頃、よく来た。
飛び降りたら、気持ちよさそうな場所。
潮風が髪を攫う。
月が海面を白く照らしていた。
崖の縁に近づいたときに足がもつれた。
転ぶ。
膝を強く打った。
そのまま落ちてしまってもよかったのに。
衝撃で、胸元の録音石が光った。
誤動作。
あの男の声が、夜の崖に流れ出す。
証言の最後の一節。
『俺は永遠に二番手だった』
「最後に聞くのが、あの男の声なんて」
笑った。
本当に、笑えた。
いつもなら音声が途切れたところで再生を止める。
けれど、それも億劫で放ったらかし。
数秒の沈黙のあと。
別の声が、流れた。
低い声。
穏やかな声。
何十回と聞き返したあの声。
『ああ、そうだ。帰ったら君に伝えたい言葉があるんだ』
息が止まった。
ルークの録音には、続きがあった?
『いや、言ってしまおう。録音石に残しておけば、いつか届くかもしれない』
いつも「待っていてくれ」で止めていた。
その先を——一度も、聞いたことがなかった。
『僕は、君のことが好きだ。イリス』
世界が止まった。
『数回しか顔を合わせていないのに、おかしいと思うだろう。一目惚れだったんだ。政略結婚で、不本意だったかもしれない。それでも僕は嬉しかった』
涙が落ちた。
『無事に帰れたら仲良くなりたいと思っている。……不器用ですまない。では、また』
録音が途切れた。
波の音が戻ってきた。
「……ばか」
声が震えた。
「帰ってこなかったくせに」
風が吹いた。
崖の下で、海が光っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「このあとのイリスが気になる」「ルークが無事に帰ってきたifが読みたい」「セドリックくん、状況証拠だけで公開裁判を始めるのはさすがに前のめりじゃない?」などと思っていただけましたら、【☆☆☆☆☆】を押してもらうと励みになります。
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