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【短編】(元)伯爵夫人イリスは許さない

作者: 近藤久乃
掲載日:2026/03/02

「ルーク・レイヴァン伯爵閣下は、先の魔物討伐において、戦死なされました」


 使者の声は、ひどく澄んでいた。


 窓の外で小鳥が鳴いている。

 春の陽射しが廊下に差し込んで、使者の鎧を白く光らせていた。


 ああ。

 死んだのか。あの人が。


 私――イリス・レイヴァンは涙を流さなかった。

 泣くほどの思い出が、なかったのだ。



 ◇



 ルークと結婚したのは半年前。


 政略結婚。

 この国ではよくある話だ。


 顔を合わせたのは三度。

 婚礼の儀と、初夜と、翌朝の食卓。

 

 四度目はなかった。


 彼は翌朝のうちに出征し、そのまま帰らぬ人となった。

 戦死。

 

 子はいない。 

 身体を重ねたのは1度だけで、()()()いなかった。

 国の慣例に従い、私は実家のネメシア子爵家に返された。


 荷を解いた旧い自室は、嫁ぐ前と何ひとつ変わっていない。


 まるで最初から何もなかったかのように。





 日々は、ただ静かだった。


 朝起きて、窓を開けて、何もせずに閉める。

 たまに庭に出て、剣を振る。


 ネメシア子爵家では女子にも護身の剣術を仕込む。

 嫁いでいた半年で鈍った身体を戻す。

 それだけが、辛うじて「生活」と呼べるものだった。


「姉上、今度の王都の夜会に一緒に出ませんか」


 弟のユリウスが、朝食の席で切り出した。


「気晴らしになると思うんです」


 気晴らし。

 何から気を晴らすのだろう。


 悲しむほどの記憶もないのに。


 けれど弟の目があまりに真剣だったので、私は頷いた。





 夜会は華やかだった。


 驚くほど多くの男が、私に声をかけてきた。

 結婚前よりも。ずっと。


 中には既婚の貴族もいた。


 花を差し出しながら「お寂しいでしょう」と囁く中年男の目が、私の顔ではなく鎖骨のあたりを見ている。


 ——穴の開いた壁なら、入りやすいとでも思っているのだろう。


 私は微笑んで花を受け取り、テーブルの花瓶に突き刺した。





 帰りの馬車で、録音石(レコードストーン)を取り出した。


 拳ほどの大きさの、淡く光る石。

 声を記録できる魔道具。

 出征中のルークから届いたもの。

 嫁ぎ先から持ち帰った、数少ない私物のひとつ。


 魔力を流す。

 低い声が流れ出した。


『結婚したばかりなのに、すぐ出征ですまない。なるべく早く帰る。待っていてくれ』


 そこで、いつも魔力を切る。

 短い言葉。

 それだけで十分だった。


 彼の声が聞ければそれでよかった。


 何度も聞いた。

 彼が死んでから、何十回と。


 今夜もまた。


 ……ああ。


 やっとわかった。


 ほとんど顔も合わせていない。

 一度寝ただけの相手。


 なのに、私はこの人のことが好きだったんだ。


 好きだったことに――今さら気付いてしまった。


 馬車の窓の外を街灯が流れていく。

 録音石を両手で包んで、初めて泣いた。





 何度目かの夜会。

 気乗りしない私の腕を、ユリウスが引く。


「いいから来てください。最近また引きこもりがちでしょう」


「人混みが苦手なだけよ」


「嘘ですね。前は平気だったじゃないですか」


 言い返せなかった。


 会場に入ると、見知った顔がふたつ並んでいた。


 セドリック。

 ルークの弟で、伯爵家の現当主。


 そして、ドライゼ侯爵。


 ルークの戦友にして、あの討伐戦で残された兵を率い、魔物の大群を退けた男。


 友の死に屈さず国を守った英雄。

 国中がそう称えている。


「やあ、イリス殿。お久しぶりです」


 ドライゼが歩み寄ってきた。

 端正な顔。

 穏やかな微笑み。


「ルークのことは、本当に残念でした。彼は最高の友人だったのに」


 そう言いながらも、両目は私の顔、いや、鎖骨を見ていた。

 ……友人を失った悲しみはどこにいったのか。


「イリス殿。今度、ふたりでゆっくり話しませんか。ルークの思い出を——」


「侯爵」


 セドリックが割って入った。


「義姉上はまだ喪の中にある身です。お心遣いはありがたいのですが」


