12 5人
ようやく、クレージュを中心にリシェル、フランソワーズ、ブリジット、アルウェンが顔を合わせる場面を迎えます。
これまでの物語では、それぞれが断片的に関わり、別々の思惑を抱えていましたが、この出会いが後の「仲間」としての第一歩になります。
まだ打ち解けてはいない五人。立場も、性格も、背負うものも違う彼らがどう交わり、どう反発し合うのか。
新たな関係の幕開けを楽しんでいただければ幸いです。
――作者より
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます!
ついに主要キャラクターたちが揃いました。ここから物語がさらに大きく動き出します。
ブックマークや感想で応援していただけると、とても励みになります。
学者街の朝は、早い。
鐘の音が一度、二度、静かに石の谷間を渡っていくたび、路地の影は薄くほどけ、白壁の書庫や黄褐色の塔が光を飲み込んで目を覚ます。店開きの声が重なり、羊皮紙の匂いに、乾いたインク、煎った穀の香ばしさが混ざる。砂漠の隊商が広げた敷布には香辛料の山が赤と金に分かれ、海から来た商人は塩の樽に濡れ布をかけて陽を避ける。長耳の学者が巻物の束を胸に抱え、矮人の職人が真鍮の部品を紙で包み、東方の筆写僧は筆先を屋台の水碗にひと撫でしてから歩き出す。
——永世中立の都市ヴェルサントル。今日も異なる言語と習俗とが、ぶつかりそうでぶつからずに擦れ違っていく。
「姫様、外套の留め具をひとつ上げます」
「ありがとう、フラン」
王宮から学者街へ抜ける北の回廊で、白と金を基調にした外套の襟元が整えられた。
リシェル=フォン=オベールは、深く息を吸い、吐く。昨夜の献花式の余韻は、胸の底でまだ小さく鳴っている。人々の祈り、白百合の香り、そして——偶然として処理された、あの微かな“揺らぎ”。
「公文書庫に寄って、戦後の交易路の更新記録を確認したいの。あと、学者街の図書館で、森境協定に関する論考も」
「承りました。しかし、姫様——今日は視線が多くなります。護衛の数を増やすべきでした」
「大丈夫よ。学者街は、好奇のまなざしで満ちているのが普通だわ」
声は明るく、けれど瞳の奥には、昨夜から持ち越した鋭さが宿っている。それを見て取ると、フランソワーズは頷き、歩調を半歩早めた。
(表では普段通りに。内側では、昨日の“違和”を一つずつ確かめる。私の役目は、その両方を支えること)
白い外套の裾が石畳を払うように揺れ、二人は学者街の広場へ出た。
そのころ、《ブラハム堂》の木箱を担いだクレージュは、通りの端を器用に縫っていた。
「すみませーん、通ります!」
立ち止まる者の肩に軽く手を添え、飾り棚の角を避け、香辛料の山の前では一呼吸おいてから進む。パンの温い匂いが背中の籠からふわりと立ちのぼり、振り返る子どもが目を丸くした。
(父さんのパンは、どこでも通用する。今日は学者街の常連へ“粉雪”を多めに。ニコルの札も、目立つところへ貼らないとな)
焦げ目のきれいな皮の張り具合を手の甲で確かめるように、木箱の重心をわずかに寄せる。剣の柄を握るのとは違う、毎朝の重み——それでも最近、重みの奥にもう一つ別の感覚が芽生えているのを、クレージュは自分で知っていた。
(守りたい、って気持ち。形にしないと、意味がない)
配達先の書庫の角で、彼はふと足を止めた。
白と金の外套が、朝日の帯の中をすべってくる。髪は光を飲み、青い瞳はまっすぐ。
(——リル?)
