10 献花式前夜
ヴィルサントルの朝は、早い。
城壁の見張り台から鐘が一つ鳴ると、市場の屋台が一斉に幕を上げる。砂漠の隊商は香辛料の木箱を並べ、海沿いの商人は塩樽を台車に積み替える。学者街の角では、巻物を抱えた助手が「通ります!」と声を上げ、書庫へ駆けていく。獣人の革職人は靴底を打ち、ドワーフの鍛冶は朝一番の火加減を確かめる。いろいろな言葉が飛び交うが、揉め事は少ない。中立都市の決まりごとを、みんなが知っているからだ。
《ブラハム堂》の裏手では、粉の匂いがむっと漂っている。
クレージュは袖をまくり、小麦粉と水をあわせた生地を捏ね台に叩きつけた。生地の端が伸び、折り返し、掌の下で空気が押し出される。大きな鉢では、蜂蜜と刻んだレモンの皮を白砂糖でなじませている。焼き上がりに振る“朝の粉雪”の準備だ。
「ケイン、塩はそっちじゃない。右の壺」
「わ、わかった!」
ケインが慌てて壺を持ち替えると、粉がふわっと舞い、くしゃみが一つ飛んだ。
「へぶしっ!」
「おい、手、洗ってこい」
フレイが笑いながら釜戸に薪をくべる。釜の石壁が赤くなり、熱がじわじわ立ち上る。
「父さん、今日、街が少し騒がしい気がする」
「献花式が近い。役人も兵も落ち着かんさ」
フレイは無精髭を指でひとなですると、もう一つの捏ね鉢を指し示した。
「そっちは水、あとひと杓。生地がまだ固い」
「了解」
生地をまとめ、一次発酵の布をかける。
仕込みが区切りのついた頃、表の扉の鈴が鳴った。
「おはよう、クレージュ。新しい宣伝の紙を置いていくわ」
ニコル=マルシャンが、厚紙の束を胸に抱えて入ってきた。栗色の髪をリボンでまとめ、上等な布のワンピース。なのに歩き方は迷いがなく、商人の娘らしい自信がある。
「今回は『星のパン・朝の粉雪』の文言を少し変えたの。『白砂糖ひとつまみ、朝の光を連れてきます』。目に入った瞬間、買いたくなるように」
「いいじゃないか。昼に学者街へ配達に行くから、そのとき貼ってくる」
ツンと言いながら、口元に満足そうな笑み。
「……それと、献花式の前夜は人が出るわ。甘いパンは伸びる。仕込み、少し増やしておきなさい」
「わかった。父さん、粉、もう一袋開ける?」
「ああ、在庫は裏の棚だ」
朝の客が波のように来て去り、店内が一息つく。
クレージュは配達籠にパンを詰め、肩に担いだ。
「気をつけて行け」
フレイが短く言う。
「うん。昼過ぎには戻る」
扉を押し、通りへ出た。献花式の飾りつけが進む中央広場へ近づくほど、布を張る音や木槌の音が多くなる。白い布の天幕、花を挿す台、参列者の椅子。兵士が要所に立ち、動線を確認している。
学者街は賑やかだ。石畳の幅がやや狭くなり、両側に書店と古物商、そして書庫が並ぶ。
角を曲がったとき、陽光を跳ね返す銀色が視界を横切った。長い銀髪、尖った耳。エルフだ。
彼女は巻物を両腕でしっかり抱え、足早に歩いている。赤い瞳がこちらを一瞬、正確に捉えた。
「すまない。通してくれる?」
凛とした声。人ごみでもよく通る。
「あ、どうぞ」
クレージュが体を寄せると、彼女は音も立てずに横を抜けた。数歩先で立ち止まり、振り返る。
「この近くに、公文書庫は二つあるはず。どちらが献花式の記録を多く持っている?」
「古い記録なら、北側の石橋を渡って右の建物。新しい式の手順や名簿は、広場寄りの臨時書庫だと思う」
「ありがとう」
彼女の目が、わずかに和らぐ。
「それと――この街は漂う匂いが多い。人族の食べ物の匂いが重くて、少し目が回る」
「あっと…、す、すまん。……でもパンの匂いは、悪くないぞ」
「うん。悪くない。さっきの角で、いい店の匂いがした」
「《ブラハム堂》かも」
「覚えた」
エルフの少女は、そのまま人混みに消えた。
(耳も瞳も、すげえ……)
ぼうっとしている場合じゃない。クレージュは配達先の書庫へ向かい、注文分を渡して領収書にサインをもらう。石橋を渡ると、緑の長衣の学者が道の真ん中でなにやら議論をしていたので、横を抜けるのに少し手間取った。
書庫の角を回ると、掃除係らしき老人が壁をブラシでこすっていた。
「それ、取れるかい?」
「取れん。誰かが油の指で触ったみたいだ。三つ並んでる。気味が悪い」
灰色がかった黒い点が、腰の高さに三つ、等間隔で並んでいる。
「汚れか……」
クレージュは覚えのある並びに、胸の奥がざわつくのを感じた。だが確かめる材料はない。
籠を持ち替え、もう一件の配達先へ歩き出した。
* * *
