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13 追跡

宵の口。街の灯りはまだまばらで、石畳の溝にたまった水が、夕風に小さく震えていた。

 フランソワーズ=クレマンは、暗がりに沈む倉庫街を一瞥し、外套の襟を指で少し持ち上げる。視線は遠く、耳は近く。足音と衣擦れ、油の匂い、金属が石をかすめる音——それらを薄い膜のように重ね、目に見えない地図を頭の中で引く。


「……来る」

 短い言葉とともに、隣のブリジットが尾を低く構えた。猫族の娘は壁と影の境い目に身体を貼り付けている。灰茶の耳がわずかに揺れ、瞳が暗闇の粒を拾う。


「黒い外套、二つ……いや、三つにゃ。匂いは油と湿った麻袋、あと少しだけ鉄の粉。港の方の者かも」

「上々だ」

 フランソワーズは顎で合図を送った。「——散開」

 ふたりは左右の路地へ別れ、倉庫壁の柱と積荷の影に身を滑らせる。視界は狭くなるが、死角は減る。交差点は押さえ、退路は見逃さない。


 狙うのは、昼から街を伺っていた黒衣の影だ。今、奴らは北の倉庫街へと足を向けている。目的は——旧水路の分岐にある鉄格子門、俗に《旧水路門》と呼ばれる抜け道。その手前の小広場が「交わる場所」だと、フランソワーズは踏んでいた。


 石段の上に、灯りを布で覆ったランタンがひとつ伏せられる。黒衣のひとりが周囲を見渡し、二本の指で短く合図を切る。

 フランソワーズは数を重ねるように、同じリズムで指を折った。

「合図は短く」

 彼女の囁きは風以下。ブリジットは目だけで頷いた。


 別の影が現れる。痩せた背丈の小男。懐から小さな包みを取り出し、黒衣の先頭へ差し出した。

 金属が触れ合う、乾いた音。

 ブリジットの喉がかすかに鳴る。「鍵、だにゃ」

 フランソワーズは動かない。今は視るときだ。


 包みが解かれる。月光の端が、鈍く擦れた鉄に一瞬だけ触れて跳ねた。輪の付いた鍵——柄の付け根に、三つの小さな葉を重ねた刻印。

 二人はあらかじめ視覚を強化する簡易魔法をかけていた。闇に淡く浮かぶ輪郭が、月光に撫でられた刻印を際立たせ、三つ葉の形をはっきりと示していた。

「三つ葉……」

 フランソワーズは心の中でだけ呟き、石畳の角に視線を落とす。そこで、右足の踏み込みで石の粉が外側へわずかに散り、左足は逆に内へ抉るように擦過痕を残していた。小さな水たまりも右に弾けている。全力で駆け出すとき、必ず右へ切る癖を持つ者の痕跡だ。


 受け渡しを終えるやいなや、先頭の影は踵を返して水路沿いを駆けだした。残った二人は広場に散り、追跡者の鼻先を叩くように視線をばら撒く。


「追うにゃ?」

「ああ、でもまだ捕えるな」

「了解にゃ」


 フランソワーズは影の背後を追いながら、あえて二歩だけ間を空けて角に差し掛かった。足の裏全体ではなく指の腹だけで石畳を踏み、衣擦れの音すら殺す。角に迫ると、フランソワーズは一瞬だけ上体を傾け、右肩を先に突き出す。流れるように壁際へ体を滑らせ、半身の姿勢で刃物が走り抜けるかのように、鋭く角を抜けた。

