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7 静寂の街角

紙灯しとうの夜から一週間。

ヴェルサントルはいつもの賑わいを取り戻したはずなのに、人の目に映らないところで、何かが静かに形を持ちはじめています。

日常の匂い、手触り、温度を丁寧に重ねつつ、三人それぞれの“続き”を描きました。どうぞお楽しみください。

 ヴェルサントルの朝は早い。

 あの祭りの夜から一週間が過ぎ、街はすっかりいつもの顔を取り戻していた。石畳に紙灯しとうの灰はもうなく、露に濡れた花壇の土が甘く匂う。東の門から市場へと流れ込む風は、香辛料の刺激と焼き菓子の甘さを抱き込み、通りの角度にあわせて香りの層を変えた。砂漠の商人がきらびやかな布を広げ、海沿いの職人が貝の装飾を並べ、長耳のエルフが巻物の束を胸に抱えて書庫へ急ぐ。舌も、目も、耳も、肌も、この街にいるだけでいくつもの国境を越えてしまう。


 《ブラハム堂》の裏手では、さらに濃い粉の匂いが立ちこめていた。

 フレイが捏ね台に体重を預け、両掌で生地を押し出すたび、むに、と柔らかな抵抗が返る。生地の表面は薄い膜を張ったように艶やかで、フレイの手が離れると、ふっと息を吐くように膨らんだ。


 「父さん、二次発酵、温度どうする?」

 「風が冷てぇ。三度上げろ。……ケイン、その粉は左だ。右は塩だって言ったろ」


 「へへっ、ごめん!」

 ケインが小麦袋にしがみつき、危うく足を取られた。抱えた籠がふわりと傾ぐ。焼き立ての小さな丸パンがひとつ、縁を越えかけ——


 「っと」

 クレージュの指先が、空中の重心をたしかにつまみ直した。

 ほんの刹那、掌の内側に、熱でも冷たさでもない微かな脈動が走る。皮膚の奥だけが、それを覚えている。


 「兄ちゃん、すげぇ!」

 「足もとを見ろ。手より先に、目で止めるんだ」

 フレイは無愛想な声で言い、口の端をわずかに上げる。「よし、配達だ。貴族街に追加一件。王宮近くの小さな館だ」


 「俺が行くよ」

 「ケイン、軽いほう持て。重いのはまだ早ぇ」


 「おう!」

 扉を開けると、朝の光が粉の香りを撫でていく。二人は籠を分け合い、石畳へと踏み出した。


* * *


 市場は、もう昼のような活気だった。

 油のはねる音、銅貨が触れ合う甲高い音、誰かの笑い声。そのすべての上を、炭火の匂いが薄く流れていく。露店の親父が並べた串を手際よく返すたび、脂が炭に落ちて、ぱち、ぱち、と赤い火花が散った。黒く燻された竹串から立ちのぼる煙は、甘辛いタレの匂いを引き連れて鼻の奥に残る。


 「兄ちゃん、あの帽子見ろよ! 羽根が王宮の旗くらいでっけぇ!」

 「見惚れるのはいいが、ぶつかるな」

 目の前を、青と銀糸の外套を纏ったエルフの学者が通り過ぎた。細い指が空中に図形を描く。三角、円、交差する線。連れの若い人間の学徒は必死に頷きながらメモを取っている。別の角では、獣人の女主人が蜂蜜に漬けた木の実を量り売りしていて、ケインがつい足を止めた。


 「兄ちゃん、これ買っていい?」

 「帰りに余ったらな」

 「けちー!」

 言いながらも、ケインの足は軽い。籠の揺れ方で、彼の上機嫌がわかる。


 「パン……パンはあるかね?」

 背の低い老婦人が声をかけてきた。白髪を布で束ね、皺の深い額に薄い汗がにじんでいる。

 「ありますよ。蜂蜜パイがいい焼き色です」

 「祭りの夜は怖かったけどねぇ、朝はちゃんと来るもんだよ」

 老婦人は銅貨を渡し、ふとクレージュをまじまじと見た。「君、祭りの夜に——」

 「え?」

 「ああ、気のせいか。年寄りはね、昔話と昨日のことがよく混ざるんだよ」

 老人の人懐こい笑いに、クレージュも曖昧に笑い返した。胸の奥の棘が、かすかに触れる。


 (“事故”で済むなら、それでいい。けれど——)


