2話
母と妹が屋敷に来て一週間が経過した。
その間思い知らされたことは、母の愛情が完全に妹へ傾いていることだった。
あからさまな態度こそ取らないものの、やはり避けられているという実感はある。
そして母は、片時もシーラのそばを離れようとはしなかった。
娘を息子に近寄らせたくないようだ。
「おはようございます、お兄様」
そんな母に反して、相も変わらず、妹は笑いかけてくる。
この日は珍しく、母は一緒ではなかった。
「母上はどうした?」
「お父様と、お知り合いの方々へご挨拶に向かわれました」
「そうか」
七年振りに夫婦が揃えば、それも必然だろうと納得する。
「お前も一緒に行けば良かったろうに」
「私はまだ、社交の場に出るには未熟ですから」
シーラは少し照れたように視線を伏せた。
その表情には落ち込んでいる様子はなく、むしろ安堵が滲んでいる。
「それに出かけていたら、こうしてお話することは出来ませんでした。——お兄様からお声をかけてくださったのは、これが初めてです」
シーラはそう口にすると、心から嬉しそうに微笑んだ。
グレンは感情を悟られぬよう、足早に廊下を進む。
「未熟だと言うなら、私に構ってないで勉強の時間に充てろ」
突き放すような物言いをしても、妹は少し遅れてついてくる。
「お勉強はいつでも出来ます。ですがお兄様とお話出来るのは、お母様がいない間だけです」
その声はどこか切実だった。
「ご迷惑でなければ、ご一緒させていただけると嬉しいのですが……」
シーラはおそるおそる、こちらの顔色を窺うように聞いてくる。
グレンは足を止め、前を向いたまま告げた。
「——許可を出すつもりはない」
シーラが落ち込んでいるのは、振り返らずとも気配で感じとれる。
「だから……」
言葉を探すように、僅かな沈黙が落ちる。
「お前の好きにすればいい」
断るつもりもないと暗に言えば、妹はぱっと明るい声で「はいっ!」と弾むように答えた。
二人は庭園に辿り着いた。
一面に広がる花畑には、季節の花々が咲き誇り、柔らかな陽光を受けて色とりどりに揺れている。
風に乗って、庭は甘い空気で満たされていた。
「わぁ……」
目をキラキラと輝かせているシーラの口から声が漏れる。
グレンは何も言わず、片隅に置かれた椅子に腰を下ろした。
手袋を外し、持参していた本を開く。
「とても綺麗ですね。まるで絵本の中みたいです」
花畑を見渡しながら、シーラは感嘆の息をつく。
「いくつか摘んでもよろしいでしょうか?」
「ああ、構わない」
「ありがとうございます」
シーラはぺこりと頭を下げると、花畑の中へと駆けていった。
しばらくして——。
「お兄様」
呼びかけられ、グレンは本から視線を外して顔を上げた。
そこに立っていたシーラの手には、色とりどりの花が数輪。丁寧に束ねられている。
「お近付きの印として、受け取っていただけますか? とびきり美しいものを選んでまいりました」
にこやかに微笑みながら、シーラは花をそっと差し出してきた。
不意の申し出に、グレンは言葉を失う。
好意に慣れていない心が、僅かにざわめいていた。
「——ああ」
花を受け取ろうと、本から手を離したそのときだった。
ピリッと、人差し指に鋭い痛みが走る。
見ると血が出ていた。どうやら、紙で切ってしまったらしい。
「あ……血が——」
驚いた声とともに、シーラの手が伸びてくる。
次の瞬間、グレンは考えるよりも先に、負傷していない方の手でバシンと叩き払った。
はたかられた衝撃からか、シーラの花を持っていた方の手が緩み、はらはらと花が地面に落ちていく。
シーラは目を見開いたまま固まっていた。
——やってしまった。
苦い後悔が胸の中に広がっていく。
「も、申し訳ありません。私、出過ぎたことを——」
「そうじゃない」
慌てて頭を下げるシーラを前に、グレンは思わず声を強めた。
落ちた花々に視線を落とし、ぐっと拳を握り締める。