王宮では、献花式の衣装合わせが始まっていた。
リシェルは薄いクリーム色のドレスに着替え、鏡の前に立つ。肩のあたりに繊細な刺繍が入り、胸元には小さな光石が一つ縫い込まれている。
「似合っているわ、姫様」
フランソワーズが率直に言う。白の軍服の襟元を正しながら、無駄のない所作で距離を取った。
「ありがとう、フラン。……でも、やっぱり緊張するわね」
「御前でのご挨拶は短い。深呼吸を三回してから階段を降り、台で一礼。それで十分です」
「そうね、わかったわ」
リシェルは鏡の自分に笑いかけ、歩き方を軽く確認した。
控室を出ると、フランソワーズは一度だけ足を止め、廊下の角に視線を落とした。
(この位置……)
城の石壁の下端、拭き跡の中に、うっすらと黒い点が三つ、並んだ跡。昨日、通りかかった時に気づいた。今日は薄くなっている。誰かが拭いたのだ。
「どうかした?」
リシェルが小首をかしげる。
「いえ。廊下が滑らないように確認しただけです」
フランソワーズは笑みを作り、歩調を合わせた。
(偶然、ではない。式の前に、誰かが印を確かめるように残した……)
彼女は胸の内で、調査の段取りを一つ積み上げた。
* * *
昼下がりの《ブラハム堂》は、甘いパンを求める客で穏やかな賑わいだ。
配達から戻ったクレージュは、ひと息つく間もなく、焼きたてのトレイを棚へ移し、テーブルを拭き、湯を沸かす。
扉の鈴が鳴った。灰色の耳。猫族の戦士、ブリジットだ。
「塩パン、一つ。ミルク、少しでいいにゃ」
「はいよ。すぐ出す」
フレイがカウンター越しに顎をしゃくる。
「クレージュ、外で素振りだ。お前さん、見てやってくれ」
「構わないにゃ」
ブリジットは椅子に腰をかけ、パンを二口で平らげると、コップのミルクを一気に飲んだ。尻尾が椅子の背に沿ってまっすぐ寝ている。
店先。
クレージュは木剣を握り、足幅を肩幅に。呼吸を整える。
「一本」
振る。
「目を止めるなにゃ。前だけ見ていると、次の変化に遅れるにゃ」
「はい」
「二本目」
振る。
「右手に力が寄ってるにゃ。握り締めるな。必要な時だけ強く握れにゃ。肩と肘は余裕を残すにゃ」
「……うん」
「三本目」
振る。
「今はそれでいいにゃ。次は歩きながら振れにゃ。歩くのは難しいにゃ。止まって構えるより、歩いて構える方が実戦に近いにゃ」
ブリジットは簡潔に、はっきり言う。難しい比喩は使わない。
「歩幅は、自分が次に出したい一歩の半分にするにゃ。そうすれば、右にも左にも動けるにゃ」
「半分……なるほど」
「それと、踏み込みのたびに息を止める癖があるにゃ。短く吐いて、短く吸えにゃ。止めるな。止めると体が固まるにゃ」
「ありがとう」
「礼は、上手くなってからでいいにゃ」
口調は冷たいが、言葉は具体的で優しい。
ニコルが柱の陰から顔を出す。
「いい感じじゃない。ねぇ、猫さん。うちの店、今夜は混むと思うの。帰り道、少しだけ見回りをお願いできる?」
「報酬は?」
「焼き菓子の詰め合わせと、明日の朝のパン」
「それでいいにゃ」
交渉は一瞬でまとまった。ニコルはにこりと笑い、すぐ帳面にメモする。
* * *
午後、広場の設営は大詰めを迎えていた。
花台が並び、各国の紋章旗が風に揺れる。式次第の札をもつ役人が、舞台袖で立ち位置を確認している。
人の流れの中に、あの銀髪のエルフの少女――アルウェンがいた。頭を下げて人の間を抜け、視線を上へ、下へと走らせている。建物の屋根、二階の窓、路地の入口。
(監視の位置、数、交代の間隔……この街はよく整っている)
彼女は小さくうなずき、紙片に素早く書き留めた。
その時、通りの反対側で、台車の車輪が一瞬、止まった。
重い木箱が、二つ。縄で縛ってある。
押しているのは、帽子を目深にかぶった男たち。立ち止まる位置が、花台の近くに少しずつ寄っている。
アルウェンの赤い瞳が細くなる。
(あの油の染み……さっきも見た。荷の底板、替えていない。目的地は広場の端。中身は――軽くはない)
彼女はわざと視線を切り、通りの雑踏へ溶けた。尾行は好まない。別の角度から、同じものを見る。
広場の外れの小路。
フランソワーズは兵士二名を連れ、巡回のついでに石畳の脇を見た。
雨樋の下、黒い点が三つ、うっすら。もう一度、別の地点。屋台の足元、やはり三つ。
(距離は一定。目印代わり……)
彼女は小さく息を吐き、兵士に低く指示した。
「この印を見つけたら、すぐ布で拭き取りなさい。誰にも気づかせずに」
「はっ」
* * *
