1話
「グレン。頼まれていた物だ」
食事の席で、父が手袋を差し出してきた。
上質な黒革で仕立てられたそれは、内側に柔らかな布が張られ、指先まで丁寧に縫製されている。動かしやすさと耐久性を兼ね備えた、実用本位の手袋だった。
大きさこそ違えど、父の手にも同じ手袋が嵌められている。
「ありがとうございます、父上」
グレンは礼を述べると、早速、長年使ってきた窮屈な古い手袋を外し、新しいものに替えた。
「どうだ?」
「ぴったりです」
言いながら、手を開いたり閉じたりして感触を確かめる。
「そうか。またサイズが合わなくなったら、すぐ言いなさい」
「はい」
短いやり取りを終え、二人は再び食事に戻った。
マクニース伯爵家に生まれた男は、皆その血に猛毒を宿している。
口にすればたちまち死に至らしめるその血は「呪血」と呼ばれ、人々から恐れられてきた。
現当主の嫡男であるグレン・マクニースも、例外ではない。
だからこそ一族の男達は、できる限り肌の露出を避けるため、手袋を身につける慣習を守っていた。
「……そういえば」
黙々と食事を続けていると、父がふと思い出したように口を開いた。
「近々、お前の母と妹が療養先から戻ってくる」
その言葉に、グレンはナイフを動かしていた手を止める。
「実に七年ぶりか。妹のシーラとは、これが初顔合わせになるな」
母は生まれつき身体が弱く、遠く離れた別邸で静養していた。その地で妹は生まれたため、父の言う通り、これまで一度も会ったことがない。
「日取りは三日後、到着は正午だ。昼食もそれに合わせる、必ず出席するように」
「……はい」
返事はしたものの、グレンの気は重かった。
母が家を離れていったのは、グレンが二歳の頃。
故に母に関する記憶はなく、肖像画でしか顔を見たことがない。
他人同然だ。
顔すら知らない妹は、尚のこと。
そんな二人とこれから同じ屋根の下で暮らすのだと思うと、内心落ち着かなかった。
◇
グレンの心情など無視するかのように、あっという間に三日が経過した。
食堂は、異様なほど静まり返っている。
カチ、カチ、と時計の針が刻む音だけが響き、長い食卓に着いているのはグレンと父の二人きりだ。
グレンは壁掛け時計に目をやる。
午後二時半。約束の時刻はとうに過ぎていた。
あまりにも遅いので、昼食は先に済ませた。
「……遅いですね」
重苦しい沈黙に堪えかねて、父に声をかける。
「道中、悪路も多い。仕方あるまいさ」
父は苛立っている様子もなく、グラスへ手を伸ばした。
「家庭教師が来る時間ですので、部屋に戻らせていただいてもよろしいでしょうか」
「ああ、構わん」
「ありがとうございます」
グレンは椅子から立ち上がると、ふと気になって問いかける。
「父上はまだお待ちになるのですか?」
「——ああ、せっかくの再会だ。温かく出迎えたい」
「左様ですか。——お付き合い出来ず、大変心苦しいです」
「心にもないことを」
父はハッと鼻で小さく笑った。
「それでは、失礼いたします」
グレンは一礼し、食堂から出ていく。
廊下を進み、階段を上ろうとした、そのとき——。
玄関の扉が、静かに開く音が響いた。
バタバタと足音を立てて入ってきたのは、一人の少女。
父によく似た金髪に青い瞳。髪は左右で二つに結ばれ、まだ幼さの残る容姿をしている。
少女は物珍しそうに、広い屋敷の中をキョロキョロと見回していた。
やがて、その視線がグレンに向く。
続いて、ゆっくりと一人の婦人が中に入ってきた。
黒髪に赤い瞳——グレンと同じ色を宿したその女性は、間違いなく肖像画で目にした母だった。
「あの——」
「お久しぶりです、母上」
少女の言葉を遮る形で、グレンは母に挨拶をする。
「……久しぶり、グレン。少し見ない間に大きくなったわね。九歳だったかしら? たしか」
母の様子はどこかよそよそしかった。
笑顔はぎこちなく、息子との再会を喜んでいるとは到底思えない。
「随分と遅いご到着ですね。何か事故でもありましたか」
「いいえ……ただ——」
母は答えながら、隣にいる少女の手をぎゅっと握り締めた。
「思っていたより道が悪くて……」
「左様ですか」
少女の手を握るその力は、何かに怯えているかのように強い。
これ以上、自分がここにいるのは良くないと、嫌でも察せられる。
「——食堂で父上がお待ちです。お元気な姿を見せてあげてください。私はここで——」
「あの!」
グレンが立ち去ろうとしたところ、少女が思い切ったように声を上げた。
「お初にお目にかかります」
少女は母の手を離すと、丁寧にスカートの端を摘み、優雅にカーテシーをする。
「私、本日よりこちらに住まわせていただきます、妹のシーラと申します」
名乗った後に、シーラは頭を上げる。
「この度、グレンお兄様とお会い出来たこと、大変嬉しく思います」
「……こちらこそ」
真っ直ぐこちらに微笑みかける妹に対して、グレンは視線を逸らし、短く答える。
シーラはその素っ気ない態度に気分を害する様子もなく、まるで花が綻ぶように、いっそう明るく笑った。
「さぁ、シーラ。お父様にもご挨拶に行きましょう」
「はい」
母に連れられて、シーラは食堂へと歩きだす。
グレンはその後ろ姿を、ただ黙って見送った。
廊下の途中で、シーラがふと振り返る。
そして、にこやかに小さく手を振った。
グレンはそれに応えることはせず、自室へ戻っていった。
ベッドに腰を下ろし、先程の妹の態度を思い返す。
あんなふうに他人から笑顔を向けられたのは久しぶりだった。
——周りの人間はいつも……。
母のような態度だ。
必要以上に距離を取り、視線を合わせることを避け、まるで触れてはいけないものを見るような、ぎこちない振る舞い。
——ああ、そうか。
きっと妹は、まだ何も知らないのだ。
——何も知らないから、あんなふうに笑っていられるのか。
血に猛毒が宿っていると知らないから——。
グレンはゆっくりと手袋を外し、むき出しになった自分の手をじっと見つめる。
真実を知れば、もうあんな顔は出来ないだろう。
きっと周りと同じように気味悪がって——。
ここまで考えたところで、妹の笑顔がまた脳裏に浮かんだ。
胸の奥がチクリと痛む。
もうあの笑顔が見られないのだと思うと、ほんの少しだけ、寂しいと感じてしまった。