呼吸が、細くなる。
パン屋の扉を押し、無邪気に並ぶカゴを覗き込んでいたあの少女。笑った時に、右の頬にだけ小さくえくぼが寄ることを、彼は覚えている。
だが今、彼女の両脇には白の軍服が寄り添い、人々の流れが自然に割れ、視線が追う。
(違う。いや——同じ、だけど……)
喉が音を忘れ、木箱の端が掌から滑りかけた。慌てて持ち直す気配を、護衛の視線が捉える。
「そこの少年。道のど真ん中に立つな」
抑えた低さの中に刃。フランソワーズの言葉に、クレージュは肩をすくめた。
「も、申し訳ありません」
それでも視線は離せない。
「——クレージュ?」
柔らかな声が、風の層をやさしく撫でる。
彼は気づかぬうちに、返事の仕草をしていた。
「リ、リル……いえ、リシェル様……」
名前に敬称が追いつく。その瞬間、彼の中で二つの像がぴたりと重なった。パンを選ぶ少女と、王女。日常の笑顔と、公の面差し。
リシェルは微かに目を伏せ、すぐにいつもの笑みを浮かべた。
「また会えたわね」
けれど、その青い瞳の奥に、ほんのわずかな陰が差した。
「……ごめんなさい。本当は“リル”なんて名じゃなくて、私が王女リシェルだってこと、隠していたの」
声は小さく、風に溶けてしまいそうだった。
「気楽に話したくて、嘘をついたわけじゃないの。ただ、ほんのひととき……普通の女の子でいたかったの」
クレージュは言葉を失った。彼女の笑顔と謝罪のあいだに揺れる想いが、胸の奥で混じり合って響いた。
それだけで、胸の淀みがほどける。けれど同時に、距離の線が一筋、鮮やかに引かれた気もした。
(この人は、王女だ。オレは——パン屋の息子だ)
その数歩うしろ、日陰にいる影がひとつ。
灰の耳がぴくりと動き、尾の先が左右に小さく振れる。
ブリジットは、壁に背中を預け、腕を組んだまま場の空気を観察していた。
「……パン屋の坊や、やっぱり“ただの坊や”じゃないにゃ」
低く、誰にも届かない声で言う。
昨夜から街の端々で拾ってきた微かな違和——黒い三点の印、反転した百合の刻印、油の匂い。どれも口に出すにはまだ早い“材料”に過ぎない。だが、あの王女の近くに立つ少年が、ただの通りすがりではないことだけは、目でわかった。
(目が、泳がないにゃ。怖いのに、逃げない目にゃ)
視線の流れをさらに押し広げると、図書館の階段に白銀の線が立っていた。
アルウェン。
長い耳が風の向きを測るようにわずかに傾き、赤い瞳は騒がしさの中の“静けさ”を選ぶ。
「……ここで」
誰に伝えるでもなく、彼女は言葉をひと粒落としてから、段を降りた。裾の軽い衣は音を立てず、足取りは人の波を乱さない。それでも人目は自然に彼女のまわりで緩み、道を開く。
「姫様、場所を変えましょう」
フランソワーズの低い進言に、リシェルは頷いた。
「書庫の脇の回廊へ。そこで——」
言いかけた言葉が、銀の気配に切り取られる。
「剣を抜く理由はありません」
澄んだ声。
フランソワーズが反射的に半歩前に出、右手が柄に触れ——次の瞬間、止まる。
近づいてきた少女の立ち姿に、敵意の角が見えない。ないどころか、彼女の周囲には静謐が張られている。
「私はアルウェン=シルヴァ。シルヴァ王国第二王女」
小さく、しかし確かな礼。
「この街では身分を掲げずに歩いておりますが、今は——名乗るべき時だと判断しました」
「エルフの王女……」
クレージュの胸が、別の意味で跳ねた。
リシェルは瞬きを一度だけして、口元に柔らかな曲線を描いた。
「はじめまして。私は——」
「存じています、オベールの姫」
アルウェンの瞳は、リシェルの瞳をまっすぐに映す。
「ここで声を高くするのは賢明ではありません。人目の少ないところへ」
「待て」
フランソワーズが低く制す。
「名乗りは受け取った。しかし、ここは中立都市、学者街。王女を二人も並べて歩かせるなら、それ相応の理由が必要だ」
細く緑の光が走るような視線。
アルウェンは一歩も退かぬまま、その視線を受け止めた。
「理由は、すぐにでも示せます——ただ、場を選びたいのです」
ブリジットが、その間を震えも迷いもなくすべるように割った。
「なら、図書館の裏手にゃ。巡回が一度途切れる刻限を、さっき見たにゃ」
フランソワーズの目だけが動き、灰の耳を測る。
「貴様は何者だ」
「ブリジット。猫族の戦士にゃ。……今は“耳”として役に立つにゃ」
言い終えるより早く、尾が一度だけ右に振れた。通り角の巡回兵の影が少し伸びて、また消える。
(見えている。声だけではない)
フランソワーズはほんの僅かに顎を引いた。
「——案内しろ。姫様、私の後ろに。少年、荷を置いて来い。来るなら、静かに来い」
「は、はい!」
クレージュは木箱を配達先の書庫に預け、「すぐ戻ります!」と帳場に声をかけてから駆け戻った。胸の鼓動が速い。足が軽い。
(オレが行って、何ができる——でも、目を背けたら、後悔する)
図書館の裏手は、正面の喧騒が嘘のように静かだった。
蔦に覆われた壁の下、雨水の逃げ溝が細く曲がり、石の匂いがひんやりと肌に触れる。鐘の余韻が遠く、鳥の羽音が近い。
フランソワーズが先に入り、視界と足場を確かめる。続いてリシェル、アルウェン、ブリジット。最後にクレージュ。
