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11 献花式

白百合と星灯が並ぶ献花式の朝。

ヴェルサントルの広場は祈りの歌に包まれ、人々の心は静かにひとつへと結ばれていた。

だが、その静寂を裂くかのように、小さな“揺らぎ”が紛れ込む。


偶然か、それとも必然か。

リシェルとフランソワーズ、そしてクレージュは、その違和を確かに胸に刻むこととなる。

 朝の鐘が三度鳴る。

 ヴェルサントルは、いつもより早く目を覚ましていた。城壁の通りには白い布を巻いた柱が並び、屋台の看板には白百合を模した絵が描かれ、子どもたちは紙で折った小さな花を胸にさして走り回る。砂漠の隊商は香辛料の箱に布をかけ、海から来た商人は塩の樽を湿らせ、香りが混ざる。兵士の一群が一定の間隔で巡回し、角ごとに立ち止まって周囲を確認していた。今日が大陸の慰霊の日、献花式であることを、街の隅々までがわかっている。


 《ブラハム堂》も夜明けから忙しかった。

 釜の口に赤い火が見え、焼き立てのパンを並べる台に、ハニーレモンパイの列が増えていく。粉と蜜の甘い匂いが通りににじみ、鈴が鳴るたびに客が入ってくる。


 「塩パンを十、包んでくれ」

 「星のパンを四つ、紙袋で」

 「ありがとう、行ってらっしゃい」


 クレージュは額に汗をつけたまま、手を止めない。会計、袋詰め、釣り銭、また会計。横ではケインが「次の方どうぞ!」と声を張り、列を整えている。

 「クレージュ、釣りの銅貨切れそう!」

 「ニコル、引き出しの右奥に予備がある。ケイン、紙袋多めに折っておいて!」

 「了解!」

 「はいはい、商売繁盛ね。転ばないでよ、二人とも」

 ニコルは胸を張って、入口脇の柱に新しい宣伝札を貼る。『星のパン・朝の粉雪こなゆき──白砂糖ひとつまみ、朝の光を連れてきます』。丸い星の切り抜きから差し込む光が、白い粉をきらりと光らせた。


 フレイは釜から鉄のへらでパンを出し、台へどさっと置いた。

 「クレージュ、広場へ配達、いけるか」

「うん、今の波が引いたら」

 「兵士の列にぶつかるなよ。戻ったら水を飲め。今日は気温が上がる」

 「わかった」


 客足がひと段落したところで、クレージュは背負い籠に注文分を詰め、縄で固定した。

 「いってくる」

 「気をつけて行け」

 フレイの声は短く、それでも温かい。


 通りに出ると、白い布で飾られた街路が、広場へ緩やかに続いていた。出店の並ぶ角を曲がるたび、花の匂いと焼き菓子の匂いが重なり、鼻先をくすぐる。石畳は朝の湿りを残して冷たく、靴裏がしっかりと鳴る。


 広場の手前で、銀の髪が陽を跳ね返した。

 アルウェン──昨日、市で言葉を交わしたエルフの少女が、人混みの端をすり抜けるように歩いている。赤い瞳は真っ直ぐで、時折、屋根や路地の口を確かめるように視線を上げ下げする。儀礼の衣ではない。動きやすい薄衣に外套。目立たず、しかし目にとまる。

 (あの耳……やっぱりきれいだ)

 見とれそうになる自分を叱って、クレージュは歩みを速めた。


 広場の中央には、白布を張った祭壇。両側に花を置く台が段になって並び、背後には星型の飾りが吊り下がっている。屋根の上には弓兵の影。舞台袖には役人と式次第を持つ書記官。兵士の盾が日の光を受けて鈍く光る。

 (緊張してるのが、空気でもわかる)

 クレージュは、配達先の衛兵詰所に籠を降ろし、帳面にサインをもらってから、広場を見渡した。献花の列には、老いも若きも入り混じる。顔を引き締めた者もいれば、笑って似顔絵を描いてもらう旅人もいる。

 (この街が、今日も無事でありますように)


