15 ほんのひとときの日常
前回、水車小屋の事件を経て、少しずつ見え始めた“影”の正体。
今回はその翌日――祭りを控えたヴェルサントルで、久しぶりに穏やかな空気が流れます。
クレージュたちはそれぞれの日常に戻りながらも、心のどこかに残る緊張を抱えていて……
一方で、フランソワーズのちょっとした“素顔”も垣間見えるかも?
ほっと一息つきながら、少し甘く、少し切ない“溜め”の回です。
朝の通りは、昨日よりも一段と早く目を覚ましていた。石畳の隙間に残る靄は薄く、〈ブラハム堂〉の窓越しに漏れる熱気と、焼き上がりを知らせる生地のぱちぱちという音が、道の向こうの屋台まで届いていく。
フレイが山型パンを布巾で包み、台の上に一直線に並べるたび、列の末尾が少しずつ伸びた。クレージュは前掛けの紐を結び直し、銅貨の受け皿と紙袋の束を手前に寄せる。
「次の方、どうぞ——はい、蜂蜜の小さなパンを三つ、胡桃の丸いのを一つ。温かいので気をつけてください」
「おや、今日はずいぶん賑やかだねえ」
「収穫祭の前日ですから」
会釈、受け渡し、会釈。いつも通りの所作なのに、指先の先にある空気がいつもより軽い。通りの先では、舞台の骨組みが朝の光を拾って眩しく、旗布の端で子どもが遊んでいる。荷車が行き交い、売り声が重なり、街全体が呼吸を早めているのがわかる。
「クレージュ、手ぇ止めるな。数、入るぞ」
フレイが焼き台の奥から声を飛ばす。
「はい!」
列の途中で、灰茶の耳がひょいと揺れた。ブリジットが背伸びして、並ぶ人々の間から顔を出す。
「人気者だにゃ。顔、少し赤いにゃ。昨夜の夜風のせい?」
「走り回ったせいだよ……ほら、ブリジット、邪魔しないで並んで」
「へいへい。あたしは外の風の匂いを運ぶ係だにゃ。南の角、旅楽師がもう笛を試してる。人が集まる前に、道の流れ見てくるにゃ」
ブリジットは尾を一度だけ振って人混みに消えた。代わるように、通りの向こうから外套の襟を正したフランソワーズが歩いてくる。列の背後で足を止め、喧噪の層のどこで音がほどけ、どこで固まるかを確かめるようにしばし目を閉じた。
「隊長、朝から張り詰めてると肩がこるにゃ」
いつ戻ってきたのか、ブリジットが笑いを含んだ声で囁く。
「今日は張り詰める日だ。視線が散るほど、誰かの手は動きやすくなる」
フランソワーズは短く答え、視線だけをカウンターの奥へ向けた。クレージュが目と手を休めず動いているのを確かめ、わずかに顎を引く。
「——よし」
客の波がひとつ途切れた頃、フレイが紙片をクレージュに手渡した。
「広場の屋台“青麦亭”にこの丸パン二十。ついでに銀細工師通りの角に、昼の間に一度寄れ。飾りのひもを頼んだ店に、明日の受け取り時刻を聞いてこい」
「わかりました」
エプロンを外し、肩掛け袋に包みを入れる。戸口の鈴が鳴った。外は明るいのに、風はひんやりとして、胸の奥の熱を落ち着かせてくれた。
*
広場は、朝よりもさらに賑わっていた。仮設舞台は幕が張られて形を持ち、木槌の音に合わせて職人たちの笑い声が重なる。屋台が列を成し、香辛料の混じった油の匂いと甘い果実の香りが、時おり風に乗って流れてきた。
「青麦亭は……あ、あそこだ」
クレージュは店主に包みを渡し、受け取りの判を紙片に押してもらう。礼を言って振り返ると、人の波の向こうから、薄いヴェールと上質のマントがこちらへ向かってくるのが見えた。背の高い護衛が半歩後ろを歩く。足取りは軽いが、周囲への目配りはまるで別の生き物のように行き届いている。
胸の鼓動が一つ跳ねた。
声をかけるべきではない。けれど、視線は避けられない。
リシェルの視線がこちらを拾い、止まる。
彼女は、ほんの一瞬だけ、ヴェールの端を指で押さえ直した。見慣れない街の光の中で、昨日の店先の温度を確かめるみたいに。
クレージュは会釈をした。彼女も同じ高さでうなずいた。言葉はない。だが、それで十分だった。
半歩後ろで、フランソワーズの瞳がわずかに笑みの形になる。すぐに仕事の目に戻ったが、笑みは消えきらない。
