意訳「おまえを愛することはない」
「わたくしがグレイ・ランズベリーと結婚、ですか? あの無慈悲無感情と有名な宰相筆頭補佐官と?」
「そうだ」
当主である父に肯定されてエマは唖然とした。
「王命に近いから拒否が難しい」
血も涙もない氷の補佐官。
そう呼ばれる彼にはいろいろ逸話がある。
例えば、隣国との領土交渉で、相手国の使節団が強硬な態度で圧をかけてきたが、グレイは淡々と過去五十年の条約書、交易書、地図を提示。相手国が主張する矛盾点を論理的に指摘し、使節団を黙らせた。使節らが激昂した場面もあったがグレイの冷ややかな気迫に圧倒され、最終的には有利な条件で交渉をまとめることに成功。王国はこの話し合いで領土を拡大したものの、本人はこの快挙へ特に感慨を見せず、また個人的に友好を結ぼうとした使節を冷たくあしらったとかなんとか。
父がハアと大きく息を吐いた。
「政治的思惑が大きいのだ。あの男は次期宰相と期待されている。伝統派、改革派のどちらかに取り込まれる前に日和見の我が家に白羽の矢を立てたのだと思う」
「まあ……」
父は日和見というが世間では中立の筆頭貴族と言っていいだろう。エマの家は臣籍降下した王族から興った公爵家だ。歴史は浅いが血筋はいい。特にどこかと縁を結ばずとも地位も名誉も資産もあるし、個性豊かな兄や姉を見ていたこともあって、エマはわりと自由にゆるゆると過ごしていたのだけれど。
「彼は国境伯の三男。そしておまえとの結婚で一代限りではあるが侯爵位を授けると。宰相たるもの上っ面でも爵位が必要だしな。後ろ盾としても我が家がちょうどよかったのだろう」
王命とは言え、水面下では王家とのやりとりが多少あったらしい。王家の要望を聞き入れるのだからそれなりに公爵家へ利があるべきだ。
「まさかここにきておまえに無理な結婚をさせることになるとは思わなかった。すまないエマ」
「貴族の娘ですもの、ある程度は覚悟しておりました。必要とされるならどこへでも行きますわ」
なんて言ってみたけれど、本音のところは結婚なんて寝耳に水で、断れるのならそうしたかった。だって相手は六つ年上の冷血漢だ。幸せな結婚生活がまったく想像できない。
婚約を結ぶときに初めてグレイと顔を合わせた。どこかのパーティーで遠くから見かけたことはあったけれど、実際目の当たりにすると迫力がすごい。銀色の髪と冷たい水底を思わせるような青い瞳。エマを前にしてもにこりともしないその表情は顔形が整っているだけにひどく冷たく感じる。無慈悲で無感情。氷の男。冷血漢。そんなふうに呼ばれていることへ妙に納得してしまった。
「……よろしく頼む」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
ふたり向かい合って小さく頭を下げた。
婚約中の会話はこれだけだったような気がする。というのもグレイもエマも忙しくして中々会うことが叶わなかったからだ。そして三ヶ月という短い婚約期間はほぼ結婚式の準備期間。決まったからには無駄に長引かせないということだろう。合理的というか、なんというか。てんやわんやと慌ただしく準備をするうちにあっという間に式目前となった。
結婚宣誓を行ったのは王都でいちばん大きな聖堂だった。
誓いのキスは唇ではなく頬。それも一瞬触れるかどうかのささやかなもので、グレイがこの結婚に対し何を考えているのか分かったような気がした。
互いの関係者や元凶の国王夫妻を招いての盛大な披露宴は口数少なく、新居へ向かうちょっとしたパレードも無言で、無表情。
(……わたくし冷遇されないわよね?)