 視界が開いた、その瞬間——

積荷の上から金属棒が二本、矢のように飛び出し、石を叩いて火花を散らす音が弾けた。


 ——投擲。


 積荷の上から、短い金属棒が二本、弧を描いて飛んだ。狙いはブリジットの足。

 彼女は舌打ちを一つ、猫のように地面を舐める低姿勢で潜る。そのまま壁際を滑り、棒が石に跳ねる音の直前に左足で蹴り上げ、返す。

 カン、と乾いた音。投げた影の手首が弾かれ、バランスが崩れる。


 フランソワーズは無言で前進した。剣は抜かない。抜けば速い、だが今は違う。

 影が短剣を抜こうと肩をひねった瞬間、彼女は相手の肘の内側に手刀を差し入れ、関節の角度を一つだけずらした。短剣が石に落ち、音が闇に吸われる。

 影は呻き、後ろへ跳ねる。呼気が荒い。

 ——弱い。おとりか、見張り。鍵を持っているのは、走った先頭だ。


 ブリジットの前に残るもう一人は、腰の位置が低い。軽い刃物の構え。猫のそれに似ている。

「やるにゃ」

 ブリジットは笑って、石の粉を爪で払った。

 鋭い足音。二人の間が一拍で詰まる。

 ブリジットは相手の踝を狙って足を払った——かに見せて、ぴたりと止める。相手の視線が下へ落ちた瞬間、爪先で石を弾いて目へ砂を散らした。

「っ!」

 相手の瞼が閉じる。そのわずかな時間に、彼女は肩口へ肘を滑り込ませ、刃の軌道を外へ追い出す。金具が壁に火花を散らし、刃が欠ける音がした。


 「今は切らない」

 フランソワーズが低く言った。

「ここで一人を倒しても、奴らはすぐに別の“鍵”を用意する。結局、影は地下に潜って姿を消すだけだ」


 彼女はおとりの胸倉を掴み、倉庫の扉に押し付ける。息が一つ抜け、男の目が泳いだ。

「鍵はどこに流れる」

 答えはない。彼は口を噤み、顎を固くする。

 フランソワーズは押し付ける力を解き、逆に衣服の皺を伸ばすように整えた。

「いい。今は言わなくていい」

 手を放すと同時に、踵で男のつま先を軽く踏む。反射で体重が傾いた肩の付け根を、指先で軽くつつく。

 男は情けなく前に倒れ、そのまま膝を抱えた。悲鳴は上げない。上げられない。


 ブリジットの捕まえたもう一人はじりじりと後退し、路地へ逃げ込む気配を見せる。

「行かせるにゃ?」

「行かせる」

 フランソワーズは即答した。「合図を今ここで途切れさせれば、奴らは必ず次の“合流の場”でやり直す。つまり、次の合図の場所が見える」


 水路の方から、微かな金属音が二度、三度。鍵が鉄に触れる響き。

 フランソワーズの目が鋭く光る。「旧水路門だ。逃げ道を開けたようだ」


 広場の影が風にほどける。受け渡し役の小男はすでに消え、残った二人はそれぞれに引き、距離を取る。

 ブリジットは壁を蹴って一気に屋根へ飛び上がった。瓦の隙間を靴底が吸いつくように捉え、耳が夜気の流れを測る。

「先頭、右へ切ったにゃ。水車の方へ。足が速い。でも、癖がある——右足の踏み替えで少し外に跳ねるにゃ。……必ず右へ切る走り癖、次も同じだにゃ」

 その言葉通り、影は角で右へ身を翻した。

「よし。私は下。お前は上」

 フランソワーズは路地に身を溶かし、影を追い出すように走る。石畳と靴の音が一つの線になり、壁の角が連続して迫る。

 曲がり角で一度だけ肩を入れ、体を半身に回して摩擦を殺す。視界の端で、屋根の上をブリジットの影が並走するのが見えた。


 旧水路へ向かう石段が現れる。暗い穴倉の口。

 そこへ、黒衣の先頭が飛び込もうとする。

 フランソワーズは足を止めず、石段の二段目で体の重心を落とし、上体だけをわずかに捻った。

 ——肘。

 彼女の肘が、相手の肩甲骨と背骨の境目に正確に入る。衝撃に、相手の息が抜けた。だが、そのまま転がり込むように、影は穴の中へ身を滑らせる。

 鉄の格子が目の前で揺れる。内側から鍵が回り——閉まる。


 カチリ。

 冷たい音。


 ブリジットが屋根から降りながら舌打ちをした。「閉められたにゃ」

