16 祭りの幕開け
ヴェルサントルの街に、祭りの朝がやってきます。
香ばしい屋台の匂い、笑い声、そしてどこか胸をざわつかせる風。
リシェルたちはようやく心から笑える時間を取り戻したかに見えますが――
その光の裏では、誰かが静かに“次の手”を動かしていました。
今回は、にぎやかさと不穏さが交錯する「転」の始まり。
一瞬一瞬の描写を、ぜひゆっくり味わってください。
朝焼けが屋根瓦の端でほどけ、街の色がひとつずつ目を覚ましていく。〈ブラハム堂〉の窓は白く曇り、生地のぱちぱちという合図が通りまで届いた。
フレイは焼き台の奥で山型パンを次々に網へ移し、湯気の筋をまっすぐ立てる。クレージュは前掛けの紐を締め直し、銅貨皿と紙袋を手元の定位置に寄せた。
「次の方どうぞ——蜂蜜の小さなパン三つ、胡桃の丸いの一つ。温かいですからお気をつけて」
「今日は朝から人出がすごいねえ」
「収穫祭の当日ですから!」
会釈、受け渡し、会釈。いつもの手順を速く、崩さず。通りの向こうでは舞台の布が風を孕み、色とりどりの旗が空に細い線を描いていた。子どもたちの笑い声、旅楽師の笛の試し吹き、香ばしい油の匂い——五感のぜんぶが賑やかに騒ぎ、胸の奥の緊張だけが静かに固まっている。
「はい次! 列のこっち側あたしが見るにゃ!」
ブリジットがカウンターの端に肘を置き、手際よく紙袋を開いては閉じていく。
「ブリジット、袋の口はもう少し緩めで……」
「了解にゃ、やさしい締めにするにゃ」
軽口が飛び、客たちが笑う。その笑いの向こう、外套の襟を正したフランソワーズが通りの流れを眺めていた。目は冴え、肩は落ち着き、指先はときどき腰の短剣の位置を確かめる。
列に小さな切れ目ができた瞬間、フランソワーズは戸口の影に寄った。
「クレージュ」
「はい」
「正午過ぎ、銀細工師通りの角を見て来てくれるか。灯りの飾りが吊られる。昨日と同じ職人の手かどうか、目で確かめるんだ。追いかける必要はない。人の流れを乱すな。——見たものは短く、確かに」
「わかりました」
言葉は鋭いのに、視線だけは柔らかい。クレージュは胸の奥でうなずきを一つ余分に重ね、また客の方を向いた。
*
昼が近い。広場の空は明るく、屋台の布は太陽の熱で柔らかくしなっている。
リシェルはフランソワーズの半歩前を歩き、薄いヴェールの下で目を細めた。市井に紛れるために選んだ祭り衣装は控えめで、それでも仕立ての良さは隠しきれない。子どもたちが手を振り、彼女は小さく振り返した。
「砂埃が立ちます。姫様、こちら側へ」
「フラン、今日くらいは少し気を抜いても——」
「今日は“気を抜く人の数がいつもより多い日”です。姫様の裾に埃一粒も残しません」
「……甘い」
リシェルの声は笑っている。フランソワーズの耳の根が、ほんの一瞬だけ赤くなった。
舞台では楽師が調律を終え、踊り子の裾がふわりと跳ねた。屋台の鉄板で香草の肉が焼け、甘い果実酒の香りが風に混じる。ブリジットは舞台裏の梁へ視線を走らせ、ロープの通る滑車の鳴きを聞く。
「……軋みが昨日と違うにゃ。誰かがロープを掛け直したにゃ?」
舞台係の少年が「朝に一度、位置を直した」と答える。
「直すにしては巻きが固いにゃ。ふむ……」
ブリジットは鼻をひくつかせ、匂いの記憶を頭に置いたまま、舞台下の通路を猫のような足取りで渡っていった。
クレージュはフレイの配達を済ませ、銀細工師通りへ向かっていた。昼でも影の落ちる通りは、今日だけは明かりを前倒しで吊っている。葉を象った金具の端で、陽の光が粉のように砕けた。
通りの角で、二人の男が灯り飾りの交換をしている。ひとりは昨日見た職人、もうひとりは見覚えのない顔。
人の流れに紛れ、クレージュは立ち止まらない。視線だけを通して、手つきと癖を見る。
金具の刻みは浅い。葉先は丸い。——型押しの工房の仕事だ。
ところが、渡された飾りの裏面が風でひらりと返り、ほんの刹那、光を反射した。
そこに、細い針でなぞったような落書きがある。三つ葉に似た印の脇へ、王冠の意匠を崩した線。中央の宝玉の位置に、少し歪んだ傷。
オベール王国の紋章を、幼稚に歪めたような——いや、わざと崩した侮りの形。
(……今の、何だ?)