望まぬ結婚だったと屋敷ぐるみで冷たくされたら国王を呪おう。新聞社に駆け込んで暴露本を出そう。エマはそう思った。
そうしてついにやってきた夫婦の床入り時間。
緊張と不安、朝からの疲れもあってベッドに腰掛けるエマは顔色が悪い。そんなエマに遅れて現れた夫は言い放った。
「きみと床を共にするつもりはない」
グレイはエマを冷たく見下ろす。結婚に浮かれた気配は一切なく、ただただ感情のない青い瞳がエマに向けられていた。冷酷無慈悲。鬼。悪魔。冷血漢。人でなし。そんな言葉たちが頭を過ぎる。
「我々の間には信用も信頼もない。そんな者へ無防備な姿をさらすことほど怖いものはない」
「……」
エマは言葉が出なかった。
確かにエマたちは恋愛で結ばれた結婚ではないし、むしろ王命の政略だし、互いに信用信頼があるかと問われれば否だ。それを面と向かって言ってくる目の前の男が理解できず、エマは一生懸命に考えた。
ぐるぐるぐるぐる。
床を共にするつもりはないってことは初夜を拒否されたということであり、引いてはエマに女性としての魅力を感じてないということであり……?
疲労困憊の頭で出した答えは。
「……それはつまり、わたくしを妻として愛することはないということですか?」
しばしの間見つめあい、グレイは「ちがう」とだけ言い、寝室を出て行った。
去り際に一輪の花と、謎の用紙をエマへ渡して。
◇
おなまえ
グレイ・ランズベリー
ねんれい
24歳
おたんじょうび
星霜の月、16日
(……これは)
エマは渡された用紙を眺め、そして虚無の表情となった。その小さな用紙には名前や年齢などが質問項目として並んでいる。見た目がえらくファンシーで可愛らしく、これは貴族の幼い女児たちの間で流行っているプロフィールの交換用紙に見えた。
他にも住所や家族構成、身長や体重など洗練された字でいろいろ書いてある。ファンシーな紙に。成人男性の字でしっかりと。
これによるとグレイには両親と祖父、兄が二人とその家族がいて、さらに自身には妻がいるらしい。
(あ、妻はわたくしね)
尊敬する人は兄や宰相などたくさん書き連ねてあるが、親友の欄は空白。好きな人も空白。自慢の使用人という欄にはエリクの名前があった。おそらくこの屋敷にいる若き家令のことだろう。
なぜか用紙はもう一枚あった。
質問事項は一緒だが、解答部分はすべて空白。
まるで書かれるのを待っているかのような白さに、エマの口元がひくりと動く。
(……ま、まさか、わたくしが書くの?)
いやそんなまさかと思っても辿り着く答えは結局それで、正気か狂気かよく分からない夫の残したものをまじまじと見つめた。
いったい夫は何を考えているのか。
そこでふと先ほどグレイが言っていたことを思い出した。
『我々の間には信用も信頼もない。そんな者へ無防備な姿をさらすことほど怖いものはない』
正直なところ、夫とは言えほとんど知らない男と床入りするのは怖かった。もしかしてグレイは気を遣ってくれたのかもしれないと、ものすごく肯定的に考えてみた。
用紙と一緒に添えられた白い花は瑞々しく可愛らしい。妻として迎えられている気は、かすかにする。
(……今からお互いのことを知ろうってこと?)
二枚のプロフィール紙を見ながら、エマはしばらく考え込んだ。
翌朝、おそるおそる朝食の席へ顔をだすと、夫のグレイはすでにテーブルに着いていた。少しだけ目を伏せて新聞を読むその姿は中々の美青年ぶりだ。
「おはようございます」
「……おはよう。ちゃんと眠れたか」
「そう、ですね」
あなたの意味不明な言動を考えていたらいつのまにか眠っていました。なんてことは言えるわけもなく、エマはにこりと笑ってみた。当然だが向こうはノーリアクションでほほ笑みが返って来るなんてことはない。
そんな無慈悲な夫が、エマへ何やら渡してきた。
「これは……?」
「鍵付きの交換日記帳と私とおそろいの文房具だ」
見れば可愛らしい革張りのノートと、謎に宝石飾りが付いているキラキラの万年筆。
(だから! そのチョイスはなに!)