 貴族街の門の手前、巡邏の衛兵が「おはよう」と顎で合図した。ケインが小さく会釈して通り抜ける。門を越えれば空気が変わる。石畳は同じなのに、磨かれ方が違う。庭木の刈り込み、壁の白さ、門番の靴の光り方。王宮に近いというだけで、息の仕方まで正される気がする。


 配達先の小さな館の扉は、鈴を鳴らす前に開いた。新しい侍従らしき青年が、張り詰めた笑顔で籠の中身を検める。

 「助かります。奥さまが、こちらの焼きたてでないと『朝ではない』と仰るので」

 「毎度どうも」

 扉が閉じる寸前、奥の廊下に白い影が揺れた。無意識に背筋が伸びる。白い、という色だけで、ある顔立ちが脳裏に浮かびそうになって、クレージュは慌ててそれを追い払った。


 帰り道、ケインが横を跳ねる。

 「兄ちゃん、緊張してた?」

「少しな。空気が違うだろ」

 「オレは兄ちゃんのパンがあればどこでも平気!」

 その無邪気が、羨ましい。頼もしい。救われる。クレージュは息を吐き、笑った。


* * *


 王宮の執務室では、午前の日差しが白い壁に反射し、室内を均一に明るくしていた。

 フランソワーズは、机に広げた書類の束を順にめくる。衛兵の巡回記録。資材搬入の許可証。工匠組合の名簿。欠けた名前、曖昧な署名、時間帯の不整合。指先が止まるたび、彼女は小さく日付を記す。

 (ひっかかりは、同じ地点に寄る)

 祭りの夜に見つけた“黒い三点”。今朝もう一度現場を見た時には、掃除の手でほとんど痕跡は消えていたが、位置関係は彼女の頭に焼きついている。露店の足、鎖の通り、櫓の基礎、そして人の流れ。偶然の傷は散る。しかし、意図の痕は連なる。


 窓の外、庭でリシェルの笑い声がした。侍女に花を受け取り、香りを確かめる仕草が愛らしい。

 (あなたは光だ。光は、影に狙われる)

 胸の奥で鈍い音が鳴った。誓いが、自分の中で形を変えていく。従者としての忠義だけではない。幼い頃から、彼女が泣けば慰め、笑えば一緒に笑った。あの小さな手を、何度握っただろう。

 (私は、あなたを守りたい。肩書きや名誉ではなく、私という人間のままで)


 扉が叩かれ、リシェルが顔をのぞかせた。

 「フラン、今朝の分、終わった?」

 「いま、確認を終えました。姫様、本日のご公務は軽めに調整しています」

 「ありがとう」

 リシェルはふと、机の端の地図に視線を留めた。細い線と点が静かに増えている。

 「……調べているのね」

 「表向きは“事故”です。内側では、誰にも気づかれぬよう、静かに調べる」

 リシェルは短く頷き、笑みを浮かべる。

 「頼りにしているわ、私の騎士さま」

 フランソワーズは、その呼び名が心のどこに触れるのか、誰よりよく知っている。


* * *


 午後、《ブラハム堂》の裏庭は小さな陽だまりになっていた。

 木剣と木剣がぶつかる音が、鼓動のように規則的に響く。クレージュは呼吸を数え、足の幅を半歩ずつ調整し、肩の力を抜いて腰で押す。フレイは腕を組んで見守り、時折短く指摘を入れるだけだ。


