3 小さな再会
前回、王女リシェルは親衛隊長フランソワーズを巻き込み、密かに街へと向かいました。
目的は――一週間前に訪れた、あのパン屋。
一方でクレージュとフレイの日常にも、過去の戦争の影が少しずつ滲み出してきます。
今回は、少し軽やかで、どこか甘酸っぱい一幕をお届けします。
どうぞお楽しみください。
リシェルたちがブラハム堂を訪れてから、一週間ほどが過ぎていた。
街は相変わらず活気に満ち、市場では商人の呼び声と買い物客の声が飛び交い、陽気な音楽を奏でる大道芸人の笛まで混じっていた。香辛料の匂い、果実の甘い香り、焼き立ての肉の匂いが入り交じり、人々の笑い声が絶えない。
その市場を抜け、商業地区の入り口にある〈ブラハム堂〉は、ちょうど昼時の混雑が落ち着いた頃だった。
木の看板には麦の模様が彫られており、店内からはこんがり焼き上がったパンの香ばしい匂いが漂ってくる。数人の客がパンを手に取っては、袋に詰めてもらっていた。
「クレージュ、昼飯を作っておいた。手が空いたら食え」
奥の厨房から顔を出したフレイが、息子に声をかけた。
「わかった! あとお客さん一人だから、会計したら食べちゃうよ」
「なら俺が代わってやる。さっさと食え、育ち盛りだろ」
「ほんと? ありがとう父さん!」
嬉しそうにキッチンへ消えていくクレージュを見て、フレイは小さく笑みをこぼした。
だがその笑みはすぐに消え、ふと遠い目をして――「もう、あれから十五年か」と低くつぶやいた。
* * *
その頃、王宮。リシェルの部屋。
午後の日差しがレースのカーテンを透かし、部屋の中をやわらかく照らしていた。
「フラン、入って」
ノックに応じ、フランソワーズが入室する。親衛隊の白い軍服をきっちりと着こなし、長い脚で颯爽と歩み寄ってくる。腰の剣が揺れ、凛とした姿は「騎士そのもの」だ。
「どういったご用向きでしょうか?」
「こっちへ座って。お茶でもどう?」
「いえ、滅相も……」と言いながら、リシェルに勧められると結局うれしそうにティーカップを手に取る。
「ふふっ、やっぱり甘い香りのお茶には弱いのね」
「っ……! い、いえ! 私はただ姫様のお心遣いに応えているだけです!」
真っ赤になりながらも一口飲んだフランソワーズの表情が、一瞬だけとろんと緩む。その様子を見て、リシェルは小さく笑った。
「実はね、お願いがあるの」
「お願い……ですか?」
リシェルは小声で、わざとフランソワーズに顔を寄せる。
「今日、街へ出たいの。もちろん、誰にも内緒で」
「な、何ですって!? それは無理です! 城門を出るまでに必ず誰かに見つかります!」
「だからこそフランに頼んでるのよ。あなただったらどうにかできるでしょ?」
「ど、どうにかって……!」
フランソワーズは頭を抱える。だが次の瞬間、リシェルがさらりと言い放った。
「甲冑を持ってきて」
「…………」
フランソワーズは眉間を押さえ、心底困った顔をした。
「姫様……それは変装というより、余計に目立つ気がするのですが」
「だって! 普通に出れば従者や兵がぞろぞろ付いてくるでしょう? そんなの嫌よ」
リシェルはぷくっと頬をふくらませ、机に身を乗り出した。
「街を歩いて、あのパン屋のパンをもう一度食べたいの。ただそれだけ」
フランソワーズはため息をつき――結局、「……わかりました。私が責任を持ちます」と頭を下げた。
「ふふっ、ありがとう。私の騎士様」
フランソワーズの心臓は跳ね上がり、甘いお茶どころではなくなった。
* * *
その日の午後。〈ブラハム堂〉。
クレージュはちょうど欠伸をしながら棚を整理していた。パンの香りに混じって、自分の胃袋が鳴る音に気づいて苦笑した、その時――。
カラン、と扉の鈴が鳴った。
条件反射で「いらっしゃいませ!」と声を張る。
そこに立っていたのは――リシェルと、ぴったり横に立つフランソワーズだった。
「え……あ、あの……い、いらっしゃいませ!」
クレージュの眠気は一瞬で吹き飛び、顔がみるみる赤くなる。
「こんにちは、クレージュ」
リシェルは、太陽のように眩しい笑顔を向けてきた。
「……っ! あ、あの、覚えて……て、くれて……」
舌がもつれて言葉にならない。心臓は破裂しそうで、持っていたトレイを落としそうになり、慌てて持ち直した。
「今日はどんなパンがおすすめ?」
リシェルが楽しげに棚を覗き込む。金色の髪がふわりと揺れ、クレージュの視線をさらっていく。
「え、えっと……ハニーレモンパイと……あ、あとホカッチャサンドが……」
「まぁ、美味しそう!」
瞳をきらきらさせるリシェルに、クレージュはさらに赤くなる。
「姫……いえ、リル様。長居はできません!」
すかさずフランソワーズが遮る。声は小さいが必死だ。
「ええ~、少しくらい……」
「だめです!」
リシェルは名残惜しそうにパンを受け取り、代金を渡した。
クレージュは手が震え、コインを落としかける。慌てて拾って会計を終えると、しどろもどろに言った。
「あ、あの……また……ぜひ来てください!」
その言葉にリシェルは一瞬、頬を染め、柔らかな笑みを浮かべた。
「ええ、もちろん」
店を出ていく二人を見送りながら、クレージュの胸は高鳴り続けていた。
扉の鈴がカランと鳴り、店内に再び静けさが戻った。
――だが、心臓の鼓動だけは、しばらく止まりそうになかった。
第三話、いかがでしたでしょうか。
リシェルとクレージュの距離は、まだほんのわずか。
けれどその一歩が、確かに未来へとつながっていきます。
この作品は「日常」と「冒険」を丁寧に積み重ねながら、やがて大きな物語へ広がっていく予定です。
少しでも「続きが気になる」と思っていただけたら嬉しいです。
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次回もどうぞよろしくお願いします。