役所から「契約期間満了のお知らせ」が届いたので、荷造りを始めます
その手紙は、朝一番のペガサス便で届いた。
いつもの通販の箱じゃない。
無機質な茶封筒。
差出人は『王都中央役所・特殊祭事課』。
「……なんだこれ。税金の督促か?」
グラン・ドラゴ(竜王様)が、眠そうにコーヒーを啜りながら封を切る。
中から出てきたのは、一枚の書類だった。
「えーと……『生贄契約期間満了に伴う通知書』?」
「はい?」
私が洗濯物を畳む手を止めると、竜王様が書類を読み上げた。
「『拝啓、竜王様におかれましては益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。さて、貴殿に納品いたしました生贄(管理番号EL-001)につきまして、本契約の期間である一年が間もなく満了いたします』……だそうだ」
「一年契約だったんですか!?」
私は仰天した。
生贄って、一生モノじゃないの?
更新制だったの?
「『つきましては、期間満了に伴い、当該生贄の所有権を放棄し、速やかに人里へ返還することを推奨いたします。なお、契約更新をご希望の場合は、別途更新料(50万ゴールド)が発生します』……だってさ」
竜王様が書類をテーブルに放り投げた。
乾いた音が、静かな朝のリビングに響く。
「50万ゴールド……」
私は思わず呟いた。
あの時、竜王様が買おうとした詐欺商品の「幸運の石」が30万ゴールド。
私が「家が一軒建つ」と止めた、あの大金よりもさらに高い金額だ。
庶民の私からすれば、目が飛び出るような大金だ。
でも、竜王様にとっては?
あの時、石のためにポンと出そうとした彼にとっては、払えない額じゃないはずだ。
「……へぇ。一年で終わりなんだ」
竜王様の声は、ひどく平坦だった。
いつものような、ゲームで負けた時の悔しさも、ご飯を前にした時の喜びもない。
ただの、事実確認。
「じゃあ、お前……自由になれるってことだな」
「……そうみたいですね」
私も、妙に冷静な声が出た。
自由。
村に帰ってもいいし、王都で新しい仕事を探してもいい。
もう、この汚い城で、毎日パンツを洗ったり、散らばったポテチを掃除したりしなくていい。
「よかったじゃん。やっと解放されるな」
竜王様が、私を見ずに言った。
その言葉が、チクリと胸に刺さった。
「……そうですね。よかったですね」
私は畳みかけのタオルを握りしめた。
引き止めてくれないんだ。
50万ゴールドなんて、彼にとっては石ころ以下の値段のはずなのに。
私には、その石ころ以下の価値もないってこと?
「……荷造り、してきます」
「ああ。……昼飯、適当に食うからいいわ」
私は逃げるように自分の部屋へ戻った。
ドアを閉めた瞬間、足の力が抜けて座り込んだ。
涙は出なかった。
ただ、胸の奥が冷たくて、重かった。
***
それから三日間。
城の中は、死んだように静かだった。
私は黙々と荷物をまとめた。
竜王様は、一言も喋らずに玉座の間でゲームをしていた。
食事の時間は、お皿がぶつかる音だけが響いた。
「美味しい」とも、「不味い」とも言わない。
ただ栄養を摂取するだけの作業。
この城に来た当初の、あの「他人の距離感」に戻ってしまったみたいだ。
ううん、それよりも悪い。
一度知ってしまった温かさが消えた分、寒さが身に沁みる。
「エルマ、あんた何やってんの?」
静寂を破ったのは、やっぱり彼女だった。
勇者レオノーラ。
いつものように窓から……じゃなくて、今日はちゃんと玄関から入ってきた彼女は、廊下に積まれたダンボールを見て目を丸くした。
「引っ越し? 模様替え?」
「……出ていくんです。契約切れなので」