「私のはこれだ」と彼が胸ポケットから出して見せたのは、同じくキラキラした万年筆。エマのものとは少し色合いが違うようだ。
「今後は朝食の席で交換しようと思うのだが」
「まさかとは思うのですが一応聞かせてください、なにをです?」
「もちろん交換日記だ」
「んぐうう……」
大まじめな顔をしてそんなことを言うんじゃない!とエマは心の中で盛大なツッコミをいれた。どうしてエマよりも年上で冷静沈着が服を着ているような次期宰相様がこんなことになっているのか。乱心か。この結婚に思う所があって心を乱してしまったのか。
「心配ない。この日記帳の鍵はふたつしかない。私ときみで持つので誰かに内容を見られることはないぞ」
銀髪青眼の涼やかな美青年が「ほら」とオモチャのような鍵を見せてくれた。女児向けだから鍵の作りは簡単だ。それはいい。そんなものだと思っている。問題はそのチープでファンシーな鍵を他の超重要鍵類と一緒に束ねていることだ。完全に浮いている。それでいいのか次期宰相。
(人前で日記を堂々と交換することにも何か思ってほしい。ほらご覧なさい、使用人たちの呆れ……どうしてみんなニコニコ嬉しそうな顔してるのよ!)
というか皆なにかを期待している眼差しをエマに向けている。こう、ぜひ手にとって見てくださいっていう無言の期待を多方面から感じる。
エマは空気の読める淑女だ。仕方なく日記帳を手にとり、鍵を開けて中身をぱらりぱらりと開いてみた。装丁も中身もけっこう凝っていて、淡い色あいや時おり挟まれるイラストはかつて女児であったエマの心にも響くような……
「かわいい」
思わず漏れてしまった本音にしまったと口を手で押さえる。
エリクとグレイが互いを見合って静かにうなずきあったのが見えた。無表情だが。まさか夫に入れ知恵したのはエリクおまえかと容疑者をにらむが、なんだか怒る気にもなれないので現実逃避のために窓の外を見た。
今日はいい天気らしい。
ぴちぴちと小鳥の鳴き声が聞こえてくる。
「朝食の前に紅茶などお飲みになりますか」
「……お願いするわ。茶葉はおまかせで」
「かしこまりました」
そうしてほっとひと息つけば。
案外、穏やかな朝だった。
◇
あれからも寝室は共にせずグレイと夫婦関係はなかったが、ふたりの距離は少しずつ縮まっていた。おそらく。たぶん。
グレイは王城へ通うため帰りの時間はまちまち。しかし朝食は必ずエマととってくれた。それに交換日記が意外とばかにできず、グレイが日々考えていることやエマを気遣っていることが伝わって来て、蔑ろにされているとは全く感じなかった。
そんな交換日記も十往復をいくつか超えた頃。
「旦那さま。これはいったい何なんですの」
「夫婦の姿絵だが?」
またもや朝食の席で渡されたのは封筒ほどの大きさの絵。エマとグレイがふたり寄り添う絵だ。心当たりがないこともない。先日画家がエマの元を訪れにきてスケッチをいくつかしていったのだ。てっきり肖像画だと思っていた。
「どうして同じ絵姿がいくつもあるのですか」
「仲のよいもの同士で分かち合うためだ。私ときみで半分にしよう」
夫婦ふたりの絵はひとつひとつがとても小さい。その小さな肖像画がいくつも並んでいた。ご丁寧に表情やポーズに違いがある。違いがあるのはエマだけでグレイの表情やポーズはどれも同じだけれど。
(画家に無理言って満面笑みの旦那さまを描かせようかしら)
エマが遠くに意識を飛ばしている間にグレイはいそいそとハサミで切りだし、半分をエマに手渡した。
「絵の裏側に糊を着ければあちこちに貼れるぞ」
ほら、とその場に持ってきていた交換日記の裏表紙にふたりの姿絵をぺたりと貼った。