 「踏み込み、今の、半足早い。相手はまだ来てねぇ」

 「っ……はい!」

 「軽く動け。軽いのは弱いじゃねぇ。速さは強さだ」

 「はい!」


 額の汗が頬を滑り、顎から落ちる。その滴が石に落ちる音さえ聞こえそうなほど、意識は研ぎ澄まされていた。木剣の柄が掌に馴染む位置を探り直すたび、指の内側に、あの微かな脈動がふとよぎる。

 (まただ)

 意識をそこに向けた瞬間には、もう消えている。錯覚か、身体が覚えてきた“型”が生む熱か、それとも。答えは出ない。だが、この一週間で動きは確かに変わった。自分の“重さ”と“軽さ”の居場所が、うっすら見えてきた気がする。


 「兄ちゃん!」

 ケインが裏門から飛び込んできた。頬は上気し、目は嬉しさで細くなる。

 「蜂蜜パイ、追加で焼ける? 市場のちっちゃい子が、明日も食べたいって!」

 「焼くよ。任せとけ」

 「兄ちゃんの剣、今日いちばんかっこいい!」

 「……どれが今日いちばんだよ」

 笑いながら息を整える。ケインにとっては、パンの出来も、兄の剣も、きっと同じ尺度で“好き”なのだ。


 「お前」

 フレイが木剣の先でクレージュの胸を軽く突いた。

 「守りてぇなら、考えながら動け。動きながら考えろ。いいな」

 「うん」

 「それとな。——死ぬな」

 「……うん」


* * *


 夕方の王宮。

 リシェルは机に広げた文に名を連ね、封蝋を押す係へ渡す。羽根ペンの先で結ぶ曲線は、緊張しすぎず、緩みすぎず。息を吐くタイミングと一緒に、手の力を抜くと美しい線になることを、最近ようやく身体が覚えてきた。

 窓の外、庭の池は風を受けて細かなさざ波を立てる。光の粒が、音もなく踊る。


 「フラン」

 「ここに」

 「今日の視察、時間を少しだけ短くできる?」

 「可能です。お疲れでしたら」

「ううん。……街の風が恋しい日もあるけれど、今日は窓からで我慢するわ」

 「承知しました」

 フランソワーズは一礼し、少し迷ってから言葉を継いだ。

 「姫様。必要なものがあれば、なんでも仰ってください。外の空気も、香りも、甘いものも」

 「ふふ。甘いものは、あなたと一緒に」

 「……はい」


 送り出す背に向けて、リシェルは小さく息を吐く。

 (会いたい。……もう一度)

 “リル”と名乗ってしまった自分を、ひとつまみの恥ずかしさで思い出す。名前を、今度はちゃんと。「クレージュ」と。口に出すだけで、頬の内側がほんのりと熱を持つのを、侍女たちには悟られないように。


* * *


 倉庫街は、陽が傾くと音の種類が変わる。

 昼の呼び込みが引き、残るのは木箱の擦れる音と縄の軋み、遠くの犬の声。石壁は昼より冷たく、長い影が交差して地面に新しい模様を描く。

 黒い外套の男が、気配だけをまとって立っていた。金具の多い靴底が、コツ、と一度だけ石を叩く。


 「予定外の櫓、予定外の搬入、予定外の増設。……予定にないものほど、人は“しかたない”で受け入れる」

 暗がりから、もう一人の影が出てくる。獣人の耳を布で隠し、巻尺を肩にかけた姿は、昼間ならただの職人だ。

 「騎士に嗅がれました」

 「嗅がせておけ。こちらも匂いを変えるだけだ」

 男は指で石畳をなぞり、三つの点を描いた。等間隔ではなく、わざと崩れた三角。その外に、もう一つ、薄い点を足す。

 「偶然は重ねれば必然に見える。あの女は“偶然じゃない”と思うだろう。なら次は、その思考の先を置き換えてやればいい」

 「姫は?」

 「狙う。これは始まりに過ぎない」


 男たちの気配が消えると、石畳だけが冷たく残った。足もとには黒い粉がわずかに落ち、風がそれを四方へ散らした。


* * *


 夜、《ブラハム堂》の扉の鈴は、もう本日の最後の音を鳴らしていた。

 クレージュは棚のパンを数え、明朝の仕込みを頭の中で組む。粉と水の比率、酵母の機嫌、窯の癖。パンを焼くという行為は、剣の稽古と似ている。考えながら動き、動きながら考える。

