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8 出会い

いつもお読みいただきありがとうございます。


祭りから二週間。ヴェルサントルの街は再び日常の喧噪を取り戻しています。

商人や学者が行き交う中、クレージュの日常、ニコルやケインとのやり取り、そして新たな仲間との出会いが描かれます。


一方で、街の裏側では静かに“不穏な気配”が動き始めていました。

少しずつ広がっていく影、その存在がやがて物語にどう関わっていくのか……ぜひ読み進めていただければ幸いです。

昼下がりのヴェルサントルは、陽光と喧噪に包まれていた。

 市場の通りでは、砂漠の商人が香辛料を山のように積み上げ、獣人族の子らが声を張り上げて客を呼ぶ。学者街では、巻物を抱えたエルフが早口で言葉を交わしながら、風のような足取りで書庫へ急いでいく。東方の布には鮮やかな染めが滲み、北方の皮衣は堅牢な艶を放つ。耳の長い者が値切り、角のある者が太い笑い声を立て、鱗持つ者が涼しげに薄い目を細める。多様な種族と文化が、ひとつの街路で入り乱れながらも、ぶつかりそうでぶつからない——永世中立都市の“仕組み”が、今日も目に見えぬところで働いているのがわかる。


 通りの角では、旅装の老人と若い商人が値段をめぐって丁々発止のやり取りを繰り広げていた。老人が顔の皺を笑いで折りたたみ、指を三本立てると、若い商人は両手を広げ、まるで空の大鷲でも捕まえるような大げさなジェスチャーで「それはない」と首を振る。耳の長い少年がその横をすり抜け、転ばないように、でも急いで、職人街へと駆けていく。

 どこも、生活の音で満ちていた。油の跳ねる音、炭の弾ける音、遠くの鐘、荷車の軋み——それぞれが違うのに、妙に調和している。


 その一角、《ブラハム堂》の裏手では、白い粉がふわりと宙に舞った。


 「ぶえっくしょん!」

 ケインの大きなくしゃみに、生地をこねていた台が一面、さらりと雪をかぶったみたいに真っ白に染まる。


 「お前なぁ! 塩と粉を間違えるだけじゃ飽き足らず、今度は雪でも降らせる気か!」

 フレイが額を押さえ、呆れた声を上げる。無精髭の下で唇が吊り上がってはいるが、怒鳴りの芯は柔らかい。


「ご、ごめん!……でも、なんかきれいだな!」


 照れ笑いを浮かべるケインの頬や髪にも粉が積もり、目の縁に白い粒がきらりと光る。まるで路地裏に迷い込んだ雪の妖精のようだ。


 クレージュは吹き出しそうになるのをこらえながら、素早く手を伸ばして生地を整え直した。台の角から流れそうになっていた生地も、掌の返しで元の塊へ戻す。

 「はは、まぁこれも経験だよな。……父さん、配達は俺が行ってくる」


 「おう。行ってこい。粉まみれの弟を連れてな」

 フレイの笑い混じりの声に、ケインが「弟じゃないってば!」と頬を膨らませる。粉がふわりと舞い、陽射しの粒に混ざってきらめいた。

 温かな喧噪が、窯の炎よりも柔らかく裏庭を包み、パンの香りが小さな庭木の葉の間を通って路地へ流れていった。


* * *


 配達に出る前、店先で籠の紐を結び直していると、鈴の音のような声が背後から響いた。


 「クレージュ!」


 振り返ると、ニコル=マルシャンが息を弾ませて駆け寄ってくる。栗色の髪をリボンでまとめ、上等な布のワンピースを着ているのに、歩き方は堂々としていて、商人の娘らしい迷いのなさがあった。