「王都の若者たちはこうやって仲を深めるのだと聞いた」
ええ、若者というか女児同士です。
ただ正直なところこのプティポートレイトクラシック、通称プリクラと呼ばれる独特な姿絵遊びには興味があった。けれど、エマがやるには大人過ぎていて手が出せず。
「ありがとうございます。……ちょっと、うれしいです」
「そうか」
こんな時でもグレイは無表情だった。
しかし雰囲気が柔らかいことには気づいていた。
後に聞いたところ、このグレイの謎行動は若き家令エリクの妹(十二歳)が『王都の若くおしゃれな女性と仲良くなるための最新アイテム』として調べてきたものを実践した結果らしい。いわく、グレイもエリクも国境で生まれ育ったため、王都で育ったハイカラで高貴な女性とどのように距離を縮めていいか分からなかったと。
結婚して一ヶ月、夫婦で出席した初めての夜会。休憩しようと促されて来たテラスでエマは思い切って聞いてみた。
「旦那さまはわたくしと仲を深めたいのですか?」
「そうだ」
聞いたのはエマであるが、至極真面目に、しかも面と向かって断言されると気恥ずかしい。エマはたまらず視線を逸らして頬を染めた。
「きみはおかしなことを聞くのだな」
「なんでしょう今すごく悔しい気分です」
せっかく顔を出してきた乙女心を。ぐぬぬと内心うめく。悔しいので頬が熱いまま顔を上げると、グレイがまっすぐにエマを見ていた。
「私たちはもう夫婦だ。しかしお互いのことを全く知らない。知らないものは怖いだろう。少しずつでも理解を深め、信用と信頼を重ねていきたい」
「……旦那さま」
「グレイと呼んでもらって構わない。夫婦は対等だ。そして私は私の元へ来てくれたきみを大事にしたい」
水底のような深く青い瞳がエマを射抜く。
じわじわと体温が上がっていき、エマはどう言葉を返していいかわからなかった。照れが言葉を混ぜかえし、口から出てきたのは冗談めいていて。
「つ、つまりあなたはすでにわたくしを深く愛している?」
「さすがにそこまでは」
「そこはそうだって言ってくださいませ!」
もう、とグレイに寄って彼の胸をぽこぽこ叩く。乙女に恥をかかせた罰だ。すると頭上からふっと小さく笑うような息遣いが聞えた。まさかと思い顔をあげた結果、今までにない距離で見つめ合うことになった。
「きみは楽しい人だな」
「……あなたはヘンテコな人ですわ」
グレイの表情が少し。ほんの少しだけ緩んだ。
夜会から帰り屋敷へ着くと、「少し飲まないか」と誘われた。なぜか場所が客間で、夫婦だというのに我々は健全ですよアピールのために部屋の扉は開いている。さらには隣に座ることもなく互いにテーブルを挟んでソファーへ腰を下ろしていた。
「……夜会できみは私のことをヘンテコと言ったが、それはどういう意味か聞いてもいいだろうか。つまり自惚れた解釈で恐縮だがきみは私のことをつまらない男だと思っているわけではない、と?」
からん。グラスの中で氷が揺れる。
エマも少しだけウイスキーを頂き、ちびりと舐めるように口をつけた。家令エリクから聞いた話なのだが、グレイはわりと若い頃から周囲に「つまらない男」と言われ、結構気にしているのだとか。
「ええ、こんなにユニークな方だとは思いませんでしたわ。ご自分をつまらないと思ってらっしゃるのなら大間違いですわよ」
つんと返事をしてやれば、グレイは無表情ながらもぱちぱちと目を瞬いた。それから下を向いてしまい、ひざ上でもじもじと指を遊ばせはじめる。
「そのように言ってくれたのは宰相のガランド様以来だ」
(これはもしかして……照れてらっしゃる?)
