4 祭りの前
朝の空気は、粉と酵母の匂いに満ちていた。
〈ブラハム堂〉の裏庭。焼き上がったパンが冷めていく音を背に、少年は木剣を構える。
「足幅、半歩狭い。右に流れるぞ」
フレイの声は低く短い。
「はい!」
クレージュはつま先をしのばせて位置を直し、間を測る。呼吸は浅く、視線はまっすぐ。
木剣が空を裂くたび、乾いた音が連なって、朝の小鳥の声に重なる。
「力は抜く。だが――意志は折るな」
「……うん!」
斜めからの叩きつけ、受け流し、返し。フレイの木剣が、刃のない残酷さで容赦なく襲い掛かる。
受けそこねれば、手のひらに痺れが走る。クレージュは歯を食いしばって、踏み込み直した。
瞬間、世界がすっと静かになった。
風の止み間、汗がこめかみをつうっと落ちる。
木剣が噛み合う寸前、掌の中で、何かが一瞬だけ――ぬくもりを持って脈打った。
(……え?)
カツン、と軽やかな音だけを残して、重みが抜ける。
フレイはわずかに眉を動かし、すぐに目を細めた。
「今の間、忘れんな」
「え、いま――」
「気のせいだ。もう一手、来い」
しごきはそこで終わらなかった。
最後の突きは、フレイが指二本で受け止める。
「午前はここまでだ。店を開けるぞ」
「……はぁ、はぁ……はい!」
粉の白さが袖に舞い、汗の塩気が口に触れる。
いつもの朝。いつも通りの、ほんの少しの前進。
* * *
昼前、フレイは帳場の引き出しから一枚の紙を取り出して机に置いた。
「出店許可の申請書だ」
「出店?」
「明後日の『星灯祭』よ。忘れたか?」
「……あ、ああ! 去年、紙灯の川流しを見に行ったあれ!」
「今年は店の前で夜だけ“星灯パン”を売る。蜂蜜と柑橘のやつ、今日の仕込みを倍にしとけ」
「りょ、了解!」
表の通りでは、早くも木枠や紐を抱えた職人たちが行き交い、仮設の櫓や灯台用の杭が打ち込まれていく。
星灯祭――星を象った紙灯に火をともし、川と街路に流す。
夕風がゆるやかに吹くころ、ヴィルサントルの夜空は、灯と星で二重にきらめく。
「星降る大陸」の名の所以を、誰もが思い出す夜だ。
フレイは申請書にさらさらと走り書きし、サインをする。
「警備の巡回が増える。露店は明かりものが多い。火の用心は徹底だ」
「うん」
クレージュがうなずいたとき、通りから荷車のきしむ音がした。
「おーい、クレージュ兄ちゃん!」
顔を出したのはケインだ。両手いっぱいに紙灯の束を抱えている。
「手伝い中? すごい量だな」
「祭りの紙灯を配るお手伝い! ここの通りは兄ちゃんに頼もうと思ってさ!」
「任せろ」
笑いながら受け取り、束を抱えて店内へ。紙の向こうから、ふわりと蜜の香りが追いかけてきた。
* * *
午後、王宮の一室。
柔らかな陽の射す窓辺で、白いティーカップから湯気が立ちのぼる。
「星灯祭の準備、始まったのね」
リシェルが、窓の外――遠くの街並みを眺めた。
フランソワーズは書簡を閉じて、姿勢を正す。
「明後日、公式のご視察の打診がございます。……“非公式”をご希望なら、前回のように私に一任を」
「ふふ。さすがフラン。頼もしいわ」
「姫様の無茶を止められない自覚は、あります」
「無茶なんてしてないつもりなんだけど?」
リシェルは頬をふくらませ、そしてすぐ笑った。
「……あのパン屋の子、覚えてる?」
フランソワーズの視線がほんの一瞬だけ泳ぐ。
「ええ。礼儀正しく、少し不器用そうで……目がまっすぐでした」
「まっすぐ、ね」
リシェルはカップを置き、手を胸に当てた。
「パン、すごくおいしかった。それに――あの子の“ありがとう”の言い方、素敵だった」
「……姫様?」
「ううん、なんでもないの。ねえ、星灯祭――私、あの通りも見たい」
「危険です。人混みは視界が遮られ、死角が増えます。ですが……」
フランソワーズは言葉を区切り、机上の地図を広げた。
「この動線なら。人が詰まる前に入り、最初の灯を見てから回廊へ抜ける。離脱点は三つ作ります。合図は、これ」
彼女は指先で短い符を描いた。
「合図、覚えた!」
リシェルは嬉しそうに頷く。
フランソワーズの目は真剣なまま、ふっと緩んだ。
「……甘いものは、帰り道に」
「やった!」
* * *
夕方の〈ブラハム堂〉は、パンの香りで満ちていた。
棚に並ぶ蜂蜜色のパイが、斜めの陽を受けて金色にきらめく。
クレージュは紙灯の束を結び直し、店前の梁に紐をかけた。
通りにはもう、祭りの露店用の木枠がいくつも立ちはじめている。串焼きの鉄台、楽師の小さな舞台、星型の灯を吊るすための細い支柱――。
「おっと、ごめんよ」
肩が触れそうになって、クレージュは反射的に身を引いた。
通りを抜けていく搬入の男たち。
革の靴。……見慣れない、妙な金具が光った。
(あれ、どこの職人だろ)
問いかける間もなく、彼らは足速に曲がり角へ消える。巻尺と、細い金属棒を束ねたものが肩から覗いていた。
「兄ちゃん、これも!」
ケインが駆け戻ってくる。