風がもう一度吹き、飾りは所定の位置に収まった。人の肩がぶつかり、視界が切れる。
追わない。追えば目立つ。
クレージュは肩の力を抜き、歩幅を壊さずに通りを抜けた。胸の内だけが、別の速度で鼓動する。
*
午後。広場の熱はさらに高まった。
リシェルは屋台で買った小さな果実水を両手で受け取り、ひとくち飲んだ。舌に冷たい甘さが触れる。
「ねえ、フラン。あの子、衣装きれい」
指さした先で、小さな女の子が踊り子の真似をして、ぎこちなくも勇敢に回っている。裾から見える膝に、昨日ついた泥が残っていた。
「祭りは、よく似合います。……守らねばならないものが、いつもよりはっきり見えます」
「あなたがそう言うなら、私もまっすぐ立っていられるわ」
「姫様がまっすぐ立てば、私は十人分強くなれます」
「フラン、また甘い」
「失礼しました」
そう言いつつ、フランソワーズの瞳は柔らかく細められている。
舞台裏では、ブリジットが滑車をひとつずつ指で弾いて回りを確かめていた。
「このロープ、巻き癖が逆にゃ。……誰かが途中で取り違えたか、わざとか」
結び目の下に、短く削れた跡。手の甲で触れると、粉の感触が指先に残った。粉挽き小屋の粉と同じ、とまでは言いきれない。ただ、油の匂いに柑橘がわずかに混じる。
「舞台の上は大丈夫?」と声をかけると、係の青年は「問題ない」と笑った。
「問題ない時ほど、問題が潜むにゃ」
独りごちて、ブリジットは幕の端の皺を整えた。
クレージュは広場に戻り、フレイに状況を報せるため店へ向かおうとして足を止めた。視界の端で、昨日の旅楽師が糸繰り人形の舞を披露している。糸が陽にきらめき、笑いが弾け、笛の音が輪を描く。
この賑わいのどこに、あの落書きを刻む手が潜る?
思考が胸の奥で固まりかけたとき、ぽん、と肩を叩かれた。
「顔、硬いにゃ。祭りは顔で食べるにゃ」
「ブリジット……」
「後でフランに伝えな。銀細工師通り、型押しの方の工房印。裏に汚い線があった——それで十分にゃ。追いかけたら相手の思うつぼだにゃ」
「うん」
*
陽が傾き、空の色が深くなっていく。
広場に灯りが一つ、また一つと生まれ、銀細工師通りの飾りも順に火が入った。葉の金具が揺れ、炎が小さな影を何層にも重ねる。
フランソワーズは群衆の輪郭を外側から眺め、最も視線が散る角度を探った。灯りがともる瞬間、人々は一斉に顔を上げ、足を止める。——そこが空白になる。
彼女は小さく息を吐き、剣の柄に触れた。「動くなら、ここだ」
同じ頃、銀細工師通りの奥で、クレージュは飾りの隙間を覗き込むふりをして、裏面の刻みをもう一度確かめた。落書きは灯りの熱で少し黒くなり、線の荒さがむしろ目に立つ。三つ葉の隣で、王冠の宝玉が潰されている。
偶然の悪戯にしては、あまりに意図が露骨だ。
(……オベールを、嘲ってる?)
喉が乾く。水を飲む暇はない。肩が誰かと当たる。礼を言って離れた拍子に、通りの先から、流れ者の笑い声が聞こえた。
「——王都なんざ、灯りを消してやりゃあいい」
薄汚れた外套の二人組が、酒場の影へ吸い込まれていく。
(王都? オベールの?)