外套の裾が石の縁を擦る細い音。空気の温度がひと息分、低くなる。
アルウェンは外套の留め具を外し、静かに口を開いた。
「まず、謝らせてください。名乗るのが遅れました。昨夜から、この街では“人目のない名乗り”しか許されない事情が重なっていましたので」
「事情?」
フランソワーズの問いは短く、音の角が鋭い。
「昨夜の“事故”について。私は事故ではないと見ています。理由は二つ——印と、匂い」
リシェルの喉が微かに動く。ブリジットが、尾をぴたりと止めた。
「印、とは」
「石畳の低い位置に、煤と油の三点が並んでいた痕。腰の高さで等間隔、曲がり角の内側にだけ残る。導線を結ぶと——」
アルウェンの視線が、静かにリシェルへ向く。
「オベール館と、広場の搬入路を繋ぎます」
フランソワーズの指が、柄からわずかに離れた。
「匂い、とは」
「樽底に残っていた樹脂の匂い。森の北に生える針葉樹——私たちは“青樹”と呼びます——の樹脂を煮て混ぜた防水油。オベールの商隊が北の湿地を越える荷に、よく使うものです」
「つまり、狙いは……」
答えは言葉になる前に、五人の間に落ちた。
——リシェル個人だけではない。オベールという“道”そのもの。
「それを、なぜエルフの王女がここで言う」
フランソワーズの問いは、公と私の境目を確かめる打診でもあった。
アルウェンの赤い瞳が、ほんの一瞬だけ柔らかくなる。
「森境協定をご存じでしょう。十五年前の戦ののちに、森と人の境で交わした約束です。北の楯が崩れれば、森は血を吸います。だから——森を守るために、森の外を守ることがある」
息をひとつ置き、今度は言葉に芯を通す。
「それと、もっと古い層にある“星見盟約”。『光を継ぐ姫に影が落ちる時、森は見張りを送れ』。今代の継承者は、貴女です、リシェル殿下」
リシェルは静かに目を見開いた。
(光を継ぐ姫——わたし)
胸の中で、昨夜の白百合がもう一度揺れる。怖さもある。けれど、それ以上に、受け取ってしまった責務の重みが、指先から腕へ、肩へと広がっていく。
「……だから、あなたは」
「はい。私は“見張り”です。中立都市では公に動けません。ゆえに、伝えるべきを伝え、見えるべきを見、塞ぐべきを塞ぐ。それが今の私に許されている役目」
アルウェンは、ブリジットに視線を移した。
「そして——耳と足を借りたい」
ブリジットは片眉を上げる。
「エルフの王女が、猫に頼みごとにゃ?」
「猫に頼むのが最善の場面が、今ここにあります」
「……ふん。面白いにゃ。話は嫌いじゃないにゃ」
ブリジットの口の端が、ほんのわずかに持ち上がる。耳は前を向き、尾は落ち着いてまっすぐ。
(この女、嘘をついていないにゃ。匂いが“静か”にゃ)
クレージュは、言葉の波の中で自分の居場所を測り、そして覚悟を置いた。
「オレは、力はまだ足りない。でも——目は貸せる。足も、手も。……守りたいんだ」
フランソワーズが横目で少年を見る。そこに打算はない。愚直さもある。だが、その愚直さは、今の場には必要な種類のものだ。
「軽々しく口にする言葉ではないが——今は、受け取っておく」
そして、ほんの少しだけ声を和らげる。
「二度と、昨日のような“偶然”を許さないために」
五つの影と光が、同じ石畳の上に、初めて重なった。
頭上を雲が一枚流れ、わずかに日差しが薄くなる。
街角からは、相変わらず羊皮紙を叩く音、荷車の軋み、露店の呼び声が届いてくる。世界は何事もなく回っている顔をしている。
——それでも、ここで歯車はひとつ、確かに噛み合った。
「動くなら、順を踏むにゃ」
ブリジットが、石の粉を指で払う。
「まずは印を追う。次に、通行札の出所。樹脂の樽を扱う倉——“百合の倉”の人間を当たるにゃ。姫様に近づく道は、表だけじゃないにゃ」
アルウェンが頷く。
「私は王宮側の記録に当たりましょう。表の帳簿でも、行間に滲む癖は拾える」
フランソワーズは短く整理する。
「私は王宮の警備動線を再調整する。姫様の動きは、私と議定官のみが把握。……少年、君は学者街と市場の“目”だ。今日から、危ない角は避けて歩け。報せはブリジットへ」
「わかった」
リシェルは一同の顔を順に見た。
「ありがとう。皆さんの力を借りるわ。……民のために」
言葉は軽くない。けれど、重さに押しつぶされるのでもない。
リシェルの青い瞳に、昨日より強い光が差した。
回廊の陰から、細い風が抜けた。
五人は、小さく頷き合ってから、それぞれの“持ち場”へ散っていく——。
十二話は、これから続く「仲間たちの物語」の序章でした。
出会ったばかりの彼らが、すぐに理解し合えるはずもなく、互いに距離を測り、探り合いながら少しずつ歩み寄っていきます。
次回十三話では、この出会いがどう揺れ動き、やがてリシェルをめぐる大きな真実へと繋がっていくのかを描いていきます。
いよいよ第一章も後半戦。さらに熱を帯びていく展開をお楽しみに。
――作者より
仲間が揃ったことで、舞台は一気に広がります。
リシェルの秘密、ブリジットの直感、そしてアルウェンの目的……それぞれの真意が少しずつ明かされていきます。
次回以降もお付き合いいただけたら嬉しいです!