「ああ、これは失礼。配慮が足りなかった」


 ドライゼは素直に引いた。

 引き際が綺麗すぎて、かえって芝居じみている。


 ユリウスも駆けつける。


「姉上、大丈夫ですか」


「大丈夫。ただの挨拶よ」


 弟の肩をぽんと叩いて、私は人混みの端に移動した。





 気晴らしに外の庭園に出たところで、物陰から声をかけられた。


「少し、お時間をいただけますか。お伝えしたいことがあります」


 低く、硬い女の声。

 騎士の正装を纏った赤い髪の女性。

 カティア。

 ルークの騎士団にいた女騎士だ。

 面識だけはある。


 物陰に向かうと、彼女は単刀直入に言った。


「ルーク様は謀殺されました。ドライゼ侯爵の手によって」


 風が吹いた。テラスのカーテンが揺れる。


「……根拠は」


「ルーク様が戦死される前日のことです。

 ドライゼ侯爵の従者が、ルーク様の鎧に触れているのを見ました」


「鎧に?」


「防護魔道具の接合部を開いて、何かを嵌め込んでいた。

 禁呪特有の黒い光が、一瞬だけ見えました」


 カティアの声は淡々としていた。

 事実だけを、順番に並べている。

 感情を殺して。


「翌日の戦闘中、突然、ルーク様の防護結界が消えたんです」


「……」


「私はすぐ隣にいました。あの結界が途切れたことなんて、一度もなかったのに」


 彼女の拳が白くなるほど握り締められていた。


「魔物の爪が、無防備になった胸を貫きました。それが、公式には『戦死』です」


「上には、伝えましたか」


「報告しました。騎士団の上官に、その日のうちに。……翌朝には、私の報告書だけが記録から消えていました」


 息が詰まった。


「鎧も、討伐戦の直後に侯爵家の息がかかった工房に送られています。今ごろは細工の痕跡ごと溶かされているでしょう」


 風が止んだ。


「私の証言だけでは、侯爵は倒せません。わかっています」


「それを私に言って、どうしたいの」


「……わかりません」


 カティアは唇を噛んだ。


「ただ、誰かに言わなければ、壊れそうだったんです」


 沈黙が落ちた。


「……私はルーク様のことが好きでした」


 突然の言葉だった。


「騎士として仕えながら、ずっと。……だから、あなたのことが羨ましかった」


 風が止んだ。


 私は彼女の目を見た。

 赤い髪の下に、赤い目。

 泣いてはいない。

 泣き尽くした後の顔だった。


「私もよ」


「え?」


「羨ましいのは私のほう。あなたはあの人の隣で戦えた。私は初夜に一度抱かれて、翌朝にはもう、それっきり」


 カティアが息を呑む。


「ずるいわね、お互い」


 そう言ったら、彼女は少しだけ笑った。





 帰りの馬車。

 ユリウスが怒っていた。


「ドライゼ侯爵、あの態度はないでしょう。まだ半年ですよ? 姉上はルーク殿の奥方だったのに。友人を亡くした悲しみがあるなら、もう少し弁えて——」


「そうね」


「あの男、前から信用できないと思っていたんです。英雄だなんだと持て囃されてますけど――」


「ユリウス」


「はい」


「ありがとう」


 弟は少し照れたように黙った。


 私は窓の外を見た。

 暗い街路を、ランタンの光が等間隔に流れていく。


 ——殺してやる。


 いや。

 殺すだけでは足りない。

 あの男のすべてを壊してやる。





 それから——私は変わった。


 夜会に自ら足を運び、ドライゼの口説き文句に微笑み、差し出されたグラスを受け取り、彼の隣で夜風に当たった。


「今日も綺麗ですね、イリス殿」


「お上手ですこと、侯爵様」


 にこりと笑う。

 胃の底が冷たかった。





「義姉上」


 ある夜、セドリックが私の腕を引いた。


「あの男に近づくのは、やめてください」


「どうして?」


 セドリックの顔は白かった。


「あなたに、危ない真似をしてほしくないんです」


「ありがとう。でも、私はもう貴方の義姉ではないわ。……ルークはもういないもの」


 私はずるい女だ。

 こういえばセドリックが言葉に詰まることを分かって、わざと口にした。


 セドリックの手が震え、私の腕から離れる。


「僕は、貴方のことが――」


「心配してくれているのでしょう?」


「そうじゃなくて、いえ、それだけではなくて……」


 彼の言葉を最後まで聞かず、私はその場を去る。

 