 彼女はヴェルサントルいちの商人——マルシャン家の娘。誰もが名を知る大商家の令嬢だが、友人たちの前ではただの少女のように頬を染めて笑うこともある。


 「新しい宣伝札を作ったの。見て、『星のパン・朝の粉雪こなゆき』よ」

 彼女は胸を張って紙札を差し出した。手触りのいい厚紙に、星の切り込みと小さな文句が踊る。

 「焼き上がりに白砂糖をひとつまみ振って、“星の粉”を表現するの。見た目で勝つのが先。味はその次に追いかけてくるのよ」


 クレージュは受け取りながら素直に頷いた。

「名前はちょっと長くなったけど……悪くないな」


 「“ちょっと長い”じゃなくて、“すごく素敵”でしょ!」

 ニコルは少しむくれながらも、目はどこか期待に輝いている。 


 「今夜、学者街で講義があるの。人が集まるときは甘いパンがよく売れるから、貼ってきてちょうだい」

 「わかった、任せとけ」

 「ふ、ふん。そういうことは最初から素直に言えばいいのよ」


 横からケインが顔を出す。頬や前髪の粉は、未だに落ち切れていない。

 「オレもやる!」

 「ふふん、もちろんよ。ケインは一番頼れる営業マンだもの」


 「やった!」

 ケインが飛び跳ねるように喜ぶのを見て、ニコルは「調子に乗らないの」と口で釘を刺しつつ、口元をわずかに緩めた。

 「でも、ちゃんと言ってよね。『マルシャン家のお嬢様のお墨付きです』って!」


 「ええ~、それ恥ずかしいよ」

 「な、なによ! 私が一緒にやってあげるんだから、感謝しなさい!」


 強がる声に、クレージュとケインは思わず顔を見合わせ、同時に吹き出した。

 ニコルは「笑わない!」と頬をふくらませたが、しばらくして彼女自身も小さく笑っていた。粉の白がケインの頭から風にのって舞い、紙札の星の切り込みの上に、ほんのり雪のように積もった。


* * *


 学者街方面への配達を先に済ませると、クレージュは予定どおり冒険者ギルドへ足を向けた。フレイに言われたとおり——登録するためではなく、“場”を見に行くために。


 石と木で組まれた大きな建物の扉を押すと、空気の厚みが一段変わった。

 壁には依頼の札がびっしりと貼られ、受付の前には列。革と油の匂い、酒と汗の匂いが交じり合い、独特の重さを作っていた。床の染みは新旧が重なり、柱には数え切れないほどの刻み傷が走る。そのひとつひとつが、ここを出入りした者たちの足跡のように思えた。


 (これが……冒険者の“場”)


 クレージュは圧倒されつつも、背筋を伸ばして空気を吸い込む。弓兵の女が矢羽根を撫で、魔術師らしい青年が羊皮紙の端を指で癖づける。盾の縁を石で磨く音、金属が鞘に触れた乾いた響き、遠くで誰かが笑い飛ばす声。

 『北壁外の草原、魔猪の群れ駆除』『学者街・巻物搬送の護衛』『港倉庫の夜間見回り』——掲示板の札を目だけで追うだけで、喉が乾くような緊張と高揚が入り混じった。


 その時、入口付近で怒号が響いた。


 「割り込むんじゃねぇ、小娘!」

 「どけ、猫族!」


 人垣が割れ、視界がひらく。黒革の軽鎧、包帯の覗く前腕、ぴんと立つ灰色の耳、しなやかな尾。猫族の少女が、わずかに腰を落とした姿勢で立っていた。年はクレージュより少し上に見える。眼光は笑っていない。


 最初の大男の手が肩を掴みに来た瞬間、彼女の足が床を滑る。重心が沈み、次の瞬間には肘が脇腹を突いた。

 くぐもった空気の切れる音。掴んだはずの手は空をつかみ、男の体が遅れて折れ曲がる。


 「このっ!」

 別の男の拳が飛ぶ。彼女は半歩下がり、前足を入れ替えると、低い姿勢から顎を打ち上げた。大男の首がのけぞり、膝があっけなく落ちる。

 その動きに無駄はない。筋肉の線が短く連携し、関節が抵抗より早く目的を選ぶ。舞うのではなく、止まらない——そういう体。


 「すげぇ……」

 思わず漏れた声に、隣で列に並んでいた弓兵が肩をすくめた。

 「ブリジットだ。ラベットの戦士。猫族の中でも、あの身のこなしは群を抜いてる」


 最後の大男が突進してくる。彼女は半身で受け流し、背中に掌を滑らせ、肘の向きを変えただけで地面に落とした。極める音はしない。止まる音しかしない。

 倒れた男たちの荒い呼吸の上から、周囲のざわめきがふっと戻ってくる。受付の男が苦笑して肩をすくめ、札を書き換える手を止めない。日常の延長線上にある暴力——ギルドはそれさえも呑み込んで、平らに戻してしまう場所だった。