「姫様は……」
歩調を合わせながら、フランソワーズはごく小さな声で言った。「市井に紛れても、花の中に花があるように見えます」
「フラン?」
ヴェールの下から覗く瞳が、いたずらっぽく細められる。「今の、少し甘い」
「失礼しました。職掌に相応しくありません」
「いいえ、嬉しいわ。……ありがとう」
フランソワーズは咄嗟に真顔に戻り、軽く咳払いをした。「砂埃が立ちます。姫様に掛からぬよう、こちらへ」
そのときだ。
広場の端で、荷車の片側が石に乗り上げて傾いた。積んでいた木箱がごろりと転がり、乾いた音を立てて蓋が外れ、布包みが散らばる。人々がどっとざわめいた。
「危ない!」
クレージュは反射で駆け寄った。布包みを拾い集め、荷車を押さえる。若い職人が顔を真っ赤にして汗を拭き、何度も頭を下げた。
「助かった!」
「大丈夫。急がなくていいから、順番に——」
言いながら、クレージュは散らばった包みのひとつが軽く湿っているのに気づく。布に油が染み、ほんのかすかに柑橘の匂いがする。粉挽き小屋の油と同じ香りだ。
ブリジットがいつの間にか隣に来て、鼻をひくつかせた。
「匂い、似てるにゃ」
「偶然……かもしれない。でも」
「偶然で済ませない。印を残す」
フランソワーズの声が背中で落ち着いて響いた。彼女は人混みの向こうから、荷車の軸と石の段差を一瞬見ただけで状況を把握し、リシェルの立ち位置を風上へ移すよう自然に誘導する。
「姫様に砂を掛けるな。——すまない、少し退いて道を空けてくれ」
通りがかりの男が咄嗟に道を譲り、職人たちが荷車を引き直す。騒ぎは短く、すぐに日常の喧噪に紛れた。
リシェルがそっと囁く。「私なら大丈夫よ、フラン」
「承知しています。ただ、姫様の襟に一粒も砂を残したくありません」
「……ほんとうに、甘い」
ヴェールの下の笑みは、祭りの光に温められて、静かに灯り続けた。
*
銀細工師通りは、昼なお陰が濃い。両側の家並みが高く、空が細く切り取られている。
フランソワーズは、昨日顔を出した二つの工房の前を通り、飾り紐や灯り台の仕上げを横目で確かめた。型押しの葉脈は相変わらず浅く、打ち出しの葉先は相変わらず角が立っている。——この癖は隠せない。
通りの角の酒場から職人たちが出てきて、納品時刻について軽口を叩く。「日が傾く前までには片付けるぞ」「舞台の灯りの最終合わせが日暮れだ」。
フランソワーズは何も言わず、通りを下った。目に焼き付けるべきは地図ではなく、手の動きと息遣い。情報は、手つきの中に宿る。
一方で、クレージュはフレイの頼まれ物を配り終えて店へ戻る途中、舞台の幕の陰で笛の音が途切れ、糸繰り人形の糸が絡まって慌てる旅楽師に出くわした。
「すみません、これ持っててくれませんか!」
「はいっ」
細い糸は、思いのほか軽かった。クレージュは息を止めず、指の腹で糸をほどく。稽古で覚えた「最初の一手はいつも通り」を、こんなところで使うことになるとは思わなかった。
「助かったよ! 明日はいい音を聴かせるからね」
「楽しみにしています」
足取りが軽くなる。だがその軽さは、胸の奥の緊張を完全に消すほどではない。昨夜の水車小屋で見た刻み、旧水路門の冷たい鉄、粉の匂い。すべてが一本の細い糸でつながっているように思えた。
*
夕刻。〈ブラハム堂〉の裏庭に、昼より柔らかな風が通る。フレイが桶の水で手を洗い、空を見上げて言った。
「今日は早めに閉める。明日はつぶれるほど忙しい。食って、寝ろ」
「了解!」
ブリジットは尾を揺らし、丸椅子に腰を落ち着ける。「祭りの夜の前の静けさだにゃ。こういう時に限って猫は眠れないにゃ」
「眠れないなら、刃の手入れでもしていろ」
フランソワーズが鞘から短剣を抜き、布で油を伸ばす。刃の光は控えめで、余計な反射をしない。
「明日は人の流れに逆らわない。目印は灯りの飾りと舞台裏のロープ。合図が三度鳴ったら、各自持ち場へ動く。捕えるのは急がない。まず、連絡の根を見つける。合図の発信源、刻印の出所、荷の流れ——それを順に塞いでからだ」
