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14 水車小屋にて

前回、ヴェルサントルの街で見え隠れした“影”。

そして今回は――静かな夜、水車小屋で動き出す「もうひとつの手」が描かれます。


クレージュ、ブリジット、フランソワーズ、それぞれの判断と連携。

一つの小さな行動が、これからの物語を大きく動かしていきます。


少し緊張感のある回ですが、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。

水は夜のほうが匂う。

 旧水路から分かれた細い流れが粉挽き小屋の下をくぐり、水車の羽をゆっくり押し上げる。羽が一枚回るたび、軋みが闇に沈み、柑橘の皮を混ぜた油の匂いが鼻の奥をくすぐった。


「……ここだな」

 フランソワーズは柱の根元に膝をつき、指先で木肌を探る。薄い刻みが指腹に触れた。三度、水平。二度、斜め。古い符丁の並び——“二刻後に戻る”。

 ブリジットは耳をぴんと立て、川風の向きを測る。「粉の匂いが濃いにゃ。昨日の粉だ。水で固まる前の細かい粒がまだ生きてる」

 クレージュは掌に淡い光を宿す。視覚を補助するための小さな術だ。光は炎ではなく、月明かりを少し増したみたいに色を持たない。それでも、石の継ぎ目に溜まった白い粉や、壁に寄りかかったときに擦れた衣の微かな痕を浮かび上がらせた。

「ここで誰かが待って、合流して……そして戻った。足を入れ替えるとき、右に体を切る癖がある」

「水車に寄る者は、いつも右から回る。……よく見ているな」

 フランソワーズは短く告げ、刻みの上に薄布を当てた。痕跡を他に盗まれぬよう隠すためだ。

「尻尾は切らない。今夜はここまで。根はまだ地下にいる」

 ブリジットが名残惜しそうに水車の音へ耳を澄ませる。「次は祭りの前夜だにゃ。人が増えて、目が散る。あいつらの餌場だにゃ」

「だからこそ、そこが交わる場所になる。戻るぞ」


 小屋の裏手を離れると、川音はすぐ建物の影に吸い込まれた。三人は暗がりの筋を選び、それぞれ別の道筋で街の心臓部へ戻っていった。行き先は同じ、約束した合流の場所——〈ブラハム堂〉の裏手の門だ。


     *


 朝靄がゆっくりと石畳の隙間から抜けていく。〈ブラハム堂〉の窓には朝の白さが薄く貼りつき、店の奥からぱちぱちと生地が歌う音が届いた。

 フレイは山型パンを布巾で包み、台に置くと、熱の抜ける呼吸に合わせて深く息を吐く。袋の口を結ぶ手つきは、剣を置いてからの年月で染みついた、町の朝の手つきだ。


 戸口の鈴が控えめに鳴る。外套の裾から夜露を落として、フランソワーズが入ってきた。瞳の奥にだけ、夜を跨いだ影がある。

「昨夜は助かった、クレージュ。……そして、フレイ殿には心配をかけた」

 粉まみれの前掛けを急いでほどき、クレージュは頭を下げる。

「僕は……言われた通り、粉と匂いを確かめただけです」

「それで十分だ。手掛かりは三つ——《三つ葉の刻印》《旧水路門》《粉挽き小屋の粉》。お前の目がなければ、最後の一つは決めきれなかった」

 断言の調子に、胸の奥が熱くなる。昨日の夜気が、別の形で体の内側に残っていた。


 フレイは手早く木のマグにスープを注ぎ、三つ並べて押しやる。「客が来る前に奥でやれ。朝は短い」

 作業場の奥に回ると、パンの香りはやわらかく、夜の残り火みたいに熱が細く続いていた。


「銀細工師通りが次の要のはずだ」

 フランソワーズは卓上に紙片を広げ、街の北側を指でなぞる。「三つ葉の意匠を癖にしている工房が二つある。祭りの灯りの飾りも受け持つ。灯りの打ち合わせで人間が入れ替わる時間帯……視線が散る。そこで合図を重ねるのが古いやり口だ」

「じゃあ、祭りの前夜は舞台裏じゃなくて光の側に?」

「両方だ。光の側で“数を合わせ”、舞台裏で“荷を動かす”。連中は二ヶ所を挟んで相互に目を散らす。だからこちらも、散る視線の下で“いつも通り”を崩さない」

 フランソワーズがマグを空にすると、ブリジットが尾で空気を叩いて笑う。「なら、舞台裏はあたしが歩くにゃ。灯りの方は隊長が。クレージュは……」

「店を閉める段取りを覚えておけ」

 フランソワーズが言葉を継いだ。「合図が三度鳴ったら裏口へ。そのまま粉挽き小屋の脇を経由して、銀細工師通りの手前で待機。誰に呼び止められても、立ち止まるな。いいな」