なんとも言えない空気がふたりの間に流れる。エマはこほんとひとつ咳払いをして、適当に話題を振った。
「そ、そういえば旦那さまは尊敬する相手に宰相を上げていらしたわね。すごい方だとわたくしも思いますが、なにかきっかけのようなものがありましたの? あなたが次期宰相と呼ばれてらっしゃるのも何か理由があるのかしら」
「……そうだな。まだ新人の頃、『何を考えているか分からない。腹の探りようがない。おまえは最高の逸材だ』と過分な評価を頂いた。その期待に応えるべく動いていたら、このようになっていた」
「まあ」
それからグレイとしばし語らいあった。
彼とこんなにたくさん話したのは初めてのことだ。意外と楽しくて、もう少し話したかったけれど、それぞれの側仕えが呼びに来たのでお開きとなった。
それからしばらくしておなじみとなった朝食の席でグレイが言った。
「きみへ渡した私のプロフィール紙を貸してくれないか。書き加えたいことがある」
なんとプロフィールは随時更新されていくらしい。
「わかりましたわ。でもどうしましょう。後でわたくしの部屋にいらっしゃいますか?」
グレイのプロフィール紙は私的な手紙と同じくらい個人的なものだと思うので側仕えに取りに行かせるのも憚られる。そう思っての提案だったが、グレイはしばらく考えるようにしてこくりと頷いた。
「では、今日城から帰って来たらきみの部屋へ伺ってもいいだろうか」
「ええ、構いませんわ」
「ありがとう。何か手土産を用意しておく」
「……」
(なんですのその初めて家にお呼ばれしました感)
夫婦なのに。
一緒に住んでいるのに。
その後はエマも妙に意識してしまって、グレイが登城したあとは側仕えやメイドと一緒に部屋に飾る花を考えたり、あれこれドレスを選んだりと乙女らしいことをしてしまった。
(べ、べつに楽しみとか、そういうんじゃないわ)
ただちょっと夫が夜に部屋を訪ねてくると分かっているから落ち着かないだけだ。エマとグレイは夫婦であるが、顔を合わせて会話をするのは食事の時くらい。それ以外に一緒に過ごすことはなく、だからあの夜会の日に誘われた客間でのことは珍しかった。
だからまたグレイといろいろ話せるかもしれない事にソワソワしているのなら、それは予定されたイレギュラーに対する心理的防衛反応だと小難しい言葉で濁してみた。
「遅くなってすまない」
「まだ夕方にもなっていませんわ」
「夜になってはまずいからな。これはきみに」
そう言って渡してくれたのは白が基調の可愛いらしい花束と、焼き菓子の詰め合わせ。こうやって彼から直接何かをもらったのは初めてで、さほど高価ではないはずなのに嬉しく思ってしまうのが不思議だ。
グレイの帰宅を知らされた時はちょうど選んだドレスに着替えていたところだった。だからなのか、夫が花束片手にエマの部屋を訪ねてきたのが妙といえば妙。こういうものは屋敷の玄関ホールなどで受け取るか側仕えを通して渡されるものなのではと思わなくもない。
花束を受け取るといい匂いがした。
「ありがとうございます。嬉しいです」
にこりと笑って素直に感謝の言葉を伝える。
相変わらずグレイは無表情だが、こくりと小さく頷いてくれた。
「さあ、中へどうぞ」
「お招き感謝する」
(まったく、ご自分のお屋敷ですのに。けれど無遠慮に入ってこられる方よりよっぽど紳士ね)
プロフィール紙を渡すだけではあるのだが、一応もてなす準備はしてある。ソファーへ促すと側仕えにお茶の用意をするようお願いした。もらった焼き菓子を一緒に出すよう言付けて。
待っている間に例のプロフィール紙をグレイへ渡す。実はエマのプロフィール紙はまだ渡せていなくて、この際一緒に渡そうとかと思ったがそれも気恥ずかしくやめてしまった。
「どうぞ」
「ありがとう」
(書き加えたいものってなにかしら)
グレイは胸ポケットからエマとお揃いのキラキラ万年筆を取り出し、迷いなくペン先を動かした。気になってその様子を覗いていると。
好きな人を問うの欄へ、『エマ』と。
「ぐっ……」
叫び出したいのを必死に耐えた。
一気に心拍数が上がって、顔に熱が集まっていくのがわかった。
(す、好きな人に、わたくしの名前、ああもうっ)
当のグレイは涼しげにエマを見つめている。
何か言ってほしいがこのまま黙っていてほしい気持ちもある。しんとした空間にエマの心臓の音だけがうるさく響いているような気がした。
「私はきみのプロフィール紙を待っている。急かしはしないが、もし忘れているのならと思って言ってみた」
(今それを言うんですの!?)