 「列は守る。前に出るのは腕だけ」

 短く言って、彼女は列の最後尾に戻った。尾は一度も怒りで逆立っていない。怒りではなく、訓練で戦っている。


 (あれは——父さんでも笑えない)

 視界が広がる音がした。木剣で刻んできた線の先に、未知の線が見える。


* * *


 王宮の書庫は、昼でも静謐だった。

 磨かれた床、磨かれた書架、磨かれた時間。ページの匂いとインクの残り香が薄く漂い、外の喧噪から切り離された島のように、ここだけは別の空気を湛えている。


 フランソワーズは学者に用件を伝え、一般閲覧室の手前で足を止めた。

 視界の端を白が流れる。深くフードをかぶった一団。中央に背の高すぎない影。細く白い指が巻物の端を押さえ、肩の落とし方に独特の品がある。


 (エルフ? いや——)

 布の陰、耳の輪郭が光の角度で一瞬だけ浮かんだ。長い。エルフだ。しかも歩幅が小さい。若い、あるいは女か。

 フランソワーズが視線を外したのは一瞬にすぎない。だが、その一瞬で彼らは棚の陰へするりと消えた。足音は驚くほど静かで、香りも残さない。


 廊下で学者に呼び止められる。

 「フランソワーズ殿。先日の祭りの件、やはり“偶然”ではないと見ますぞ」

 「根拠を」

 差し出されたのは小さな木片。焦げのついた断面に、黒ずんだ薄い膜が張り付いている。

 「櫓の基礎に残っていた断片です。自然発火の広がりではありません。獣脂に似た油脂の塗布痕。炎の回りを速める工夫でしょうな」

 「つまり、誰かが——」

 「燃えやすい仕掛けを最初から施していた」

 学者はさらに声を落とす。「それと……この印」

 縁に、爪で刻んだような小さな点が三つ。掠れてはいるが、確かに並んでいる。

 (また、三つの点……!)

 胸の内で警鐘が澄んだ音で鳴る。

 (表は事故。裏は意図。ならば、裏で追う)

 彼女は木片を丁重に受け取ると、礼を述べ、踵を返した。歩幅は変わらない。変えないようにしている。内側の焦りを、足取りに滲ませぬために。


* * *


 短い外出を許されたリシェルは、フランソワーズの護衛のもと書庫へ向かっていた。

 回廊の窓から差す光は白く、石床に反射して眩しい。

 すれ違った白いフードの一団。そのわずかな隙間から覗いた瞳に、翡翠の色が閃く。


 (綺麗……そして、硬い)

 思わず足が止まりかけ、踵の音が半拍遅れる。フランソワーズがさりげなく前に立ち、視線の流れを切った。

 「姫様」

 「……わかっているわ」

 自制は効く。けれど好奇心は消えない。王女としての自覚と、ひとりの少女としての心が、胸の奥で小さく綱引きをしていた。


 書庫の窓辺に立つと、庭の緑が遠くに揺れ、その向こうに市壁の白が光を返す。上から眺める街は、絵地図のように整っていて、でも確かに鼓動の音があった。

 (また——会えるかしら)

 灯の夜に見た、青い瞳。正しく呼べなかった名前。心の奥に小さな波紋が広がって、やがて透明になる。

 フランソワーズはその横顔を一瞥し、なにも言わない。守るべきものが、彼女の中では増えている。王女の身と、王女の心。その両方。


* * *


 夕刻。《ブラハム堂》は客であふれた。

 ニコルは宣伝札を軽やかに配り、笑顔で「星のパン・朝の粉雪」を推す。

 「見た目が大事! ひとくち目の“わぁ”が次のひとくちを呼ぶの!」

 彼女の声に釣られるように、人々の手が伸びる。白砂糖の細粒が淡い光を反射し、切り込みからふくらんだ生地が、小さな星のひび割れを作る。

 ケインは会計台で、銅貨を指先で弾ませる練習をしながら、時々やらかしては素直に謝る。

 「す、すみません! えっと、これで合ってます!」

 「合ってる。落ち着け」

 クレージュは笑い、客と軽口を交わしながら、昼間の光景を何度も反芻した。ギルドの空気。ブリジットの身のこなし。書庫の白い影。学者の示した木片の膜。

 (守りたい、という気持ちだけじゃ——足りない)

