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生贄で来ましたが、竜王様の部屋が汚すぎるので掃除していいですか?

ガタン、と車輪が石畳に乗り上げる嫌な音がした。


吐き気がする。


それはこれから「食われる」という恐怖からくるものなのか、それとも単純に、このボロ馬車の乗り心地が最悪だからなのか。


たぶん、後者だ。


私、エルマはそういう人間だ。世界の危機よりも、目の前の乗り物酔いの方が深刻な問題なのだ。


「ついたぞ、生贄」


御者の男の声は、まるで不要なゴミを出す時のような、事務的な響きだった。


扉が開く。


湿った風が吹き込んできた。


目の前にそびえ立つのは、魔の山の中腹にある「竜王の城」。


黒い岩肌に同化するように建てられたその城は、数百年もの間、人類の侵入を拒んできた……はずだ。


村の古文書にはそう書いてあった。

『近づく者、全て灰燼かいじんに帰す』と。


「じゃ、俺はここで」


御者は荷物を降ろすみたいに私を降ろすと、脱兎のごとく馬車を走らせて帰っていった。


残されたのは私と、小さなバスケットひとつ。


中身は、村長が「せめてもの情けだ」と持たせてくれた、サンドイッチと水筒。

これ、私が竜王に食べられる前の「餌付け」ってこと?

笑えない。


私はため息をついた。


怖くないと言えば嘘になる。

でも、村での生活も似たようなものだった。


「影が薄い」「いてもいなくても変わらない」「あ、いたの?」


そんな言葉を背中に浴び続けて20年。

最後に誰かの役に立って終わるなら、それもまた人生か。


ギィィィ……。


城の巨大な扉は、鍵がかかっていなかった。

重たい鉄の扉を両手で押し開ける。


錆びついた蝶番ちょうつがいが悲鳴を上げた。


「失礼……します」


誰もいない。


広いエントランス。

高い天井には、かつて美しかったであろうシャンデリアがぶら下がっている。

でも、電球……じゃなくて魔石が切れているのか、薄暗い。


コツ、コツ、コツ。


自分の足音だけが響く。

玉座の間はどこだろう。

竜王はそこで、炎を吐きながら待っているのだろうか。


奥へ進むにつれて、異変に気づいた。


匂いだ。

血の匂いじゃない。

獣の臭いでもない。


これは……。

私がよく知っている、生活感あふれる匂い。

醤油と、油と、ちょっと放置された生ゴミの混ざったような……。


「うっ」


思わず鼻をつまんだ。

匂いの元は、巨大な観音開きの扉の向こうから漂ってきている。


ここが玉座の間か。

私は覚悟を決めた。


震える手で扉を開ける。


「生贄のエルマです! 煮るなり焼くなり好きにして……くだ……さ……」


言葉は、喉の奥で止まった。


そこは確かに、かつて玉座の間だった場所だ。

赤い絨毯が敷かれ、ステンドグラスから月光が差し込んでいる。


でも、その景色を台無しにしているものがあった。


ゴミだ。

ゴミの山だ。


読み終わった週刊誌のタワー。

脱ぎ捨てられたスウェットのズボン。

片方だけの靴下。


そして、何より目を引くのが、部屋の隅に積み上げられたカップ麺の空き容器。

その数、ざっと百はいっている。


『賢者の3分・濃厚豚骨醤油味』のロゴが、月光に照らされて虚しく光っていた。


「……は?」


状況が理解できない。

竜は?

伝説の怪物は?


視線を泳がせると、ゴミの山の頂上……じゃなくて、玉座の上になにかがいた。


巨大なトカゲ? いや、違う。

人だ。


銀色の長い髪をした男が、背中を丸めて座っている。

着ているのは、首元がヨレヨレになったグレーのジャージ。

手には四角い石版のようなものを持って、親指を忙しなく動かしている。


ピコピコ、という電子音が静寂に響く。


「あー、くそ。また死んだ。このクソゲー、判定厳しすぎだろ」


男は低い声で独り言を呟くと、石版を放り出し、そのまま玉座の背もたれにダラリと寄りかかった。


そして、大きなあくびをして、ようやく私の存在に気づいたようだった。

眠そうな、切れ長の目が私を捉える。

その瞳は、宝石のように美しい紫色だったけれど、その下には見事なクマができていた。


「ん……? 誰だお前」


「え、あ、生贄の……エルマです」


「生贄?」


男は眉をひそめ、ボリボリと頭をかいた。

フケが舞い散るのが見えた気がして、私は反射的に半歩下がった。


「ああ……そういえば今日だっけ。ピンポン鳴らないから気づかなかったわ」


「ピンポン……?」


「結界の通知音だよ。まあいいや。そこ置いといて」


「え?」


「だから、そこ。玄関に置いといてくれればいいから。あ、ハンコいる?」


男は私を「宅配便」か何かだと思っているらしい。


私はバスケットを握りしめた。

恐怖よりも先に、ある感情がふつふつと湧き上がってきたからだ。


私は、この部屋の惨状を見てしまった。

床にこぼれたまま乾燥したスープの跡。

ホコリをかぶった高そうな壺。

そして、この男の、どうしようもない怠惰な空気。


村では影が薄かった私だけど、一つだけ誰にも負けない特技があった。

それは、汚い場所をきれいにすること。


実家の食堂の厨房も、学校のトイレも、私が磨けば鏡のように輝いた。

汚いものは許せない。

整理整頓されていない空間は、私の敵だ。


「あの、竜王……様、ですよね?」


「んー? そうだけど。なに、早く帰ってよ。俺これからアニメ見なきゃいけないんだわ」


男は面倒くさそうに手を振った。


帰れ?

生贄なのに?

……いや、そんなことより。


私はスタスタと玉座……いや、ゴミの山に近づいた。

足元に転がっていた空き缶を蹴飛ばす。


カラン、と乾いた音が響いた。


「おい、何して」


竜王が見上げる前で、私は仁王立ちになった。

そして、自分でも驚くほどドスの利いた声で言った。


「帰れません」


「は? なんで」


「こんな汚い部屋を見て見ぬふりして帰れるわけないでしょうが!!」


私の怒号が、広い玉座の間にこだました。


竜王が、ポカンと口を開けて私を見ている。

その口元に、さっき食べたのであろう焼きそばのソースがついているのが見えて、私の理性の糸が完全にプツンと切れた。


「まず換気! 空気が澱んでます! それからそのジャージ、いつから洗ってないんですか!? 獣臭いですよ!」


「え、いや、これ竜の匂いだし……」


「言い訳しない! 立ってください! 掃除機……はないから、箒! 箒はどこですか!」


私はバスケットを放り投げ、腕まくりをした。


恐怖なんてどこかへ行ってしまった。

今、私の目の前にあるのは、伝説のドラゴンでも世界の危機でもない。


ただの、片付けられない男だ。


「お前……食うぞ?」


竜王が少し凄んでみせた。

空気がビリリと震え、背筋が凍るような殺気が溢れる。


ああ、やっぱりこの人は竜なんだ。

本気を出せば、私なんて指先一つで消し炭にできる怪物なんだ。


でも。


「食う前に、その足元のジャージを洗濯機に入れてください!」


私は一歩も引かなかった。


竜王は数秒間、私を睨みつけていたけれど、やがて大きなため息をついて、力が抜けたように肩を落とした。


「……洗濯機、二階の脱衣所にある」


「洗剤は!?」


「棚の上……」


「よろしい!」


こうして、私の生贄としての人生は終わった。

そして、竜王の城の「オカン」としての新しい生活が、唐突に始まったのだった。

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