再契約のハンコは、指輪の代わりになりますか?
翌朝。
私は、グラン・ドラゴ(竜王様)に連れられて、城の一番高い塔の上に立っていた。
風が強い。
エプロンがバタバタと音を立てて暴れている。
眼下には雲海が広がり、その切れ間から、私がかつて住んでいた村が米粒みたいに小さく見えた。
「……高いですね」
「だろ? ここが、世界で一番空に近い場所だ」
竜王様は、塔の縁に腰掛けて、足をブラブラさせている。
怖くないのか。
いや、落ちても飛べるから平気なのか。
「エルマ」
「はい」
竜王様が、懐から一枚の紙を取り出した。
クシャクシャになった、羊皮紙の切れ端。
そこに、ミミズが這ったような汚い字で、何かがびっしりと書いてある。
「これ」
差し出された紙を、私は受け取った。
風で飛ばされないように、両手でしっかりと持つ。
『新規雇用契約書(案)』
タイトルの時点で、少し脱力した。
ロマンチックの欠片もない。
「読んでみてくれ」
言われるがままに、私はその汚い字を目で追った。
『甲は、乙に対し、以下の条件で再契約を申し込む』
『第一条:契約期間』
『変更前:一年』
『変更後:死ぬまで(※乙が嫌になったら途中解約可)』
『第二条:業務内容』
『変更前:生贄としての待機』
『変更後:城の管理、飯の用意、あと……話し相手』
『第三条:報酬』
『変更前:衣食住の保証』
『変更後:竜の宝物庫の「マスターキー」の譲渡。中身は使い放題とする』
私は顔を上げた。
竜王様は、そっぽを向いている。
耳が、髪の隙間から見える耳が、真っ赤になっていた。
「……なんですか、これ」
「だから、契約書の書き換えだ」
竜王様が早口で言う。
「役所から通知が来ただろ。更新料が50万ゴールドだって。……高いよな。バカ高い」
「そうですね」
「でも、俺の宝物庫には、その一億倍くらいの財宝が眠ってる。古代の金貨とか、伝説の剣とか、使い道のないガラクタが山ほどあるんだ」
彼は一度言葉を切り、意を決したように私の方を向いた。
「50万ゴールドなんて、俺にとっては端金だ。……でも、お前はそうじゃないって顔をしてた」
「……はい」
「だから、俺の全財産をお前に預ける。これで、更新料も、食費も、通販の代金も、全部お前が管理しろ。……そうすれば、文句ないだろ」
私は手元の羊皮紙を見つめた。
これは、プロポーズだ。
「結婚してください」なんて甘い言葉は一言もない。
でも、「死ぬまで一緒にいてくれ」「俺の全てを預ける」と、この不器用な竜は言っているのだ。
「……バカじゃないですか」
涙が滲んで、文字がぼやけた。
「こんな……こんな条件、ブラックすぎますよ」
「えっ、マジで? 待遇改善したつもりなんだけど……」
「違います。死ぬまでなんて……長すぎます」
私は羊皮紙を胸に抱きしめた。
「私、人間ですよ? あなたよりずっと先に死んじゃいますよ? それでもいいんですか?」
「……いいよ」
竜王様が、塔の縁から降りて、私の前に立った。
「お前がいなくなったら、また一人に戻るだけだ。……でも、お前がいた記憶があれば、たぶん、前よりはマシな引きこもりになれる」
彼は手を差し出した。
その手は、風邪をひいた時に繋いだ時よりも、ずっと力強く、温かかった。
「契約、更新してくれるか?」
私は涙を拭って、精一杯の笑顔を作った。
そして、彼の手を握り返した。
「……はい。謹んで、お受けいたします」
「よっしゃ!」
竜王様がガッツポーズをした。
「じゃあ、まずは役所に行くぞ! ペガサス便で送るとまた紛失するかもしれないからな!」
「え、今からですか?」
「善は急げだ! ほら、乗れ!」
竜王様が背中を向けた瞬間、その体が光に包まれた。
ボフンッ! という音と共に現れたのは、巨大な銀色の竜。
本性の姿だ。
『しっかり捕まってろよ、エルマ! 振り落とされるなよ!』
「きゃあっ!」
私は彼の背中に乗り込んだ。
硬い鱗の感触。でも、不思議と痛くない。
マザーの鱗を磨いた経験が生きているのかもしれない。
「行きますよ! 安全運転でお願いしますね!」
『おうよ!』
銀色の翼が広がり、私たちは大空へと飛び立った。
風が心地いい。
眼下の景色が飛ぶように流れていく。
私は竜王様の首にしがみつきながら、叫んだ。
「帰ったら、大掃除ですからね! 荷造りで散らかったダンボール、全部片付けますよ!」
『ええー……帰ってからも掃除かよ……』
竜王様の情けない声が風に消えていく。
これが、私の選んだ日常。
世界一強くて、世界一ダメな竜との、終わらないスローライフだ。
***
数日後。
「ちょっと! コタツの場所、こっちの方がテレビ見やすいでしょ!」
「いや、そこだと俺がトイレに行く動線が塞がれるんだよ」
「どっちでもいいから、私にミカン寄越しなさいよ!」
城のリビングには、いつもの騒がしさが戻っていた。
私、竜王様、そして当然のように居座っている勇者レオノーラ。
三人でコタツに入り、再放送のドラマを見ている。
「そういえばエルマ、契約更新したんですって?」
レオノーラがミカンを剥きながら言った。
「結局、指輪ももらわなかったの? ロマンがないわねぇ」
「いいんです。指輪より、もっといいもの貰いましたから」
私は、腰に下げたジャラジャラと重たい鍵束を鳴らした。
宝物庫の鍵だ。
これさえあれば、この城の財政は私の思うがままだ。
「ふふん。俺の愛はプライスレスじゃなくて、キャッシュレスだからな」
竜王様が得意げに言っているけれど、意味がわからない。
「まあ、いいわ。二人が幸せなら、私も守護しがいがあるってもんよ」
レオノーラは笑って、私の剥いたミカンを勝手に食べた。
「あ、それ私の!」
「減るもんじゃないでしょ。……あ、竜王様、このドラマの犯人、執事よ」
「おいネタバレすんな! 今いいとこだったのに!」
ギャーギャーと騒ぐ声。
温かいコタツ。
そして、窓の外に広がる青い空。
私は手元のノートを開いた。
『竜王城・家計簿』。
新しいページの1行目に、私はこう書き込んだ。
『収入:プライスレス。支出:みんなの笑顔(0円)』
……なんてね。
ちょっとキザすぎるから、後で修正液で消しておこう。
「エルマ、お茶!」
「はいはい、今淹れますよ」
私は立ち上がり、キッチンへ向かった。
背後で、竜王様とレオノーラがチャンネル争いをしている音が聞こえる。
平和だ。
退屈で、騒がしくて、愛おしい日々。
生贄として来たこの城は、いつの間にか、世界で一番居心地のいい「我が家」になっていた。
(おしまい)




