6 祭の後
祭りの賑わいが過ぎ去ったヴェルサントルの街は、いつも通りの活気を取り戻します。
けれどリシェル、フランソワーズ、クレージュ──それぞれの胸には、昨夜の出来事が小さな棘のように残っていました。
事故として処理される影に、不安を覚える姫。
守り切れなかった自責と、強い忠義を胸に刻む騎士。
そして「守る力を持ちたい」と剣を握り直す少年。
平穏に見える街の片隅で、確かに動き始めているものがありました。
夜の名残が、街路の石畳に薄く貼りついている。
紙灯の芯が燃え尽きた灰は、露に湿って、両手で抱えれば指先を黒く染めそうだ。
ヴェルサントルは、何事もなかった顔で朝を迎える──それがこの街のやり方だ。掃き手たちが竹箒を鳴らし、露店の主は屋台の骨組みを解き、どの店もいつもの朝の匂いを取り戻しはじめている。
王宮の高窓から見下ろすと、まだどこかに祭りの色が点々と残っていた。
リシェルは、両肘を窓枠にのせ、頬に手を当てる。冷えた石の感触が皮膚に伝わり、ゆっくりと頭が冴えていく。
「……昨夜は、楽しかったわ。……のに」
笑顔の奥に、小さな棘が刺さったままだ。
樽が転がり、鎖がきしむ音。誰かに腕を掴まれて、強く引かれた。
はっとして振り向いたとき、灯の揺らぎに輪郭を奪われた横顔──少年の息遣いが、近すぎる距離にあった。
(ありがとう、って、言えたから……それで十分なはずなのに)
胸の奥が、じわりと熱い。
そして、それと同じ場所に、昨夜の“偶然”が本当に偶然だったのかという疑いが、かすかな影を落とす。
「姫様、朝餉の支度が整っております」
扉越しの声に、リシェルはわずかに背筋を伸ばした。
いつもの声。いつもの穏やかさ。その奥に、硬いものが混じっているのに気づかないふりをして。
「いま行くわ、フラン」
彼女は外套の袖口を整え、笑顔をまとった。
* * *
フランソワーズ・クレマンは、銀盆を机に置くと、手早く注いだ茶を少しだけ冷ます。
香りの立つ白い湯気が、眠そうな部屋の空気をやさしく撫でた。
「昨夜の件ですが、衛兵隊の報告では“事故”。支柱の固定が甘く、人いきれで歪みが出た、と」
「……そう」
リシェルの返事は短い。ほんの少し、視線が泳いだ。
フランソワーズはそこに、薄い膜のような不安を見た。
(大丈夫です。たとえ影になっても、守り抜く)
心に刻む誓いは、いつだって言葉より先にある。
彼女は姿勢を正し、いつもの調子で続けた。
「念のため、当面のお忍びは控えていただきます。街へ出る際は、必ず公式護衛の動線で」
「……ええ、わかったわ」
素直に頷く声。けれど、彼女は知っている。姫が窓から見た街の色が、どれほど心を救うかを。
だからこそ、表は“事故”で片づける。
内側では、誰にも気づかれぬよう、静かに調べる。
フランソワーズは湯気の向こうから姫を見つめ、微笑みをそっと添えた。
「朝餉の後、書類を数通。午前は軽めに調整しております」
「助かるわ。……ありがとう、フラン」
その一言が、彼女には過分だった。
* * *
ブラハム堂の裏庭に、乾いた音が規則正しく落ちていく。
木剣と木剣が触れ合う、刃のない音。
朝の空気は、まだ粉と酵母の匂いを多めに含んでいる。焼き上がったパンが冷める音も、鳥の声に混じって小さく響いた。
「足幅、半歩。肩に力入れるな。腰で押して、腰で戻せ」
フレイの声は、いつもの低さ。
クレージュは呼吸を数え、滑る汗を無視し、視線を正面から逸らさない。
昨夜の感触──掴んだ鎖の金属の冷たさと、体の芯で受け止めた重み──が、どうしても離れなかった。
「……っ、は!」
踏み込み、受け流し、返し。
フレイの指先が軽く振られただけで、その一手は止められる。
「間、早い。焦るな。見て、遅れて、追いつけ」
(見て、遅れて、追いつく……)
遅れてから追いつくには、目と、足と、意志が要る。
木剣の握りが掌に馴染む場所まで滑って、そこでぴたり、と止まったとき──
指の内側に、ほんの一瞬、熱とも冷たさともつかない脈が走る。
(……また、これだ)
息を止めるほどの一拍。
次の瞬間には、ただの木の感触に戻っているのだが。