 ごめんなさい。


 私にはもう、これ以外の道はないの。





 ユリウスにも詰められた。


「侯爵と親しくするのは反対です」


「心配しすぎよ」


「姉上がそう言うときは、だいたい心配したほうがいい状況です」


 鋭い弟だ。

 でも止まれない。





 ある日。カティアが再び接触してきた。

 夜会のテラス。前と同じ場所。


「イリス様、どうかおやめください」


「何を?」


「とぼけないでください。何をしようとしているか、わかります」


 私は黙った。


「セドリック様が動いています。ルーク様の死の真相を暴こうと、証拠を集めている。だから、もうあなたが何かをする必要はないんです」


「あなたは?」


「……え?」


「あなたは、もういいの?」


 カティアの表情が揺れた。


「正直に言います。私には今、想い合っている人がいます。騎士団の仲間で……」


「……そう」


「ルーク様のことは忘れていない。でも、過去に囚われてばかりでは、と」


 それはまるで自分に言い聞かせるような口調だった。

 彼女は迷っているのだろう。

 これでいいのか、と。


「大丈夫よ」


 私は笑みを浮かべて、カティアに声を掛ける。


「貴女はルークの謀殺について教えてくれた。それで十分よ」


 テラスの風がひどく冷たい。

 違う。

 私の身体が熱いのだ。

 

「けど、私はあの人の妻だから。――最後の瞬間まで、妻でいさせてちょうだい」


 胸の奥で何かが燃えている。

 この炎を鎮めるつもりはない。

 燃え広がらせ、私の身体ごとドライゼを焼き尽くして消えてしまおう。

 

 ルークと同じところにいけなくていい。

 これはただのエゴだから。





 ドライゼと二人きりになったのは、ある夜のことだった。


 侯爵の別邸。暖炉の火が部屋を赤く染めている。


「嬉しいですよ、イリス殿。……いや、イリス、と呼んでもいいかな」


「ええ。好きに呼んで」


 グラスを傾ける。甘い葡萄酒が喉を焼いた。


「正直に言ってもいいかしら」


「もちろん」


 唇が、渇いた。


「嫌いだったの。あの人のこと」


 ドライゼの目が微かに見開かれた。


「婚礼の翌日に出征よ? 残されたのは知らない屋敷と知らない使用人だけ。子供もいない。半年間、何のために嫁いだのかもわからなかった」


 嘘だ。

 全部、嘘だ。


 けれど、声は震えなかった。


「正直、死んでくれて楽になったわ」


「……驚いたな。いや、そこまで胸の裡を明かしてくれるとは」


「ドライゼ。あなたに聞きたいことがあるの」


「何だい?」


「あなたが殺してくれたんでしょう?」


 暖炉の薪が爆ぜた。


 沈黙。


 そして、ドライゼは笑った。


「知っていたのか」


「噂で聞いたくらいだけど」


「……ああ、そうだ。俺がやった」


 暖炉の炎が、彼の瞳の中で揺れた。


「あいつの鎧の防護魔道具に喰蝕の呪石を仕込ませた。戦闘中、結界が内側から蝕まれて消える。あとは魔物が勝手にやってくれる」


「……上手くやったものね」


「卑怯かもしれないが、気付かない方が悪い。鎧はすぐに回収して、うちの工房で処分した。呪石の痕跡も残らない。記録上は戦死だ。誰も疑わない」


「なぜ、あの人を」


「邪魔だったんだ。騎士団の統率も、武勲も、国王の信頼も全部あいつが持っていた。俺は永遠に二番手だった」


 ドライゼが私の手を取った。

 温かかった。

 吐き気がした。


「だが、これでよかったと思っている。君が俺の隣に来てくれたんだから」


「……嬉しいわ」


 微笑んだ。


 もう十分だ。

 聞きたいことはすべて聞けた。


 ドライゼの手が私の肩に回る。

 暖炉の炎だけが、ゆらゆらと揺れていた。





 翌朝。


 別邸を出た。

 振り返らなかった。





 十日後。

 王都の大舞踏会。


 場の空気が変わったのは、セドリックが壇上に立った瞬間だった。


「ドライゼ侯爵」


 会場が静まる。


「兄・ルーク・レイヴァンの死について。お話しいただきたいことがあります」


 ドライゼは酒杯をテーブルに置いた。

 表情は変わらない。


「貴殿は私の兄を謀殺した。すでにいくつかの証拠は国王陛下にお渡ししてあります。この場での詰問についても、陛下のご許可をいただいております」


 ざわめきが広がる。

 公の場での糾弾。

 いわゆる「公開裁判」。

 古い慣例だが、前例はある。


 ドライゼは微笑んだ。


「セドリック。君の気持ちはわかるよ。兄を失った悲しみが、妄想を生んでしまったのだ ね」


「妄想ではありません」


「では、決定的な証拠は?」


「……っ」


「ないだろう? 状況証拠に過ぎないからこそ、公開裁判という手を取った。私からどうにか失言を引き出して、存在しない謀殺の罪を着せるために」


 会場がざわつく。


「最近、よからぬ噂が流れているらしいね。私が戦友のルークを謀殺した、と。国王陛下はそれを払拭するため、あえて君に詰問の許可を与えたのだろう。さあ、ショーを始めようか。いくらでも質問するといい。すべて否定してみせよう」