「……はい」


 戸口の鈴が続けざまに鳴って、朝の客が列を作り始めた。フレイは「始めるぞ」と短く言い、カウンターの前に立つ。

 いつもの言葉、いつもの手つき。銅貨と紙袋、感謝と笑み。

 通りの風が、店の内と外を同じ温度で行き来した。


 列の合間に、薄いヴェールの端を指先で抑えた少女が立った。上質の布、目元に潜む緊張、歩き慣れているのに街へ馴染もうとする仕草。

「おはようございます」

 声は小さいけれど、真っ直ぐだった。

「蜂蜜入りの小さなパンを二つ。それと、昨日の丸いのを一つ」

「はい」

 クレージュは焼き色の均一なものを選び、紙で包む。包み紙の端が、手袋越しの細い指先にそっと摘まれる。震えはない。ただ、息が合う。

 リシェル——そう呼ぶにはあまりにも近く、名を口に出すには遠い距離。

 フランソワーズは通りの向こう側から、何もなかったように視線を引いた。護衛の目は鋭いが、主の小さな自由を知っている。


     *


 昼が近づくと、裏庭に陽がまっすぐ差してきた。

 フレイが丸木剣を二本、指先で弾いて放る。「はい、構え」

 クレージュは剣を受け取り、足幅を取る。足裏で地面の温度を確かめ、膝の裏の張りを抜く。

「最初の一手は、いつも通りからだ」

 フレイの声は、朝の生地のように落ち着いている。「非常の手は、日常の手からしか生まれない」

「……はい」


 打つ。受ける。打ち返す。

 木がぶつかる乾いた音が、規則正しく続いた。

 ブリジットは樽に腰かけ、顎に拳をのせて見ている。「右手の指、力みすぎだにゃ。肩に上がってる」

「う、うるさい……」

「肩で振ると、昨夜みたいに視線が上へ逃げる。足裏を忘れないこと」

 いつの間にか壁際に来ていたフランソワーズが、丸木剣を一本取り上げた。「一手、貸せ。私が入る」

 剣先ではなく、腰を見る。——昨夜、水路門の階段で教わったことを、体に言い聞かせる。

 踏み込み。視線が揺れる。

 フランソワーズの打ち込みは派手さがないのに、重さだけが正確に乗ってくる。刃筋を外へ押しやる角度で、二度、三度。

 クレージュは呼吸を短く刻み、足の裏へ戻る。腰を見る。肩の線、腰の流れ。目を逸らさない。

 四度目の打ち込みで、かろうじて受けた。木が鳴り、腕の中で震えが走る。

「今のは悪くない」

 フランソワーズは短く笑んだ。「ただ、嬉しさと驚きに弱い。さっきの店先のようにな。——それは悪ではない。だが、足は地を離さない」

 クレージュの耳が赤くなる。「……見てたんですね」

「職掌柄な。主は主の時間を生きる。私はそれを邪魔しない」

 フレイが手を叩いた。「よし、一旦切る。水を飲め」

 木陰に腰をおろすと、汗が背中を冷やし始めた。息を整えながら、クレージュは夜の水音を思い出す。水車の軋み、柱の刻み、粉の匂い。

 ——尻尾は切らない。根を掴むまでは。

 その言葉が、剣の握り方を少しだけ変えた気がした。


「祭りの昼は、店は忙しくなる」

 フレイが空を見上げる。「準備の間は俺とクレージュで回す。ブリジット、外の流れを見てこい。フランソワーズ、灯りの方は? 段取りを取っておくか」

「銀細工師通りの工房に、今日のうちに顔を出す」

 フランソワーズは立ち上がり、外套の襟を直す。「見学の名目で十分だ。装飾を眺め、手を眺め、癖を見る。——情報は、仕事の手つきに宿る」

「なるほどにゃ。あたしは舞台裏で、ロープと幕の動きを見るにゃ。猫の庭だにゃ」

「クレージュ」

「はい」

「鐘が三度だ。忘れるな」

「忘れません」


     *


 街は昼の明るさに満ちていた。

 広場では仮設の舞台が骨組みから皮を得て、幕の色が風に揺れる。若い職人たちの笑い声、木槌の音、子どもたちのはしゃぎ声。屋台は早くも香辛料と焼き油の匂いを漂わせ、旅楽師が笛を試す。

