7話
その後、二人は早退し、急いで屋敷へ戻った。
「シーラ、入るぞ」
普段着に着替え、新しい手袋を嵌めてから、グレンは妹の部屋を訪れる。
シーラはベッドに横たわっていた。
額には濡らしたタオルが当てられ、顔はまだ赤く火照っている。呼吸もどこか浅く、苦しげだ。
窓の外はつい先程まで晴れていたのに、今は激しい雷雨が騒ぎ立てていた。
「食事は摂れそうか?」
問いかけると、シーラは目を閉じたまま、微かに首を横に振る。
——無理もないか。
あれほどの騒動に、冷たい水。心身ともに、相当消耗しているはずだ。
自分がもっと早く気付いていれば——そんな後悔が胸を締めつける。
「——あ」
ふと何かを思い出したように、シーラが小さく声を漏らした。
「お薬、飲まないと……」
呟き、彼女はのそりと上半身を起こす。
ベッド脇の引き出しに手を伸ばし、そこから茶色の小瓶を取り出した。中には、ぎっしりと錠剤が詰まっている。
——薬……いつも飲んでいるやつか。
実物を見るのは、これが初めてだった。
シーラの手のひらからころりと転がり落ちた一粒は、無機質な白色をしている。
グレンは黙って引き出しの上に置かれた水差しを手に取り、コップに水を注いで差し出した。
「ありがとうございます……」
掠れた声で礼を言い、シーラはコップを受け取ると、錠剤を口に含み、水で流し込む。
再びベッドに身を横たえた妹に、そっと布団を掛け直す。
「……無理はするな。何か欲しいものがあれば、すぐ呼べ」
そう言い残し、グレンは部屋を出ようと踵を返した。
「お兄様……」
弱々しい声に、足が止まる。
「どうした?」
その直後——。
ドォン、と一際大きな雷鳴が屋敷を揺らした。
シーラの身体が、びくりと跳ねる。
「お前、まだ……」
淑女として立派に成長しても、幼少の頃からの苦手なものは未だ克服出来ていないようだ。
「ふふ……お恥ずかしいですわ……」
シーラは小さく笑って誤魔化す。
体調が悪いせいか、いつもよりその笑顔はぎこちない。
「——こんな日は、小さい頃のことを思い出します……」
窓の外へ視線を向ける妹の瞳は、どこか懐かしむような、遠い目だった。
「ああ……私の部屋まで来て、一緒に眠ったこともあったな」
「覚えていてくださったのですね」
シーラは嬉しそうに目を細める。
「……あのときのように、一緒に寝てくださいますか?」
「馬鹿を言うな」
グレンは呆れたように返す。
「ふふ、冗談です……。お引き止めしてしまって、申し訳ありません」
そう言いながらも、シーラの表情には心細さが滲んでいた。
このまま部屋を出て行くのは、どうにも気が引ける。
グレンは小さく息を吐き、近くの椅子に腰を下ろした。
「眠るまで、ここにいてやる」
その言葉に、シーラの顔がぱっと明るくなる。
「お兄様……」
彼女はそっと、片手を差し出した。
グレンは一瞬だけ迷った後、その手に自分の手を重ねた。
そこから少し経ち。
シーラはすっかり眠りに落ちていた。
頬にはまだ熱が残っているものの、寝息は穏やかで、先ほどまでの苦しげな様子はない。
グレンはその寝顔を、じっと見つめる。
長い睫毛、安らいだ表情。
庇護欲を掻き立てられる。
と同時に、胸の奥がひどくざわついた。
そっと、繋いでいた手を離す。
手袋には、彼女の体温がまだ残っていて、妙に温かかった。
気付けば、その手を彼女の顔に伸ばしていた。
何故そんなことをしたのか自分でも分からない。
ただ、止められなかった。
指先で、そっと頬に触れる。
柔らかな感触が伝わってくる。
——何をしている。
自問と自制の念が脳を刺す。
それでも吸い寄せられるように、顔を近付けていき——。
コン、コン。
唇が触れそうになったところで、控えめなノックの音が響いた。
はっと我に返り、グレンは弾かれたように身を引く。
触れていた手を離し、深く息を吐いた。
胸の奥に残るざわめきを押し殺しながら、グレンはドアを開けた。
廊下には父の姿があった。
「リンゴを持ってきたんだが……」
そう言って父は、切り分けられたリンゴが盛られた皿を見せる。
「……シーラなら、つい先程眠りました」
「そうか。なら、これはお前にやろう」
皿を差し出すと、父はそれ以上何も言わず去っていった。
グレンは廊下に出て、静かにドアを閉めると、その場に背を預けるようにもたれかかった。
皿に視線を落とすと、フォークが刺さった一切れを手にとり口に運ぶ。
シャクリ、と小気味よい音が響く。
よく熟れていた。
程よい甘さと、僅かな酸味。
気付けば、ひとつ、またひとつと、無心でリンゴを口にしていた。
昼食を摂る暇もなかった身には、身体に染み渡るようだった。
腹は確かに満たされた。
それなのに——。
心の内側は、どうしようもなく空虚で、形容し難い飢えに苛まれている。
その理由を、グレンは考えようとせず、ただ目を伏せた。
2章 了