 ドライゼは余裕の表情を浮かべている。

 公開裁判はいまや検事と被告が入れ替わり、セドリックへの公開処刑となりつつあった。


 ……けれど、そうはさせない。


「ひとつ、よろしいかしら」


 歩み出た。


 視線が集まる。

 ドライゼが私を見た。

 訝しむような表情を浮かべている。


「この石に録音された声を、皆さまにお聞きいただきたく」


 私は録音石を掲げた。

 ルークの形見となってしまった、あの録音石だ。


 魔力を流す。


 ドライゼの声が、会場に響き渡った。


『ああ、そうだ。俺がやった』


 あの夜。

 私は懐に録音席を偲ばせていた。


『あいつの鎧の防護魔道具に喰蝕の呪石を仕込ませた。戦闘中、結界が内側から蝕まれて消える。あとは魔物が勝手にやってくれる』


 今日までのすべては、この男の口から証言を引き出すためのもの。

 それが実った。

 

『卑怯と思うか? 気付かない方が悪い。鎧はすぐに回収して、うちの工房で処分した。呪石の痕跡も残らない。記録上はただの戦死だ。誰も疑わない』


 静寂。


 完全な、静寂。


 ドライゼの顔から色が消えた。


「……俺を騙したのか」


「気付かない方が悪い。これ、貴方の言葉よ」


 ドライゼの身体が崩れるように沈んだ。

 衛兵が駆け寄る。


 セドリックが、呆然と私を見ていた。

 ユリウスが、口元を手で覆っていた。


 私は壇上を降りた。


 誰の目も見なかった。





 ドライゼは投獄された。


 英雄の仮面は剥がれ、待つのは相応の裁きだけ。


 国中が騒いだ。

 セドリックは泣いた。

 ユリウスは「姉上は無茶しすぎです」と怒りながら泣いた。

 カティアは短い手紙を寄越した。

「ありがとうございます」と一言だけ。


 けれど、私の胸は凪いでいた。


 空っぽだった。


 あの録音石。


 再生しても、もう、彼の声は聞こえない。


 ドライゼの自白を録音するために、上書きしてしまったから。


 ……寂しい。





 ある夜のこと。


 眠れなかった。


 ふらりと屋敷を抜け出した。


 ただの思いつき。


 夜道を歩く。


 月明かりだけが頼りだった。


 どこに向かっているのか、自分でもわからなかった。


 ……嘘だ。


 わかっていた。


 海の見える崖。


 子供の頃、よく来た。


 飛び降りたら、気持ちよさそうな場所。


 潮風が髪を攫う。

 月が海面を白く照らしていた。


 崖の縁に近づいたときに足がもつれた。


 転ぶ。

 膝を強く打った。


 そのまま落ちてしまってもよかったのに。


 衝撃で、胸元の録音石が光った。


 誤動作。


 あの男の声が、夜の崖に流れ出す。

 証言の最後の一節。


『俺は永遠に二番手だった』


「最後に聞くのが、あの男の声なんて」


 笑った。

 本当に、笑えた。


 いつもなら音声が途切れたところで再生を止める。

 

 けれど、それも億劫で放ったらかし。


 数秒の沈黙のあと。


 別の声が、流れた。


 低い声。

 穏やかな声。

 何十回と聞き返したあの声。


『ああ、そうだ。帰ったら君に伝えたい言葉があるんだ』


 息が止まった。


 ルークの録音には、続きがあった?


『いや、言ってしまおう。録音石に残しておけば、いつか届くかもしれない』


 いつも「待っていてくれ」で止めていた。

 その先を——一度も、聞いたことがなかった。


『僕は、君のことが好きだ。イリス』


 世界が止まった。


『数回しか顔を合わせていないのに、おかしいと思うだろう。一目惚れだったんだ。政略結婚で、不本意だったかもしれない。それでも僕は嬉しかった』


 涙が落ちた。


『無事に帰れたら仲良くなりたいと思っている。……不器用ですまない。では、また』


 録音が途切れた。


 波の音が戻ってきた。


「……ばか」


 声が震えた。


「帰ってこなかったくせに」


 風が吹いた。


 崖の下で、海が光っていた。




最後までお読みいただき、ありがとうございます。


「このあとのイリスが気になる」「ルークが無事に帰ってきたifが読みたい」「セドリックくん、状況証拠だけで公開裁判を始めるのはさすがに前のめりじゃない?」などと思っていただけましたら、【☆☆☆☆☆】を押してもらうと励みになります。


ブックマークやリアクションも大歓迎、よろしくお願いいたします~!

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