 そのとき、背後から馴染みの声。

 「パン屋、邪魔はするにゃよ」

 振り返れば、灰色の耳と尾。ブリジットだ。黒革の軽鎧、包帯が覗く前腕、いつもの無駄のない足取り。

 「仕事?」

 「見てるだけにゃ。変な音がしたら、動くにゃ」

 「変な音?」

 「木が割れる音、車輪が止まる音、人が息を飲む音にゃ。いつもと違う音は、目で見るより早くわかるにゃ」


 言いながら、ブリジットの耳がピクリと動いた。尾の先が小さく左右に振れる。

 「何か聞こえた?」

 「今のはただのくしゃみ。花粉にゃ」

 さらりと言い、視線を舞台へ戻す。


 鐘が鳴り、ざわめきが波のように引いた。

 白と金の衣をまとったリシェルが、フランソワーズと共に姿を見せる。光を受けた金の髪、空色の瞳。会釈の角度は正しく、歩幅は一定。彼女の呼吸がわずかに整うのが、遠くからでも伝わってくる。


 (リル……? いや、まさか……)

 ほんの数日前にパン屋を訪れ、無邪気にパンを選んでいった少女。その笑顔と、いま威厳をまとって歩く「王女」の姿が、どうしても重ならなかった。

 けれど、周囲の視線も、恭しく跪く人々も、その事実を疑いようのないものにしていた。

 (あの“リル”が……第一王女リシェル……!)

 頭の奥がじんじんと熱を帯び、手の中に汗がにじみ出る。


 その時、ふとリシェルの瞳がこちらをかすめた。

 一瞬だけ。けれど確かに、青空のようなその瞳がクレージュを射抜いた。

 息が止まり、胸がきしむ。彼女の視線がすぐに正面へ戻っても、残像のように焼きついて離れない。


 フランソワーズは一歩斜め後ろ。軍靴の爪先はリシェルの後ろ足と同じ線上にあり、剣の柄にかけた手は力みがない。首筋に汗はない。けれど、瞳の奥だけは硬い。

 (今日は絶対に守る)

 彼女の視線は舞台下、左右の通路、兵の配置、退避の道、そして群衆の陰の陰まで順に走り、戻ってくる。


 アルウェンは反対側の陰に立ち、祭壇の段差と石畳のつなぎ目、屋台の足元、車軸の油の染みを目で拾っていく。

 (印がある。三つ……腰の高さ。ここにも)

 指先で軽くなぞると、黒い粉が少しだけ指についた。すぐに擦り落とす。

 (消せる印。残せる印。誰かが道しるべにしている……)


 祭司の短い祈りが終わり、リシェルが献花の台へ向かう。白百合を抱え、両手で差し出す。

 広場の空気がさらに静まり、誰かが小さな子どもを抱き上げた。


 その瞬間だった。

 広場の端で、台車の車輪が「がつっ」と鈍く止まった。縄の結び目がずれて、積んでいた木箱が斜めに傾く。

 「おい!」

 怒鳴る声。押さえる手。だが遅い。木箱がひとつ、二つ、すべり落ちる。乾いたぶつかり音が石畳に響き、ひとつは割れて板が跳ねた。中から布切れがこぼれ、焦げ臭い匂いが一瞬、風に混ざった。


 「危ない!」

 悲鳴。群衆がざっと左右に割れ、誰かが転ぶ。杖が落ちる音。皿が割れる音。

 前列の男がよろめいて肩がぶつかり、別の女が抱えた花束が宙を舞う。その拍子に、一番外側に落ちた木箱の破片が、偶然を装った角度で転がり、リシェルの立つ段差へ向かって跳ねた。


 フランソワーズが視線の端でそれを捉えた。

 「下がってください、姫様!」

 腕を伸ばし、リシェルの肩を引き寄せ、身体を盾にする。木片は段差の角に当たり、甲高い音を立てて砕けた。飛んだ破片がフランソワーズの脛に当たって弾む。硬い痛み。だが血はにじまない。


 「皆、下がって! 走らない!」

 フランソワーズは低い声で命じ、近くの兵士に手で合図を出した。兵士が素早く列の隙間に入り、盾を斜めに構えて人の流れを作る。

 「怪我人はいますか!」

 祭壇から祭司の声。

 「大丈夫です!」

 兵士が返し、倒れた老人を支え起こす。老人の手から白い花が滑り落ち、石畳を転がった。


 クレージュは人の壁に阻まれながらも前へ出る。肩が押され、足が絡む。胸が熱く、息が上がる。

 (行かなきゃ……!)