 フランソワーズは格子に手を添え、目を凝らす。

 鉄の縁に小さな刻印。三つの葉が丸く寄り添い、風に揺れる図案。

「三つ葉契」

 昔の同盟名。今も使っているのは——自分たちの系統が途切れていないと誇示したい連中か、それとも古い誓約に縛られている愚直な者たちか。


 水路の向こうから、灯りを布で覆った小さな影が動く。

 フランソワーズは剣を抜かないまま、腰に手を添えた。

 追えば届くか? 届く。だが、届いたところで——その先は迷路だ。地図を持つのは向こう側。

 彼女は息を一つ吐き、首を横に振った。


「今は切らない」

 その言葉に、ブリジットは悔しそうに耳を寝かせたが、すぐに頷いた。「——寄り道はなし、だにゃ」


 二人は足元の石段に、幾つかの痕跡を拾う。

 靴底に付いた細い白粉——粉挽き小屋の粉。

 鍵の歯が擦れた鉄粉——新しい削り。

 足跡の向き——入った後に戻ったものが混じっている。出るだけでなく、誰かがここへ“入って”、別の道で“戻った”。


 ブリジットが鼻先を近づけ、すんと匂いを嗅いだ。「粉の匂いは、北の粉挽き小屋のやつ。水車に使う油が独特だにゃ。柑橘の皮を混ぜてる」

「なるほど」

 フランソワーズは静かに笑った。「合流はここで終わりじゃない。——次は粉挽き小屋を押さえる」


 そのとき、路地の上から小さな合図の音が三つ、短く落ちた。

 ブリジットが耳をぴくりと立てる。「追っ手はないにゃ。けど、見張りがひとり、南の角へ。交代の巡回だにゃ」

「ここを離れる。痕跡は拾った。今夜は十分だ」


 戻り道は行きより速い。二人は倉庫の影を縫いながら、互いに言葉少なに歩調だけを合わせた。

 行き交うのは音と風だけ。追跡の緊張が少しほどけると、ブリジットがふっと笑う。


「さっきの肘、よく入ったにゃ」

「壁に感謝するのだな。あの角度は壁が相手の肩を浅くしてくれた。——お前の砂も良かった」

「猫に砂は付きものだにゃ」

「そうだな」

 短い冗談が、張っていた神経をやさしく撫でる。だが、足は緩めない。


 大きな通りに出る前、フランソワーズは一度だけ立ち止まり、夜の空を仰いだ。

 星は薄い。街の灯りが空を洗っている。

 彼女は胸の奥で、さきほどの鍵の冷たさを思い出した。三つ葉の刻印。古い名。黒幕の気配。


「ブリジット」

「ん?」

「今夜の合図はここまで。——報告は短く。手掛かりは、《三つ葉の刻印》《旧水路門》《粉挽き小屋の粉》の三つ」

「了解にゃ。短く、だにゃ」

「それと——尻尾は切らない。根を掴む」


 ブリジットの目が細く笑う。「うちの隊長、そういうときの顔が一番怖いにゃ。好きだけど」

「光栄だ」


 ふたりは別々の筋へ散り、それぞれの経路で街の夜にまぎれた。


     *


 深夜、城の外縁。

 フランソワーズは報告書を簡潔にまとめた——“合図は短く、寄り道はなし”。余計な形容は一切つけない。

 彼女は最後に一行だけ加える。


 ——《三つ葉契》の刻印、健在。工房は北の銀細工師通り、二店に絞れる見込み。


 羽根ペンの先を拭い、蝋で封をする。

 思考を静かに束ねなおすと、そこには一本の道筋が見えた。


 鍵はまだこちらにない。だが、刻印は隠せない。

 粉は払える。だが、匂いは消えない。

 足跡は消える。だが、癖は変わらない。


 “根”は、まだ地下にある。

 それでいい。狩りはまだ始まったばかりだ。


     *


 薄明。

 遠くでパンを焼く香りが微かに流れてくる。街は目を覚ましはじめ、夜の出来事はどこかの石の継ぎ目に吸い込まれた。


 フランソワーズは外套の襟を下ろし、肩を回した。

 短い眠りのあと、彼女はまた歩き出す。

 次は——粉挽き小屋。

 短い合図。

 寄り道は、なし。

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