 足りないのは何だ。技か、覚悟か、それとも。


 店じまいの頃、フレイが樽を片づけながら言う。

 「明日の朝は粉の吸いが早い。水を欲しがる。配達の順路、逆回りにしてみろ」

 「了解」

 短い指示に、長い年月が滲む。教えることと隠すこと。その境目の微妙さが、父の背中にはいつもあった。

 (父さんも——なにか、知っている)

 喉まで出かかった問いを、クレージュは飲み込んだ。今はまだ、聞くべき時ではないと、どこかで分かっていた。


* * *


 同じ頃、倉庫街のはずれ。

 灯りの消えた廃屋に、影が集まっていた。窓は板で塞がれ、隙間から差す灯ひとつない。外を通る荷車の軋みに合わせ、床の埃が微かに震える。


 「次は王宮前の献花式だ。視線は上へ向く。下は空く」

 「衛兵の交替は?」

 「三分。十分だ。鎖は使わない。布でいい。風と火で形は作れる」

 「フランソワーズ=クレマンは厄介だ」

「嗅いでいるのは“意図”だ。なら、“意図”に見えないやり方にする。印は残さない」

 「上は何と言っている」

 「北だ。……オベールの“関心”は高い」

 短い沈黙。息を呑む音も、喉を鳴らす音もない。

 「姫は?」

 「狙う。これは始まりにすぎない」


 石床の上の小箱の蓋が、静かに閉められた。中には油を含ませた粗布と、指先ほどの金具がいくつか。偶然に見せる道具は、いつだって小さい。小さいからこそ、人は見逃す。


* * *


 夜更け、街路のざわめきが静まり、灯火だけが石畳を照らしていた。露店の骨組みは畳まれ、通りの埃は風に押されて角へ寄る。遠くで犬が一声吠え、すぐに黙る。

 人気の消えた路地の隅では、ひそやかな影が足跡を消し、闇に紛れていく。誰も気づかぬところで、次なる仕掛けが練られていた。


 一方、王宮の高窓からは星明かりが差し込み、リシェルは胸に手を当てて瞳を閉じる。昼の笑顔はそのままに、夜の静けさだけが、心の底の棘に触れる。

 (なぜ——私なの)

 問いは音にならず、息になる。

 フランソワーズは窓辺に立ち、夜の街を見下ろしていた。

 屋根の隙間、灯の届かぬ暗がり。

 あの“印”は、影に潜む何者かが残した痕跡に違いない。

 言葉は不要だ。影を見つめる瞳が、そのまま誓いとなる。

 リシェルを守り切れなかった自責が、静かに胸を焦がしていた。


 そして《ブラハム堂》の二階では、クレージュが明日の配達籠を整え、木剣の柄を軽く握りしめていた。

 パンを焼く手と、剣を握る手。両方を同じ手でやるのは無謀かもしれない。だが、無謀と挑戦は紙一重だ。

 (俺は——行く)

 柄に指を添えた一瞬、掌の奥に微かな熱が走った。すぐに消えるそれは錯覚か、あるいは、まだ名もない兆しか。


 誰も知らぬまま、それぞれの夜が過ぎていく。

 だが見えぬ水面下では、確実に“次”が動き始めていた。

 風が、街を撫でて通りすぎる。ざわめきは、始まりに似ていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


今回はヴェルサントルという街の「多様さ」と「にぎやかさ」をより丁寧に描きました。

同時に、ニコルのお嬢様らしい一面や、ツンデレな一面も少し強調してみました。

ケインとの掛け合いも含めて、少しずつキャラクターの関係性が形になってきた回だったと思います。


そして物語の裏側では、新たな“敵の影”が動き始めています。

次回以降、その気配が少しずつ具体的な形を取り、クレージュたちの日常にも影を落としていく予定です。


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