「うわ、また束で来たな」
「祭りのチラシも一緒に頼まれた! あ、そういえばさっき変な連中見たんだ」
「変?」
「うん、なんか、路地で“長さ”を測ってた。地面に印つけてたけど、文字じゃなくて、点を三つ……こう、三角みたいに」
ケインは指で空に印を描いてみせる。
「準備の目印じゃないのか?」
「かなぁ……。でも、靴がやたら硬そうで。歩くたびカチャカチャ鳴ってた」
「――気にしすぎかもな。ありがとう、運ぶの手伝ってくれ」
「うん!」
紙灯が通りに揺れはじめる。
白い紙に透ける夕の光は、まだ灯を入れていないのに、どこか温かった。
* * *
夜、王宮の塔に灯がともる。
リシェルは机の前で、そっと両手をかざした。
半透明の光の粒が、指先に咲く。
「……集中。焦らない、焦らない」
小さな光球がふわりと浮かび、すぐに儚くほどける。
窓の外――城下の通りにぶら下がった紙灯が、試験的にいくつか灯され、星のように瞬いた。
ノックの音。
「姫様。祭り当日の警備配置、確定しました」
フランソワーズが図面を持って入る。
「ありがとう、フラン」
リシェルは窓辺に立ち、下界の光を見下ろす。
「ねえ、フラン。星が降る夜って、あるのかな」
「……詩情の話であれば、いくらでも。実際に降ったら大ごとです」
即答に、リシェルは吹き出した。
「でも――この大陸は、星に守られているんだって。昔、母様が言ってた」
「姫様が守る番です。星だけには任せません」
フランソワーズの声は柔らかくも、芯が通っていた。
リシェルはふっと微笑む。
「じゃあ、私が星にお願いするときは、フランにもお願いする」
「……承ります」
* * *
同じ頃、〈ブラハム堂〉の二階。
窓を半分開けると、冷えかけた夜気が頬を撫でた。
クレージュは寝台の縁に腰をかけ、磨き布で木剣を拭う。
手のひらに残る、朝の“ぬくもり”を確かめるみたいに。
(なんだったんだろ、あれ)
木剣はただの木剣だ。魔力を帯びるはずもない。
だけど、あの一拍――音が消えて、世界が近くなった。
『今の間、忘れんな』
フレイの声が耳に残る。
「忘れないよ、父さん」
ひとりごちて立ち上がる。窓の外に目をやれば、通りに吊るされた紙灯が風に揺れ、試し火の灯がいくつか瞬いている。
鼓の音が遠くで鳴った。
祭りの打ち合わせの合図だろう。楽師の笑い声が漏れ、子どもたちが走り去る気配がする。
(明後日、あの人も、来るだろうか)
リル――そう名乗った少女の、笑顔。
思い出しただけで、胸があたたかくなる。
「……また、会えるかな」
夜風が、ほんの少し甘い匂いを運んできた。
蜂蜜と、柑橘と、焼きたてのパン。
クレージュはそっと目を閉じ、深く息を吸う。
掌の内側で、熱とも冷たさともつかない、かすかな脈が――もう一度、静かに打った気がした。
* * *
祭り前日、王宮の渡り廊下。
フランソワーズは衛兵隊長と短いやり取りを交わし、城下の動線図を受け取る。
「露店の配置変更です。舞台裏の通路、一本潰れました」
「理由は?」
「資材の搬入が増えまして」
「確認します」
図面に走る赤い線を見つめ、フランソワーズは視線を細くした。
(裏の抜け道が、ひとつ減る……なら、別の離脱点を)
地図に素早く新しい線を引く。
ふと、靴音。
廊の端を、黒いケースを抱えた職人風の者たちが通り過ぎた。
歩調は早い。靴底の金具が、わずかに高い音を立てる。
「職人の通行が多いな」
衛兵隊長が首をひねる。
「櫓増設のためだそうです」
「……承知」
フランソワーズは短く返し、図面を折りたたんだ。
(行くのは“姫”ではなく、“リル”。だが、守るのは同じ)
彼女は胸の内でそう結び、踵を返した。
* * *
日暮れ、通りの灯が増えていく。
紙灯の内側で、小さな炎がふるふると揺れ、風が吹くたび星々のように瞬く。
〈ブラハム堂〉の軒先にも、星型の灯が二つ、三つとぶら下がった。
「兄ちゃん、こっちは結び目固くしとくね!」
ケインが身軽に脚立を上っていく。
「頼む!」
クレージュが受け止めた紐を、ぐっと引いて結ぶ。
街のざわめきは高まり、どこか浮き立つ匂いがする。
角の向こうで、また荷車の音。
夕闇の中、黙々と資材を運ぶ影。
巻尺。金具。細い棒。
そのひとりが立ち止まり、石畳に屈んで指先で「点を三つ」打った。
クレージュは思わず声をかけそうになって――やめた。
(印、か。……祭りの目印だよな)
自分に言い聞かせ、紐を結び上げる。
夜の匂いが濃くなっていく。
星はまだまばらだが、灯は十分に“星”だった。
誰かが笑い、誰かが走り、誰かが、ほんの少しだけ背伸びをする――そんな夜の前の、街の呼吸。
クレージュは空を見上げた。
遠い塔の窓に、ひとつ灯が揺れる。
そこにいる誰かも、同じ夜を見ているだろうか。
胸の内で、言葉にならない想いが、静かに灯る。
明日、街は夜を待つ。
星灯る夜のまえに――誰も知らない小さな印だけが、石畳の端にひっそりと残った。