耳だけが熱を帯び、足はいつも通りの歩幅を崩さない。フランソワーズの言葉が頭の内側で短く復唱される——見たものは短く、確かに。
舞台の方では、ブリジットがひとつの滑車を見上げていた。
軋む音が、さっきと違う。音の芯が細く、乾いている。
ロープの繊維の束に爪を立て、ほんのわずかに撚りを開く。中に、他の縄より古い繊維が混じっている。取り替えの途中で“戻した”か、意図的に古い縄を一部に挟んだか。
「……嫌な癖にゃ」
ブリジットは係の青年に声をかけ、結びをもう一度点検させた。青年は「平気だって!」と笑うが、彼女は笑いを返さない。
猫の勘は、音の高さの変化を嘘だと言っている。
*
夕闇が街を浅く包み、初めての笛の長い音が舞台の上から伸びた。観客の歓声が一斉に高まり、足踏みが石畳に小さな地鳴りをつくる。
灯りが広場の外周から内側へと連なり、銀細工師通りの先からも炎の列が近づいてくる。
フランソワーズの視線は、群衆の肩越しに灯りの列の“揺れ”を追い、わずかな不均衡を見つけた。ある一角だけ、炎の高さが低い。油の量が少ないのではない。芯の切り方が違う。——意図的に暗がりを仕込んだ影。
その瞬間、舞台裏から短い叫びが走った。
「ロープ——!」
ブリジットの声だ。
楽師の音が半拍だけよろめき、すぐ持ち直す。観客は気づかない。気づかせないように、舞台の上は巧みに続けた。
しかし舞台袖の幕の陰で、一本の幕柱がほんのわずか傾いた。支えの楔が誰かに抜かれ、あと一押しで倒れる角度まで追い込まれている。
フランソワーズは剣の柄に手を置いた。抜かない。抜けば人の目がそこに集まる。
「クレージュ、聞こえるか」
人波に紛れて囁くように言い、近くにいた少年の肩を軽く押す。クレージュはすぐ振り向いた。
「灯りの列、右手の三つ先。芯の切りが違う。暗がりを作っている。——人の流れを乱すな。通り過ぎながら数を数えろ。誰がそこで足を止めるか」
「了解」
クレージュは群衆に紛れ、歩幅を崩さずに灯りの列へ沿った。
一つ、二つ、三つ——そこだ。炎が低い。
暗がりの縁に、外套のフードを深く被った人物が立ち、次に来る誰かを待つように肩を斜に構えている。人の波が押し流し、クレージュの視界が遮られ、また開く。
その人物の手元で、何かが渡された。短い包み。金属の冷たい光が一瞬だけ、指の隙間に硬く走った。
ブリジットは舞台袖で、柱を支える楔を逆側から叩き込んだ。
「持った! けど、これ、また抜かれるにゃ。舞台の裏の出入り、猫でも多すぎるにゃ!」
係たちが慌てて人数を増やし、裏手の通路に見張りを立てる。ブリジットは肩で荒い息を吐き、耳を低く伏せた。
——誰かが、ここを“こわすつもり”で準備している。
銀細工師通りの角へ目をやると、さっき見た灯り飾りの一つが、また風で裏返った。
落書きの線は熱で滲み、王冠の宝玉が黒く潰れている。
クレージュは思わず舌を噛み、痛みで思考を引き戻す。
偶然じゃない。これは“表示”だ。誰かに見せたい侮辱。
誰か——どこか——何を?
「姫様、こちらへ」
フランソワーズはリシェルの肩越しに群衆の波を見、最も安全で見晴らしのいい位置へさりげなく誘導した。
リシェルは頷き、少しだけ顔を上げた。「フラン。……今日の街、きれい」
「はい。——だから守ります」
強い光が走り、影が濃くなる。
その濃さの中で、フランソワーズは遠い言葉を思い出した。
(王都の灯りを消す、か)
誰の声だったか。人混みの中で、酒に潰された笑いの破片に混じっていた。
灯り。王都。消す。
背筋に薄い冷気が走る。祭りの喧噪が、急に遠くなる。
楽師の合図で、広場の中心に視線が集まった。
その一瞬、銀細工師通りの暗がりで、フードの人物が群衆の流れを斜めに裂いた。肩がぶつかり、布が揺れ、短い悲鳴が飲み込まれた。
フランソワーズの声が、音の壁を切り裂くように低く鋭く響く。
「——来るぞ」
楽の音は止まらない。歓声は続く。
だが、目に見えない何かが、今まさに形を取り始めていた。
クレージュの視界の端で、暗がりの人物が振り向く。
黒いフードの縁。頬の一部。短く擦れた傷。
そして——三つ葉の刻印を押した、小さな口笛。
短い、三度の音。
舞台の幕の陰で、楔がかすかに軋む。
灯りの列の一角で、さらにひとつ炎が低くなる。
空気が薄くなる。
クレージュの胸の内で、昨日の粉の匂いと、今の油の熱さがひとつに溶けた。
(これは——この街だけの話じゃない)
王冠の宝玉が潰された黒い線が、瞼の裏に焼き付く。
オベールを侮る印。灯りを消すという囁き。舞台を倒すための仕込み。
散らばっていた点が、ゆっくりと同じ方向へ向かいはじめる。
フランソワーズは剣を抜かないまま、柄から手を離し、群衆の波に半歩沈んだ。
「目を使え。足を止めるな。——合図の出所を探る」
それは隣の誰かに言ったのでも、クレージュにだけ言ったのでもない。自分自身に打ち込んだ、最初の一手だった。
祭りの夜は、まだ始まったばかりだ。
だが、始まりはもう、終わりのかたちを孕んでいる。
光が増え、影が濃くなる。
そして——濃くなった影の中心に、国の輪郭がかすかに浮かび上がっていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
第16話では、これまでの静けさから一転して、
街の明るさの中に“違和感”が漂うような空気を描きました。
それぞれの視点で見える景色――
クレージュの小さな異変への気づき、
リシェルの笑顔の裏の決意、
そしてフランソワーズたちの警戒。
これらすべてが、次の“嵐”へと繋がっていきます。
次回、第17話《暗がりに潜む刃》では、
いよいよ祭りの喧噪の中で、火花が散る瞬間が訪れます。
戦いの始まりを、どうか見届けてください。