日が傾くと、パン屋には「帰りがけに何か持って帰ろう」という客が増える。
「蜂蜜レモンのパイを三つ。子どもが好きでね」
「塩パンを五つ。夜食になるから」
クレージュは次々に会計をこなし、袋詰めをする。
フレイは焼き上がりのタイミングを見計らい、釜からパンを出して台に並べる。
「父さん、明日の朝はさらに早く起きるよ」
「ああ。式が終わるまでは忙しい。体を冷やすなよ」
「うん」
ブリジットは外のベンチで腰を下ろし、通りを眺めていた。
ニコルが来て、店の戸締まりの時間や帰り道のコースを手短に伝える。
「見回りは、店から広場の手前まで。声はかけなくていいわ。変な箱や、変な人の動きを見たら、私かクレージュに知らせて」
「了解にゃ」
「それと、無理はしないで。ひとりで飛び込むのはナシ」
「分かってるにゃ」
* * *
夕闇が降りる。
王宮のバルコニーに出たリシェルは、街の灯りを見下ろした。
花台の白、布の天幕の輪郭、行き交う人の列。
(明日は、落ち着いて。ちゃんとできる)
自分に言い聞かせ、胸の前で両手をそっと握る。
「フラン」
背後から近づく足音に、呼びかける。
「ここから見る街が、好きよ」
「はい。私もです」
フランソワーズの声は落ち着いている。
「心配はいりません。明日は、私が必ずお守りします」
「ええ」
リシェルは横顔でうなずいた。
(それでも……あの日、私を見た誰かの目が、まだどこかにある気がする)
胸の奥で小さな不安が動く。それでも表情は崩さない。第一王女としての顔を、明日は見せなければならない。
* * *
《ブラハム堂》の片付けが終わると、クレージュは店の前を箒で掃いた。
白砂糖の粒が二、三、石畳の隙間に残っている。履き集め、小さなちりとりに入れる。
通りの向こうに、帽子を目深にかぶった男が立っていた。目が合うと、ゆっくり向きを変え、広場の方へ歩いていく。
(……ただの通行人か)
決めつけない。明日は式だ。警戒はしておいて損はない。
「クレージュ」
振り向くと、ブリジットが立っていた。
「見回り、一回目、終わりにゃ。裏通りに、重い箱を運ぶ奴らがいたにゃ。箱の底板に油の染み。車輪が三回、同じ位置で止まってたにゃ」
「ありがとう。ニコルにも伝える」
「それと、君は、明日の朝、剣を振ってから店を開けるにゃ。いつも通りを増やすにゃ。いつも通りの動きが、一番強いにゃ」
「わかった」
「じゃ、二回目、行ってくるにゃ」
灰色の耳が、すっと路地の闇に消えた。
ニコルが出てくる。
「猫さん、頼りになるわね」
「うん。言い方は変わってるけど、教えは分かりやすい」
「明日、無事に終わるといい。……ねぇクレージュ、あなた、もし彼女に会ったら、ちゃんと挨拶するのよ」
「わ、わかってる」
耳が熱くなるのを感じ、クレージュは苦笑した。
* * *
夜気が冷えてきた。
倉庫街の端。板で塞がれた古い窓の向こうで、低い声が交わる。
「人が集まる。視線は広場の中心だ」
「印は?」
「残さない。残すにしても、すぐ消せるものだけだ」
「猫が嗅いでいる」
「嗅がせておけ。匂いは消える」
短いやり取りのあと、足音が二つ、闇に溶けた。
* * *
《ブラハム堂》の二階。
寝支度を済ませ、ランタンの火を落とす。窓を細く開けると、遠くのざわめきが耳に届く。
クレージュは掌を開いて閉じ、木剣の柄の感触を思い出した。
(守りたい。父さん、ケイン、ニコル。この街。それから、リル)
頭の中で名前を順番に置いていくと、胸が少し落ち着く。
そのとき、通りの角を灰色の尾がかすめた気がした。
「……ブリジット、気をつけて」
小さく呟き、目を閉じる。
王宮の寝室では、リシェルが寝台に横たわり、天蓋の布を見つめていた。
「また、会えるかしら」
誰にともなくつぶやく。返事がないことは分かっている。それでも言葉にすると、気持ちが少し楽になる。
学者街の屋根の上、アルウェンは膝を抱え、広場の方角を見ていた。
(明日、何が起きても、見落とさない)
赤い瞳が夜目に慣れ、屋台の影、屋根の段差、見張りの交代の歩数まで数える。
フランソワーズは灯りを落とした執務机の前で、地図の端に小さな点を二つ記し、羊皮紙をたたんだ。
「明日は、私の目で確かめる」
声には出さない。だが、手の中の決意ははっきりしている。
献花式の前夜は、深く、静かに進んでいく。
それぞれの場所で、それぞれの思いが形になり始めていた。
そして、見えない線が、少しずつ一つの場所へ向かって集まりつつあった。