 手を伸ばした先で、ブリジットの尾がわずかに動いた。

 「押すなにゃ。倒れるにゃ」

 鋭くも落ち着いた声。その声に、周囲の客が反射的に足を止め、クレージュは息を吸い直せた。

 「助かった」

 「まだ焦る時間じゃないにゃ。目で見ろにゃ」


 アルウェンは崩れた台車の脇に近づき、車輪の止まった位置、落ちた箱の角度、結び目のずれ方を、目で順に確認した。

 「結び目をわざと緩めた跡……板の割れ方を確認し、ぶつかっただけじゃ、こんな剥がれ方はしない」

 赤い瞳が細くなる。

 石畳の端には、また三つ、黒い点。腰の高さ。さっきより薄い。

 (拭かれた後……でも、足跡は完全には消えない)


 兵士たちは落ちた荷を片づけ、台車の持ち主に厳しい口調で確認を始めた。男は蒼い顔で首を振り、「ただの事故だ、縄が……」と繰り返す。

 フランソワーズは二歩下がって、リシェルの前に斜めの位置取りをとり直した。

 「姫様、失礼いたしました。お怪我は」

 「大丈夫よ、フラン。……ありがとう」

 声は震えていない。だが、握った花の茎に、指の跡が白く残っていた。


 式は中断せず、形を変えて続けられることになった。祭司が控えめな声で祈りをやり直し、花を捧げる列は再び動き出す。人々の息は荒いが、次第に落ち着きを取り戻す。


 クレージュはその場を離れ、《ブラハム堂》へ駆け戻った。店の前には「式を見に行く前に何か買っていこう」という客がまた増えている。

 「おかえり、顔が真っ青だぞ」

 フレイが一瞥して言う。

 「広場で荷の事故があった。……でも、たぶん、事故じゃない」

 「そうか」

 フレイは短く返し、言葉を足さない。

 (父さんも、何か感じている)

 クレージュは手を洗い、台に並ぶパンの位置を整え、湯を沸かした。手を動かしていると、さっきの胸の熱が少し下がる。


 ニコルが裏口からひょいと顔を出した。

「広場の列、また動き始めたわ。こっちはお昼の波に入る。クレージュ、焼きのタイミング任せていい?」

 「任せろ」

 ケインが粉まみれの手で胸を張る。

 「オレは袋を折る! 千枚いける!」

 「五百でいい」

 ニコルが即答し、三人が同時に笑った。


 ──王宮。

 控室に戻ったリシェルは、椅子に腰を下ろし、深呼吸を一つ、二つ。胸に残る硬い塊が、少しずつ小さくなっていく。

 「フラン……」

 「はい」

 「今の、偶然ではない、わよね」

 フランソワーズは即答しなかった。沈黙の後、短く頷く。

 「可能性は高いと見ます。ですが、式は続いています。最後まで、私が傍にいます」

 「ありがとう。……私、怖い。でも、立っていられる。あなたがいるから」

 「姫様」

 フランソワーズは片膝をつき、彼女の手をそっと握った。

 (必ず守る。影は私が追う)


 ──学者街の屋根の上。

 アルウェンは瓦の縁に腰を下ろし、広場の一角を見下ろした。動線、兵の交代、人の流れと滞り。

 (印を拭いたのは誰。印をつけたのは誰。どちらも、同じか)

 銀の髪が風に揺れ、赤い瞳が細くなる。彼女の耳には、遠くの板のきしみまでが、はっきり届いていた。


 ──広場の端。

 ブリジットは柱の陰に寄り、耳を伏せ、尾を静かに下ろした。

 「匂いが少し変わったにゃ。油と火薬、でも薄いにゃ。わざと薄くしてるにゃ」

 彼女は自分に言い聞かせるように小さく呟き、足音を一つずつ拾う。走る音、逃げる音、戻る音。いつも通りと違う足の運びは、遠くてもわかる。

 「……見つけるにゃ」


 午後。

 式は予定の半分を過ぎ、群衆の顔にも安堵が広がり始めた。

 《ブラハム堂》では、昼の山がもう一度来て、波のように引いていく。クレージュは湯気の上がるスープを片付け、テーブルを拭き、窓を開けた。

 外の光は少し傾き、白い布の天幕に浅い影を作っている。

 (終わるまで、あと少し)