 祭りの準備は、人の気配を幸せに大きくする。だが、その影で、注意はほどけやすくもなる。


 フードを深くかぶったリシェルは、フランソワーズと歩を合わせて広場の縁を回った。

「にぎやかね」

「はい。人は光に集まる。光は目を散らす」

「……フランが冷たくなる理由、少しわかった気がするわ」

「申し訳ない」

「いいの。冷たいなら、わたしの分まで見てくれるから」

 短いやり取りのあと、リシェルは小さく笑みをこぼし、紙袋を胸に寄せる。「あの店のパン、今日も買えたの」

「存じております」

「あなた、本当に全部見ているのね」

「職掌柄です」

 風が幕をはためかせる。幕と幕のあいだから、舞台の下で働く職人の手が一瞬見えた。荒い手の甲、素早く縫う針目。

 フランソワーズの視線がほんのわずか硬くなる。

「銀細工師通りに寄ります。灯りの飾りの支度を見ておきたい」

「ええ」

 リシェルは頷き、広場の喧噪へ目をやった。人と声の海。そこに紛れて、昨日の店先の温度が小さく灯っている。

 甘い蜂蜜の香りと、紙の擦れる音。

 偶然のはずなのに、偶然だけではないもの。

 少女の胸の奥に、名付けようのない明るさが芽吹く。


     *


 銀細工師通りは、広場から北へ少し上がったところにある。両側を背の高い家並みが挟み、昼でも影が落ちやすい。

 フランソワーズは表向きの見学客にまぎれ、二つの工房を回った。

 一つ目は鋳型を多用する店。三つ葉の意匠は型で押している。刻みの癖は浅く、輪郭が丸い。

 二つ目は打ち出しを得意とする店。三つ葉の先端に微妙な角があり、葉脈を小刻みに打っている。

 彼女は飾りひもや灯り台を丹念に眺め、職人の手の動きを見る。合間に、控えめな世間話で祭り用の納品時刻をさらりと確かめる。「日が傾く前まで」「舞台の灯りと合わせて最終確認」。——視線が散る時刻と、ぴたり重なる。


 通りを出ると、陽は傾き始めていた。

 フランソワーズは息を一つ吐き、〈ブラハム堂〉へ戻る道すがら、心の中で剣を鞘に納めるように考えを束ねた。

 鍵はまだ向こうにある。だが刻印は向こうの癖を語る。粉は払える。だが匂いは消えにくい。足は消える。だが足の癖は変わらない。

 根は、まだ地下にある。

 それでいい。狩りは焦らない。根に触れるまでは、尻尾を切らない。


     *


 夕暮れ。〈ブラハム堂〉の裏庭に、昼より柔らかな風が通った。

 フレイが木のマグにエールを少し注ぎ、「祝いだ」とだけ言う。

「何の?」とブリジット。

「鍵の匂いが形になった祝いだ。大声の祝いじゃない。静かなやつ」

 マグの縁を唇に当て、麦の香りを一口だけ喉に落とす。胸の中の熱が、静かに拡がった。


「今夜は休め」

 フランソワーズが言う。「明日の昼は“いつも通り”を刻み直し、前夜に備える。合図は鐘が三度。短く、深追いはなし。——やるべきことは、それだけだ」

 クレージュは頷いた。

 手の中に、昨夜、闇の中で一瞬だけ掴みかけた鉄の冷たさが蘇る。三つ葉の刻印が月で瞬いた錯覚。粉の匂い、水の音。

 全部が、一本の細い糸に繋がっている。

 その糸は、派手に光らない。だが確かに、どこかへ導いていく。


 夜はまだ浅い。

 星は薄いが、見えないわけではない。

 クレージュは空を仰ぎ、深く息をした。

 浮かんだ白い吐息は、すぐに夜の温度に紛れた——それでも、胸の奥には小さな灯りが残る。明日の“いつも通り”を照らすには、十分な明るさだ。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

今回の十四話では、初めて“敵の形”がうっすらと見えてきました。

ただ戦うのではなく、「尻尾を切らず、根を掴む」――

フランソワーズの言葉が、この物語の方向を少し変えた回でもあります。


次回、第十五話《祭り前夜の影》では、街が再び賑わいを取り戻す中で、

それぞれの胸の内にある“揺らぎ”を描いていきます。


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