フレイは一度だけ目を細め、すぐに木剣の角度を変えた。
「上出来。……だが、守りたいなら、もう一歩軽く動け」
「うん」
守りたい。
昨夜、無我夢中で動いた自分が、滑稽に思えるほどに。
「俺、……強くなりたい。ちゃんと、守れるくらい」
ぽつりと落ちた言葉に、フレイは鼻で笑った。
「強さの前に、考える癖だ。考えながら動け。動きながら考えろ。……ただし、死ぬな」
「わかってる」
そこへ、ケインが裏門から飛び込んでくる。
「兄ちゃん! 稽古、もう終わる? 昨日の兄ちゃん、すっげーかっこよかった!」
言いながら、彼はクレージュの汗の滴る顔をまっすぐ見て、にへっと笑った。
その笑顔は、祭りの灯よりもあたたかい。
「……ありがと、ケイン」
ふっと肩の力が抜ける。
パンの香りと、木の匂いに混じって、朝の風が頬を撫でた。
* * *
フランソワーズは、巡回の衛兵を一人借り、昨夜の現場に立った。
櫓の支柱は既に解体され、鎖は巻かれて脇へ寄せられている。
朝の光は、自分が見落としたものを容赦なく照らし出す。そういう性質がある。
(事故、ね)
彼女は石畳の端にしゃがみ込む。
黒く焦げたような、三つの小さな点──昨夜、目に入ってしまったもの。
今朝の掃き掃除で半分は薄れ、それでも形はまだ残っている。
指先でなぞろうとして、やめた。
「誰かが火を落とした跡にも見える。……だけど」
点と点の間合い。
等間隔より、ほんの少しだけ広い。
三角というより、やや崩した三角。
これが何かのしるしか、ただの汚れか。どちらにしても、胸の内側に小さな鈴が鳴っている。
「記録に残す価値は、ある」
彼女は衛兵に簡単なスケッチを命じ、昨夜の搬入路と退出路を確かめる。
巻尺を肩にかけた職人、金具の多い靴音、そして──牛の手綱。
切断ではない。擦れて解けた跡。
偶然にしては、重なりすぎる。
(裏で調べる。表では“事故”。それが最善)
王宮の役目としての正しさと、ひとりの女としての胸の痛みは、まったく別の場所で鳴る。
昨夜、姫の肩に手を添えたときの温もりが、まだ掌に残っていた。
(守る。あなたが笑っている限り、私は何にだってなれる)
誓いは、音にならないまま強く結ばれる。
* * *
朝の仕込みが一段落すると、店の扉に鈴の音が重なる。
クレージュは焼き立てを棚に並べ、カウンター越しに笑顔で客を迎えた。
ブラハム堂は、祭りの翌日ほど忙しい。
昨夜の浮かれ気分と、ほんの少しの疲れが、甘いものを人に求めさせるからだ。
「兄ちゃん、これ運ぶ!」
「頼りにしてるぞ」
ケインは箱を抱え、通りへ出ていく。
陽に温められた石の匂い。遠くで市場の呼び声。
ヴェルサントルの朝は、世界中の音が薄く重なっているみたいに賑やかだ。
(俺はパン屋の息子で、パンを焼くのが好きだ。けどそれだけじゃ、足りないと思ってしまった)
誰かの暮らしを支える匂いと、誰かを守るための手。
両方を自分に持たせることはできるだろうか。
クレージュは、棚に並ぶ蜂蜜色のパイを見て、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。
* * *
王宮の執務室。
リシェルは羽根ペンを取って、書類に名前を連ねていく。
曲線は丁寧に。力は抜いて。
表向きの顔は、今日も完璧に仕上げる。
「姫様、本日の予定をご確認ください」
フランソワーズが差し出した紙束には、午前の書類と午後の視察が記されている。
リシェルは目を通し、軽く頷く。
「いいわ。……午後の視察、時間短めにできるかしら」
「可能です。お疲れが出ているようでしたら」
「ううん、そういうわけじゃないの。ただ──」
言いかけて、唇を結ぶ。
“ただ、少しだけ、街のパンの匂いが恋しいの”。
喉まで出かかった言葉を、笑顔で飲み込む。
(今は、だめ。フランを困らせる)
視線は、ふいに窓の外へすべる。
昨夜、腕を引かれたときの感触。
近すぎた距離で感じた、まっすぐな目。
(……また、会えるかしら)
心の中でだけ、そっと問う。
小さな願いは、言葉に乗せれば重く見える。
だから今日のところは、紙に走るインクの音だけを部屋に響かせた。