「……も、申し訳ありません、渡す機会をずっと逃していて」
「ならばこの場でもらっていいだろうか」
「ええ。少し待っていてください」
これ幸いにと続き部屋に逃げこんで、エマは大きく息を吐いた。
こうなったらヤケだ。
グレイに一矢報いてやるまでエマは引き下がれない。
すでに書き終わっていたプロフィール紙に、エマもひとつだけ書き込む。使ったのはグレイとお揃いのペンだがその時は無意識だった。
(ふふ、これを見てどう思うかしら)
気になる人の欄に「グレイ」と書いてやった。好きな人じゃない。まだ気になるくらいだ。そんな精一杯の強がりを込めて、エマのプロフィール紙をグレイに渡した。
(ここでまじまじと読むんじゃありません!!)
グレイが真剣に冷静にじっくり目を通すこの時間はいったい何の拷問か。お茶を持ってきた側仕えも去っていき、部屋にはふたりきり。待っている間にエマの顔がどんどん赤くなっていって、いい加減に敵前逃亡をはかろうかとしたその時。
「エマ」
グレイがエマを見て静かに口を開いた。
初めて名前を呼ばれた瞬間でもあった。
「我々はもう次の段階へ進めると思う」
「つ、つぎの、段階……?」
「ああ」
相変わらず無表情。けれどグレイはいつになく神妙な雰囲気で。しかも今日はテーブルを挟んでではなく同じソファーに隣り合って座っていたのでいつになく距離が近いのだ。余計にドキドキしてしまう。
(まさか、ついに夫婦としての第一歩を……ということは初夜? まさか初夜なの?)
そう意識してしまったらまた心臓がばくばくと大きく動き出した。すでに全身は真っ赤。そんなエマの手をグレイが上からそっと包んだ。
「ふたりで出かけよう。デートだ」
「ぬあああ……っ」
乙女の緊張を返しなさいよ!!
声にならない叫びが心の内で暴れまわる。思わずエマは目の前にいるグレイの服の裾を思いきり握りしめた。まだ赤く火照る顔は見せられないから下を向いて。服をぐいぐい引っ張ってこの憤りを発散する。
「待ち合わせは外で、日暮れまでには帰るから」
少しだけ困ったようなグレイの声音。
もしかしたらエマがデートの誘いを不服としての抗議だと思っているのかもしれない。いや遠からずだけども。じゃあ初夜りたいのかと言われたらそれはまた別問題なので、エマは何も言えずに裾をぐいぐい引っ張り続ける。そのせいか気づけばグレイがすぐそばにいた。腕を回せば抱擁になりそうなほどふたりの距離は近い。
「不安ならお義父上にも連絡を入れよう」なんて言われたらもう降参するしかない。夫婦ふたりででかけるのに何を父親へ連絡することがあるのだろう。本当にこの夫は変だ。
「……自然公園でピクニックがいい」
「わかった。ありがとう」
「公園で食べるランチはグレイが用意して」
「そうしよう。好みはあるか」
「サンドイッチが好き」
「好きな具はスモークサーモンか?」
「そう」
「プロフィールに書いてあったな」
わざと口調を雑にしてワガママも言って、呼び方だって生意気にグレイと呼んでみた。いつもいつもエマが振り回されるのだ。少しはグレイも困ればいい。
これで少しは反撃になっただろうかと夫をチラとうかがうと。
(なんか……過去いち嬉しそう)
なんだか気が抜けてしまった。握りしめていたグレイの服をぐっと引き寄せて、そのまま硬い胸に頭を預ける。自分じゃない匂い。ウッディ系の香水がちょっとだけ憎らしい。
無言のグレイが焦ったように腕を上げ下げしているのがおかしくて、エマはようやく気がおさまった。
エマが好きな人の欄にグレイの名を書くのはまだもう少し先の話。
ふたりの夫婦生活は始まったばかりである。