「私は——」
一瞬、言葉にするのを躊躇った。
だがここで曖昧にしてしまえば、同じことが繰り返されるだけだ。
「……私の血は、猛毒で出来ている。口にすれば血を吐いて死ぬ。だから、安易に触れようとするな」
——ああ、終わった。
言い切った途端、心臓がひやりと冷えた。
これで今までのように無邪気に接してくることは、もうないだろう。
だが、妹の反応は、こちらの想定から大きく外れたものだった。
「存じております」
思いがけない言葉に、グレンは目を見開いてシーラを見る。
「ですが」
シーラは怯える様子もなく、懐からハンカチを取り出す。
「触れるだけならば問題ありません」
彼女は躊躇いなく一歩近付いた。布越しにそっとグレンの手を包み込み、血の滲む指先にハンカチを当てる。
「何故……」
漏れた声は掠れていた。
「気味が悪いと——恐ろしいとは思わないのか?」
問いかけに、シーラは不思議そうな顔をして首を傾ける。
「私はマクニース家の女です。どうして怖がる必要がありましょうか」
「母上は恐れている」
その言葉に、シーラのまばたきが一瞬止まった。
「お前と母上の療養も、半分は名目だ! この家から離れるための——! その気になれば私は……いつだってお前を殺すことが出来るんだぞ!?」
感情が抑えきれず、声が荒れる。
吐き出した言葉の重さに、グレン自身の胸が締め付けられていた。
「——必要であれば」
シーラはそう前置きをすると、負傷した指を握る手に、ほんの少し力を込めた。
「それも致し方ないことであると受け入れます」
あまりに迷いのない言葉に、グレンは呆然とする。
「ですが、本気で私を殺そうとなさる方は、そんなこと口にされません」
言いながらシーラは、グレンの手を両手で優しく包んだ。
「それに、扱いに気をつければどうってことありません。必要以上に忌避することなど、ないと私は思います」
静かな声と、温かな体温が心の中に染み込んでくる。
グレンの中で、長い間凝り固まっていたものが、僅かに軋んで音を立てたような気がした。
その直後、ポタリと空から水滴が落ちてくる。
次いでポタリ、ポタリと、次第に数を増していった。
「雨……」
上向けたシーラの手のひらに、冷たい雨粒が一つ落ちる。
グレンは彼女の手を引いた。
本と手袋を掴むと、屋敷の中へ足早に戻る。
雨脚は瞬く間に強まっていった。
幸い、二人は本降りになる前に屋敷に戻ったため、ずぶ濡れになることはなかった。
「さっきまであんなに晴れていたのに」
窓の外を眺めながら、シーラがぽつりと呟く。
グレンはゆっくりと彼女の手を離し、素手を隠すように手袋を嵌めた。
「……すまなかった」
俯いたまま、低く謝罪の言葉を落とす。
「今までのことも——先程のことも」
叩いてしまったシーラの手。
地面に散らばった花々。今頃は、雨に打たれて崩れているだろう。
思い返すほどに、気分が重くなった。
「これまでの非礼を詫びたい。何か望みはあるか?」
罪悪感を払拭したい一心で、グレンはシーラに尋ねる。
「でしたら……」
シーラは少し考える仕草をしてから、ゆっくりと口を開いた。
「ダンスの練習に、お付き合いいただけますか? ……ほんの少しで構いませんので」
照れ気味に答える妹に、グレンはふっと口元を緩める。
「お安い御用だ」
手を差し伸べると、シーラはぱっと表情を輝かせ、そっと自分の手を重ねた。
二人は並んで、ダンスホールへと向かっていく。
奏者はいないため、グレンが小さく曲を口ずさんだ。
ラララ……と、柔らかな旋律がダンスホールに静かに響く。
シーラは足取りがおぼつかないながらも、グレンの動きに懸命についていく。
何度かつまずきそうになるが、そのたびにグレンがさりげなく支えた。
二人の動きは決して洗練されたものではない。
それでも、顔を見合わせれば自然と笑みが零れ、楽しげな雰囲気がホールいっぱいに満ちていった。