「……僕にも、できることはありますか」
クレージュが思わず口に出した。自分でも驚くほど声が真っ直ぐに出た。
フランソワーズは短剣の刃先を拭い、顔を上げる。
「ある。いつも通りに閉め、いつも通りに歩き、いつも通りに息を整えろ。非常の時ほど、日常の手順が人を守る。——そして、目を貸せ。お前の目は昨夜、粉の匂いを見分けた。次も同じだ」
「……はい」
「それから」
ほんの少しだけ、声音が柔らいだ。「姫様の前では、胸を張れ。お前は逃げなかった。あの夜、私が誇りに思ったのは、それだ」
不意に胸の奥が熱くなって、クレージュは慌てて顔をそむけた。ブリジットが「にゃっ」と短く笑い、フレイは何も言わずに小さく頷いた。
日が沈む。空は鈍い金色から藍へ、藍から墨のような色へと移り変わり、最初の星が一つ、二つと滲んだ。
*
同じ頃、城の客間。
リシェルは窓辺に腰を下ろし、裾を整えながら、広場の方角に目をやっていた。窓は高く、外の音は遠い。けれど耳は、昼の喧噪の残り香をまだ離さないでいる。
テーブルの上、折り畳んだ紙袋がひとつ。
——今日も買えた。
指先でその角を撫でると、蜂蜜の記憶が甘く蘇る。胸の奥が温かくなるのを、彼女は素直に受け入れた。
「姫様」
控えめなノックとともに、フランソワーズが入ってきた。外套は脱ぎ、いつもの凛とした顔だが、瞳の奥に火が宿っている。
「明日は、灯りの飾りと舞台裏の二つを押さえます。視線が散る時刻に動くでしょう。私は灯り側に立ちます。——姫様には、広場の縁で人混みを見ていていただきたい」
「わたしにできることは?」
「あります。まっすぐ立って、笑ってください。姫様がまっすぐ立つだけで、私は十人分強くなれる」
「フラン、声が甘い」
「失礼しました」
「いいえ。甘くていいの。……ありがとう」
フランソワーズはかすかに目を伏せる。
「砂埃一粒も、姫様の襟に残しません」
「うん」
短い会話の後、部屋に静けさが戻る。窓の外、遠いどこかで笛の音がひとつ、二つ。明日の賑わいが、まだ名のない形で胸の内に芽吹いた。
*
夜半。
街のどこかで、鐘が一度、高く鳴った。
続けて、短く二度。
三度目の響きが空気の膜を震わせ、石の壁をゆっくり伝っていく。
〈ブラハム堂〉の二階。粗末な机の上に、クレージュの手入れした木剣が一本、斜めに置かれている。彼は寝台の端に腰を下ろし、鐘の余韻を飲み込むみたいに、静かに息を吐いた。
——合図は、決まった。
明日、灯りがともる時刻に、人の目は散る。そこで動く連中がいる。捕えるのは急がない。まず、連絡の根を突き止める。合図の出所、刻印の出所、荷の流れ。順に拾い、順に塞いでいく。
足裏の重さを確かめる。膝を緩める。息を塞がない。
最初の一手は、いつも通り。
窓の外に目をやると、星は薄い。けれど、見えないわけではない。
明日が来る。賑わいと光が街を満たし、その光の陰に、たしかに誰かの手が動く。
それを思うと、胸の奥の灯りが少しだけ強くなった。
同じころ、城の客間でも、フランソワーズは短剣の刃先を布で拭い、静かに鞘に収めていた。
「あなたの背に、影は届かせない」
声にはならない誓いが、暗がりの中で刃より細い線になって、彼女の胸に結ばれる。
窓を打つ風の音はやさしく、遠くの鐘の記憶はまだ温かい。
祭り前夜の影は、すでに街の至るところに伸びていた。
だが、それを見ている目もまた、至るところにあった。
誰もが眠りにつく直前の、わずかな静けさの中で、明日の足音だけが静かに重なり合っていく。
お読みいただき、ありがとうございます。
十四話までで緊迫していた流れを、十五話ではいったん落ち着かせました。
とはいえ、穏やかな日常の中にも“嵐の前の静けさ”が潜んでいます。
フランソワーズとリシェルの関係、そしてクレージュたちの距離感も、
これから少しずつ変わっていきます。
次回、第十六話《祭りの幕開け》では、街全体が熱気と光に包まれる中で、
小さな“不穏”が顔を出します。
その一瞬を、どうぞ見届けてください。