16話
左手に治癒魔法をかけ、手袋を嵌め直す。
そして紅茶を手に取り、何事もなかったかのような顔でグレンは談話室へ戻った。
カップを載せたトレイを、ローテーブルの上に置く。
「ありがとうございます」
シーラが自分の手前のカップを取ったのを確認してから、グレンも残った一つを手にした。
紅茶を口に運びながら、横目で妹の様子を窺う。
シーラはカップを両手で包み込んだまま、一向に口をつけようとしない。
「どうした?」
見かねて声をかけると、シーラは視線を落としたまま、静かに唇を開く。
「……言おうかどうか、ずっと悩んでおりました」
何を、と尋ねるよりも早く、彼女はそのまま言葉を続けた。
「マクニース家と決別して生きていく道もある、と言われたことを」
グレンの表情が凍り付く。
身体の内側を、冷たいものがズズと這っていく感覚に心が乱される。
「ですが、私にとっての幸せはマクニースの繁栄にあります。ですから……縁を切るなど、あり得ませんわ」
シーラはこちらを安心させるように、穏やかに微笑んだ。
その笑顔が、かえって胸を締め付ける。
思えば昔からそうだった。いつだって妹は家のことを第一に考えて、自分を顧みない。
「……私が言えた義理ではないが——」
前置きしてから、グレンは手にしていたカップをテーブルへ置いた。
カチャリと微かな音が、やけに大きく響く。
「お前はもう少し、自分自身の幸福を願ってもいい。家のためでも、誰かのためでもなく……お前自身のための」
これから自分がしようとしていることを思えば、あまりにも滑稽な言葉だ。
それでも——それは紛れもない本心だった。
出来ることなら、妹にそういう人生を歩ませたかった。
シーラは一瞬きょとんとした表情を浮かべ、やがて困ったように、けれど優しく微笑む。
「……ありがとうございます、お兄様。けれど、私は今の生き方を後悔しておりませんわ」
その声音には迷いがなく、あまりにも真っ直ぐだった。
「ですが……そうですね。欲を言えば——」
そこまで口にしたところで、シーラは言葉を切る。
そしてカップを口元へ運び、紅茶を一口含んだ。
グレンはその続きが聞けないことを、ほんの少しだけ残念に思った。
不思議なほど頭は冷静で、感情は遠くに置き去りにされている。
呪血の効果は、すぐに訪れた。
シーラの指先から、力が抜ける。
カップが傾き、床へ落ちた。
ふらりとこちらへ倒れ込む彼女の身体を、グレンは咄嗟に抱き留めた。
絨毯の上に紅茶が広がり、濃い染みを作っていく。
だが、そんなことはどうでもよかった。
腕の中で動かなくなったシーラを、グレンはただじっと見つめる。
その瞳は固く閉ざされ、長い睫毛が静かに影を落としていた。
——ああ。これで、やっと……私だけの……。
思わず口角が上がる。
胸の奥に溜まっていた澱みが、すっと消えたような気がした。
心は不思議なほど軽く、頭の中は言いようのない達成感で満たされている。
だが——。
シーラの頬にそっと触れた途端、視界が滲んだ。
何が起きているのか分からず、瞬きをして、ようやく気付く。
自分は、泣いているのだと。
軽くなったはずの心は、遅れて痛みを訴え始め、頭を占めていた達成感は、音を立てて崩れ、悔恨へと姿を変えていった。
動かず、応えもしない妹。
自分が欲しかったのは、果たしてこんなものだっただろうか。
違う。
——私が欲しかったのは、こんな姿ではない。
こちらに向けて微笑んでくれるシーラ。
何気なく、自分の手を取ってくれるシーラ。
名前を呼び、同じ時間を生きてくれる——。
望んでいたのは、そんな存在だったはずだ。
涙が止めどなく頬を伝い落ち、グレンは動かない妹を抱えたまま、声を殺して泣き続けた。
本当に欲しかったものを、もう二度と手の届かない場所へ追いやってしまった。
そのことを、今更ながら理解して。
「お兄様」
それは絶望が作りだした幻聴か。妹の声が耳に届く。
だがその直後、その考えを否定するかのように、すっとシーラの手がグレンの顔に伸びた。
温かい。
親指が、溢れた涙を優しく拭う。
あまりにも確かな感触に、グレンは息を呑んだ。
目の前には、もう二度と開かないはずの青い瞳。
確かに自分を映し、視線が絡み合う。
「お兄様が泣いているところ、初めて見ました」
いたずらが成功した子供のように、シーラはフフと笑った。
「何故……」
予想だにしない出来事に、グレンの思考は追いつかず、頭の中は混乱している。
「申し訳ありません、実はずっと隠していたことがあります。私は呪血に抗えるよう、お母様に育てられました。ですので——」
話の途中で、グレンは衝動のままにシーラを強く抱き締めた。
理由などもうどうでもよかった。
ただ、妹が生きている——。
それだけで心に光が灯る。
「すまなかった……私は……っ」
喉が詰まり、言葉は途切れる。後悔と恐怖と安堵がない交ぜになり、感情が決壊していた。
「……どうか謝らないでください。私はむしろ感謝しているのです」
その言葉にグレンは驚き、腕の力を緩めてシーラの顔を覗く。
「〝ずっと貴方のおそばにいたい〟——。それが私の真の幸福です。けれど、私がシーラ・マクニースである以上、それは決して叶わない」
シーラは静かに胸に手を当て、噛みしめるように言葉を続けた。
「ですが、シーラ・マクニースは貴方の手によって殺されました。今、貴方の目の前にいるのは妹ではなく、ただの女です」
一拍の沈黙の後に、切実な声音で告げる。
「マクニースに益をもたらすことも出来ない存在ですが……それでも、おそばにおいてくださいますか?」
しばし呆然としていたグレンだったが、やがて堪えきれないように声を上げて笑った。
「ハハッ……! 本当に……恐ろしい奴だな、お前は」
全てを手のひらの上で転がされていたことなど、もはや瑣末なことだ。
胸の内に広がるのは、久しく味わったことのない、ひどく愉快な感情——。
グレンは愛おしげに目を細め、そっとシーラの頬に手を添えた。
「ああ、今ここで誓おう」
指先はゆっくりと顎へ移り、逃がさぬように支える。
「この先、何が起ころうとも……」
距離を詰め、彼女の吐息が触れるほどに、体温の高まりを感じるほどに、顔を近付けて。
「お前だけは、最期まで手放さないと——」
永遠の誓約とともに、唇を重ねた。