 フレイが樽を片付けながら、ぶっきらぼうに言う。

 「明日も王宮近くの配達、あるぞ。道、覚えたな」

 「うん」

 「寄り道すんな」

 「しないよ」

 「……するなよ」

 「しないって」

 短い会話。けれど、その短さの中に、たしかな信頼が積もっている。


 窓を開けると、冷えた夜気が頬を撫でた。遠くの光が点になってまたたき、今日のパンの匂いがわずかに廊下に漂う。

 (守りたい)

 胸の奥で、言葉もなく同じ意思がうずく。

 パンを焼く手と、剣を握る手。両方を同じ手でやるのは無謀かもしれない。だが、無謀と挑戦は紙一重だ。今はまだ細い糸で結ばれているだけの願いでも、切らずに持って歩くことはできる。


* * *


 王宮の高窓。

 リシェルは外套を肩に掛け、夜風を一口吸い込んだ。昼間の庭の草いきれは薄れ、代わりに石と水と風の匂いが強くなる時間。星は昨夜より少し多い。街の灯は昨日と同じ位置にあるようで、よく見ると微妙に違う。人は入れ替わり、灯は消え、別の灯がともる。

 「……また、会えるかしら」

 誰にも聞こえない声で。

 指先を手すりから離すと、石の冷たさがあとから皮膚を追いかけてきた。


 背後の気配に、リシェルは振り返る。

 「フラン」

 「ここに」

 「眠れないの?」

 「眠れなくなる前に、歩いておこうかと」

 ふたりの笑いは、小さく、短い。

 沈黙が続く。沈黙は、ときに言葉よりも雄弁だ。

 「……ありがとう」

 誰に、とは言わない。だが、伝わる。フランソワーズは頷き、床に落ちた月の影の濃さを一度だけ確かめてから下がった。


* * *


 同じ夜の、別の灯。

 フランソワーズの執務机には、簡素な地図が広がっている。今日一日で新しく集めた証言を書き足し、薄い糸で点を結んでいく。

 ——巻尺を肩にかけた黒衣。

 ——金具の多い靴底。

 ——解けた手綱。切断でなく擦れ。

 ——三つの点。位置のわずかな偏り。

 (表は事故。裏は意図。ならば、裏で追う)

 目を閉じれば、いくらでも焦りは湧く。けれど、呼吸を整えれば、焦りは薄れ、線が見えてくる。

 (あなたが笑う限り、私は何にでもなれる)

 誓いは音にしない。音にしないほうが、しっかりとそこに在る。


* * *


 街は、明日の朝の顔を準備している。

 “事故”は噂になり、忘れられ、跡だけが薄く残る。だが、その薄い跡を拾い上げる手は、すでに動き始めていた。


 クレージュは掌をそっと開き、閉じた。

 リシェルは小さな箱を開け、何も書かずに閉じた。

 フランソワーズは三つの点の間に、さらに一本だけ細い線を足した。


 夜は深い。

 それでも、胸の奥で結ばれた誓いは、もう朝の色をしている。

「一週間」という時間を、匂い・音・手触りで積み上げました。

クレージュの“軽さ”の発見、フランソワーズの“裏で追う”覚悟、リシェルの“言わない願い”。

どれも小さな前進ですが、物語は確かに進んでいます。

次回は、点と点がもう少し“線”として見えてくるはず。引き続きよろしくお願いします。

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