表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/9

7話

 その後、二人は早退し、急いで屋敷へ戻った。


「シーラ、入るぞ」

 普段着に着替え、新しい手袋を嵌めてから、グレンは妹の部屋を訪れる。


 シーラはベッドに横たわっていた。

 額には濡らしたタオルが当てられ、顔はまだ赤く火照っている。呼吸もどこか浅く、苦しげだ。


 窓の外はつい先程まで晴れていたのに、今は激しい雷雨が騒ぎ立てていた。


「食事は摂れそうか?」

 問いかけると、シーラは目を閉じたまま、微かに首を横に振る。


 ——無理もないか。


 あれほどの騒動に、冷たい水。心身ともに、相当消耗しているはずだ。

 自分がもっと早く気付いていれば——そんな後悔が胸を締めつける。


「——あ」

 ふと何かを思い出したように、シーラが小さく声を漏らした。


「お薬、飲まないと……」

 呟き、彼女はのそりと上半身を起こす。

 ベッド脇の引き出しに手を伸ばし、そこから茶色の小瓶を取り出した。中には、ぎっしりと錠剤が詰まっている。


 ——薬……いつも飲んでいるやつか。


 実物を見るのは、これが初めてだった。

 シーラの手のひらからころりと転がり落ちた一粒は、無機質な白色をしている。


 グレンは黙って引き出しの上に置かれた水差しを手に取り、コップに水を注いで差し出した。


「ありがとうございます……」

 掠れた声で礼を言い、シーラはコップを受け取ると、錠剤を口に含み、水で流し込む。


 再びベッドに身を横たえた妹に、そっと布団を掛け直す。


「……無理はするな。何か欲しいものがあれば、すぐ呼べ」

 そう言い残し、グレンは部屋を出ようと踵を返した。


「お兄様……」

 弱々しい声に、足が止まる。

「どうした?」


 その直後——。

 ドォン、と一際大きな雷鳴が屋敷を揺らした。

 シーラの身体が、びくりと跳ねる。


「お前、まだ……」

 淑女として立派に成長しても、幼少の頃からの苦手なものは未だ克服出来ていないようだ。


「ふふ……お恥ずかしいですわ……」

 シーラは小さく笑って誤魔化す。

 体調が悪いせいか、いつもよりその笑顔はぎこちない。


「——こんな日は、小さい頃のことを思い出します……」

 窓の外へ視線を向ける妹の瞳は、どこか懐かしむような、遠い目だった。


「ああ……私の部屋まで来て、一緒に眠ったこともあったな」

「覚えていてくださったのですね」

 シーラは嬉しそうに目を細める。


「……あのときのように、一緒に寝てくださいますか?」

「馬鹿を言うな」

 グレンは呆れたように返す。


「ふふ、冗談です……。お引き止めしてしまって、申し訳ありません」

 そう言いながらも、シーラの表情には心細さが滲んでいた。


 このまま部屋を出て行くのは、どうにも気が引ける。

 グレンは小さく息を吐き、近くの椅子に腰を下ろした。


「眠るまで、ここにいてやる」

 その言葉に、シーラの顔がぱっと明るくなる。


「お兄様……」

 彼女はそっと、片手を差し出した。

 グレンは一瞬だけ迷った後、その手に自分の手を重ねた。


 そこから少し経ち。

 シーラはすっかり眠りに落ちていた。

 頬にはまだ熱が残っているものの、寝息は穏やかで、先ほどまでの苦しげな様子はない。


 グレンはその寝顔を、じっと見つめる。

 長い睫毛、安らいだ表情。

 庇護欲を掻き立てられる。

 と同時に、胸の奥がひどくざわついた。


 そっと、繋いでいた手を離す。

 手袋には、彼女の体温がまだ残っていて、妙に温かかった。


 気付けば、その手を彼女の顔に伸ばしていた。

 何故そんなことをしたのか自分でも分からない。


 ただ、止められなかった。


 指先で、そっと頬に触れる。

 柔らかな感触が伝わってくる。


 ——何をしている。

 自問と自制の念が脳を刺す。

 それでも吸い寄せられるように、顔を近付けていき——。


 コン、コン。

 唇が触れそうになったところで、控えめなノックの音が響いた。


 はっと我に返り、グレンは弾かれたように身を引く。

 触れていた手を離し、深く息を吐いた。


 胸の奥に残るざわめきを押し殺しながら、グレンはドアを開けた。


 廊下には父の姿があった。

「リンゴを持ってきたんだが……」

 そう言って父は、切り分けられたリンゴが盛られた皿を見せる。


「……シーラなら、つい先程眠りました」

「そうか。なら、これはお前にやろう」

 皿を差し出すと、父はそれ以上何も言わず去っていった。


 グレンは廊下に出て、静かにドアを閉めると、その場に背を預けるようにもたれかかった。


 皿に視線を落とすと、フォークが刺さった一切れを手にとり口に運ぶ。


 シャクリ、と小気味よい音が響く。

 よく熟れていた。

 程よい甘さと、僅かな酸味。


 気付けば、ひとつ、またひとつと、無心でリンゴを口にしていた。

 昼食を摂る暇もなかった身には、身体に染み渡るようだった。


 腹は確かに満たされた。

 それなのに——。


 心の内側は、どうしようもなく空虚で、形容し難い飢えに苛まれている。

 その理由を、グレンは考えようとせず、ただ目を伏せた。


 2章 了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