* * *
午後、フランソワーズは王宮の外郭に近い衛兵詰所に立ち寄った。
「昨夜の巡回記録を拝見します」
彼女の声は涼しい。表情は変わらない。
詰所の若い隊士が緊張で背筋を伸ばすのが、視界の端に見て取れる。
帳面には、いつもの記号が並んでいた。
“異常なし”“巡回交代”“搬入許可”。
気になったのは、ひとつ。
“資材搬入、予定外の本数。理由:櫓増設”。
増設は、誰の指示だ。
隊士の説明は曖昧だ。
「職人からの要請で……」
「職人の名前は?」
「それが、よく……」
(名前が残らないのは、意図的な穴。あるいは、ただの怠慢)
どちらにせよ、埋めるのは今しかない。
「次からは名前を。今日のところは、私が確認します」
詰所を出ると、陽が傾きはじめていた。
影は長く、色は濃く、輪郭はあいまいに。
昨夜の“偶然”が、もう一度だけ同じ形で起きることはないだろう。
だから、違う角度から来る。
彼女の直感は、いつだってそう告げる。
(影で守る。あなたがいつもの笑顔でいられるように)
フランソワーズはマントの留め具をつまみ、風を切って歩き出した。
* * *
夕方のブラハム堂は、朝とは別の静けさに満ちている。
客足が落ち着き、扉の鈴が「また来るよ」と言うみたいに鳴る。
クレージュはカウンターの上を拭きながら、棚からひとつ、焼き色の美しいパンを取り出した。
(もし、またあの人が来たら、これを勧めよう)
ただの思いつき。
だけど思いつきには、思いつくに足る理由がある。
甘すぎない香り。外は薄く、内は柔らかい食感。
どこか、昨夜の笑顔に似ていると思ったから。
「兄ちゃん、今日も最高の一日だったな」
椅子にあぐらをかいたケインが、眠たげに笑う。
「なんで?」
「だって、パンがうまい日が一番最高だろ」
単純で、真っすぐな答えに、クレージュは肩を揺らして笑った。
「そうだな。……そうだな」
心の底の棘は、もうほとんど痛まない。
その代わり、“なりたい自分”の輪郭が、少しだけ濃くなった気がする。
* * *
夜の王宮。
リシェルは窓辺にたたずみ、遠い街の灯を数えた。
紙灯の夜が残した名残はもう少ない。
それでも、風が運んでくる匂いに、昨夜の笑い声がいくつか混じっているように感じる。
「……また、会えるかしら」
小さく、誰にも聞こえない声で。
手すりに置いた指が、冷たさに少しすぼむ。
返事は星のほうへ吸い込まれて、彼女の胸にだけ、余韻を残した。
* * *
同じ夜の、別の場所。
露の下りた倉庫街の裏手で、男が外套の裾を払った。
金具の多い靴底が、石を細く叩く。
足もとには、黒い粉がかすかに落ちている──燃え切った芯の名残か、それとも。
「三つの点に気づいたか。……構わん」
男は笑い、つま先で灰を散らす。
「偶然に見えることが、最も強い」
暗がりの向こうに、いくつかの影が動いた。
巻尺。細い金属棒。
印は、もう別の形に変わる。
次は、別の角度から。
男は音を消して闇へ溶けた。
* * *
誰も知らないまま、街は明日の朝の顔を準備している。
“事故”は噂になって、忘れられて、跡だけが薄く残る。
けれど、その薄い跡を拾い上げる手は、もう動きはじめていた。
フランソワーズは机上に図を広げ、点と点の間を細い糸で結ぶ。
クレージュは掌を閉じ、ゆっくりと開く。
守れるように。強く、軽く、賢く。
リシェルは目を閉じ、風の匂いの中に昨夜の声を探す。
誓いは、まだ誰にも知られていない。
でも、確かにここにある。
──朝靄が、窓を白く曇らせるまで。
今回は「事件の翌日」という日常の中に、それぞれのキャラクターの心情を深く描く回となりました。
リシェルの不安と淡い願い、フランソワーズの誓い、クレージュの成長への第一歩。
それぞれが別の場所にいながらも、少しずつ同じ方向へ運命が収束していく様子を意識しています。
一方で、倉庫街の影が示すように、これは「偶然の事故」では終わらない──そんな不穏な気配も漂い始めました。
次回は、三人の絆がまたひとつ深まると同時に、背後で揺れる影がより明確になっていきます。どうぞお楽しみに。