 そこへ、ブリジットが入ってきた。

 「昼は、終わったにゃ?」

 「今ちょうど。何か飲む?」

 「ミルク、少しにゃ。……それと、伝言にゃ」

 「伝言?」

 「変な箱の台車、三台。うち一台は入れ替わってるにゃ。車輪の傷の位置が違うにゃ。中身は同じじゃないにゃ」

 クレージュの背中に冷たいものが走る。

 「ニコル!」

 呼ぶと、彼女はすぐ奥から出てきた。

 「猫さんが言うなら本当ね。広場に近い路地は避けるわ。店の前は私とケインで見る。クレージュは釜場、任せた」

 「わかった」


 夕刻。

 鐘がまた鳴り、献花式は終わりを告げた。祭壇の周りには白い花が積み上がり、光が弱まり、街のざわめきは静かな余韻に変わっていく。

 リシェルは舞台の裏で小さく息を吐いた。

 「終わった……」

 フランソワーズが頷く。

 「見送りが済んだら、すぐに戻ります。今日はもう、人前に出なくて構いません」

 「ええ」

 (怖かった。けれど、立っていられた。次も、立っていられる)

 自分に言い聞かせるように、ゆっくりまばたきする。指の震えは、もうない。


 広場の端で、アルウェンは最後の一瞥を落とした。

 (今日はここまで……だが、これで終わりではない)

 瓦を蹴って、屋根から静かに降りる。足音はほとんどない。


 《ブラハム堂》。

 夕の客を見送り、戸を引き、札を「仕込み中」に返す。

 「終わったか」

 フレイが肩を鳴らし、椅子に腰を下ろす。

 「うん。……父さん」

 「なんだ」

 「オレ、もっと強くなりたい。今日、何もできなかった。オレはパン屋だけど、それでも誰かを守れるようになりたい」

 フレイは口の端だけで笑った。

 「なら、明日の朝も剣を振れ。立って、歩いて、また立て。それでいい」

 「……ああ」


 外は薄暗く、通りの灯が順に灯る。

 店の前を、黒い外套の影が二つ、三つ、音もなく通り過ぎた。遠くで足音が止まり、しばらくしてまた動き出す。耳を澄ませば、かすかな笑い声のようなものが風に混じる。

 クレージュは窓の鍵を確かめ、裏口の閂を落とした。

 (偶然じゃない。誰かが、動いている)


 王宮の窓辺で、リシェルは空に小さな星を見つけた。

 「……負けない」

 胸の奥で小さく言う。誰にも聞こえなくていい。自分自身に、はっきり届けばいい。

 その背に、フランソワーズが静かに近づき、そっと一歩後ろに立った。何も言わない。言葉は要らなかった。


 学者街の暗がりで、アルウェンは壁の低い位置を手で拭った。三つの点は、もう見えなくなった。

 (消したからと言って、残らないわけじゃない)

 指の腹に残る、ごく薄い油の手触り。彼女は外套の裾でそれを拭い、目を細めた。


 ブリジットは屋根の縁に座り、街を一望した。

 「今日は、これで引くにゃ」

 耳を伏せ、立ち上がる。足音は軽く、尾は真っ直ぐ。

 「でも、明日も、嗅ぐにゃ」


 その夜。

 倉庫街の暗い部屋で、油の染みた布の匂いが広がる。

 「式は終わった」

 「人は忘れる。明日には、今日の焦げた臭いも薄くなる」

 「それでいい。次の手は、別の顔で出す」

 低い声が重なり、すぐに消えた。


 《ブラハム堂》二階の寝室で、クレージュは掌を開いて握り、木剣の感触を思い浮かべる。

 (歩け。止まって、また歩け。守りたいもののために)

 父、ケイン、ニコル。街の人たち。そして、リシェル。

 名前を胸の中で順に置き、その重さを確かめる。

 心臓の鼓動はもう急いていない。息は静かだ。


 星が一つ、二つと増え、ヴェルサントルの夜はようやく深くなる。

 献花式は無事に終わったことになり、街は日常へ戻っていく。

 だが、ほんの小さな棘のような違和感は、確かに残った。

 ──これは、偶然ではない。

 誰も声に出さないまま、その確信だけが、静かに次の朝へ繋がっていった。

献花式は街にとって平穏を祈る行事でありながら、同時に「影」が動き出す契機にもなりました。

表向きには「事故」と処理され、人々はすぐに日常へと戻っていきます。

けれども、リシェルの心に残った不安、フランソワーズの警戒、クレージュの悔恨——それらは確かに物語を次の段階へ導く“種”です。


影はすでに動き、仲間たちの未来を試そうとしています。

次回、第十二話では、その影の正体に少しずつ迫りながら、物語は旅立ちへの道筋を描いていきます。

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