私が事情を説明すると、レオノーラは「はぁ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
「契約切れ? 更新料? そんなの、あの竜王様ならポケットマネーで払えるでしょ!」
「払う気がないみたいですから」
私は努めて明るく言った。
「まあ、私も村に帰れば実家の食堂を手伝えますし。勇者様とも、これでお別れですね」
「……ふざけないでよ」
レオノーラが低い声で呟いた。
「あんた、それでいいの? 本当に帰りたいの?」
「いいも何も、家主が出て行けって言ってるんですから……」
「バッカじゃないの!!」
レオノーラが叫んだ。
そして、ドスドスと足音を立ててリビングへ向かっていく。
「ちょ、ちょっとレオノーラさん!」
私が止めるのも聞かず、彼女はリビングの扉を蹴破った。
「グラン・ドラゴ!!」
竜王様がビクリと肩を揺らして振り返る。
「な、なんだよ。うるせぇな……」
「あんたこそ何よ! エルマを帰すって本気!?」
レオノーラが竜王様の胸ぐら(ジャージ)を掴んで揺さぶる。
「あんた、あの子がいなくなって生きていけると思ってんの!? 誰が掃除すんの! 誰がご飯作んの! 誰があんたの偏食を叱ってくれんのよ!」
「……オートマタでも買えばいいだろ」
竜王様が視線を逸らして呟く。
「ゴルドが言ってたし。そっちの方が効率的だし……」
「効率!? あんたが一番嫌いな言葉でしょ!」
「うるせぇ! だいたい、あいつだって帰りたがってるんだ! 自由になりたいんだよ! 俺みたいな引きこもりの世話なんか、うんざりなんだよ!」
竜王様が叫び返した。
その声には、怒りよりも、深い悲しみが滲んでいた。
「俺には……あいつを引き止める権利なんかない」
それを聞いた瞬間。
レオノーラの右足が閃いた。
ドガッ!!
「ぐはっ!?」
強烈な回し蹴りが、竜王様の脇腹に炸裂した。
世界最強の生物が、ボールみたいに吹っ飛んで壁に激突する。
「権利とか、契約とか、ぐちぐちうるさいわね!!」
レオノーラが仁王立ちになって叫ぶ。
「好きか嫌いか! 一緒にいたいかいたくないか! それだけでしょ!!」
彼女は私の方を振り向いた。
「エルマも! 何被害者ぶってんのよ! 『引き止めてくれない』? バカじゃないの! いたいなら『いたい』って言えばいいでしょ! 家政婦のくせに、家主に遠慮してどうすんのよ!」
私は言葉を失った。
その通りだ。
私は、竜王様が引き止めてくれるのを待っていた。
自分から「いたい」と言うのが怖くて、傷つくのが怖くて、相手のせいにしていただけだ。
「……はぁ、はぁ」
レオノーラが肩で息をしている。
そして、壁に埋まった竜王様と、立ち尽くす私を交互に睨みつけた。
「いいこと? 私が次にここに来るまでに、二人で話し合って結論を出しなさい。もし出してなかったら……」
彼女は聖剣を抜いて、テーブルを一刀両断にした。
「この城ごと、更地にしてあげるわ」
そう言い残して、彼女は嵐のように去っていった。
壊れたテーブルと、壁の穴と、私たちを残して。
長い沈黙の後。
竜王様が、瓦礫を押しのけてよろよろと起き上がった。
「……痛ってぇ。あいつ、マジで蹴りやがった」
「……大丈夫ですか」
「あばらが一本ヒビ入ったかも」
竜王様が苦笑いする。
「でも、おかげで目が覚めたわ」
彼はまっすぐに私を見た。
その紫色の瞳には、もう迷いはなかった。
「エルマ。……話がある」
「はい」
「ここではなんだ。……明日、一番景色のいい場所に行こう」
それは、まるでデートの誘いのような、でももっと真剣な、決意の響きだった。
私は小さく頷いた。
荷造りしたダンボールは、まだ廊下に積まれたままだ。




