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19話 朝靄の境界

海翔はイヲティスと食堂で食事を取った後、なんとなく帰宅する気になれず、そのままWOLLの当直室に泊まることにした。

ベッドに体を沈めてみても、天井を見つめたまま眠れなかった。


明け方近くになり、ふと屋上へ出てみる。

濡れたような空気が肌に触れ、遠くでカモメの声が鳴いていた。

街はまだ目覚めておらず、時間だけが静かに進んでいく。


「胸騒ぎ、ってやつか」


なんの根拠もない。ただの勘だ。

でも、こんな感覚が当たったことは、過去にも何度かある。


空の向こう、海の気配の奥。

何かが、こちらに向かって動き出している。そんな気がしてならなかった。



その頃、遥か離れた海辺の街――境港。

まだ誰も目を覚まさない時間、静まり返った工業地帯に、ひっそりと三つの影が降り立っていた。

その風を浴びながら、シェルアノスは低く呟いた。


「また、こんなところに来ることになるとはな」


彼の声には、吐き捨てるような苦味が滲んでいた。

つい先日一度地上へ来たばかり。無機質な建物と雑多な音、空気の乾き──すべてが肌に合わない。


「地上ってのは……やっぱり落ち着かないな」


「シェルアノス、文句ばっか言ってても始まらないでしょ」

ペルセナが淡々と返す。その声に張り詰めた緊張感が宿っていた。


「目的はイヲティス。彼を……このままにしておくわけにはいかない」


「だよな」

カヴリノスが珍しく真面目な表情で、ぽつりと続けた。

「初めて地上に来たときは……なんつーか、はしゃいでたけどさ。今は……ちょっと、違う」



「少し変わったな、お前も」

「ここの空気はどこか息苦しい。だが……イヲティスは、そんな場所で何を見たんだろうな」

シェルアノスが、振り返らずに言った。



港の奥、巨大なコンテナが立ち並ぶ工業地帯。

彼らはその一角にある、長らく放置された鉄骨造りの廃工場に足を踏み入れた。朽ちた扉をカヴリノスが押し開け、金属の軋む音が静寂に響く。


中は埃だらけで、鉄骨にはツタが絡まり、割れたガラス窓から差し込む光が床の油染みに反射していた。


「ここを拠点にする。人間からも目立たない、見晴らしも悪くない」

シェルアノスが手早く内部を確認しながら言う。


「ちょうどいい。ここなら人間にも見つかりにくい。」

ペルセナが静かに頷いた。


「けど、今後この街を三人でうろつくのは目立つよな。人間って、ちょっとの違和感でもすぐに騒ぎ出すらしいし。」

カヴリノスが、廃工場の天井を見上げながら言った。


「そうだな…」

シェルアノスが腕を組んで考える。


「手分けして動こう。私が西を回る。お前たちは東側を探れ」


「了解。俺とペルセナで東だな」

カヴリノスが頷き、続けてペルセナの方を振り返る。


「なあペルセナ……お前、怖くねぇのか? もしイヲティスが……本当に、変わっちまってたら」


ペルセナはしばし目を伏せた。だが、すぐに強い意志を宿したまなざしで答える。


「怖くないと言ったら嘘になる。でも……それでも、確かめたい。イヲティスがどんな想いで“人間側”に立ってるのか」


その言葉には、幼いころから共に過ごしてきた仲間を信じたいという、強い願いがこもっていた。


「イヲティスは、わたしたちと同じ“海”で育った。だからこそ、見捨てるわけにはいかないの」


「そっか。ペルセナのそういうとこ、やっぱ頼りになるよな」

カヴリノスが微笑むと、ペルセナは少しだけ視線を逸らした。


「おしゃべりはそこまでだ。時間を無駄にするな」

シェルアノスが無造作に背を向け、廃工場の鉄扉を押し開ける。


「何があっても、イヲティスを“敵”にはさせない……そう信じてる」

ペルセナがぽつりと呟いたその言葉は、誰に向けたものでもなく、ただ風の中へと消えていった。


朝の光が廃工場の壁に差し込み、三人の影を長く伸ばしていく。

それぞれの想いを胸に、彼らは別々の道へと歩み始めた。


シェルアノスは西の埠頭沿いを単独で進んでいた。

錆びついたフェンス、濡れたアスファルト、潮気を帯びた風。

歩くたび、足がぬかるんだ地面に沈み、嫌な音を立てる。


「地上の空気は……やっぱり馴染まない…」


ぼやいた声が、夜明け前の静けさに溶けていく。


そのとき、不意に背後から湿った足音が響いた。

振り返ると、コンテナの陰からのそのそと現れたのは──


歪んだ肉体。むき出しの背骨のように盛り上がった背面、肌はどこか湿った質感を帯び、ところどころに光を反射するような膜が浮かんでいる。

顔と思しき部分には横に大きく裂けたような口があり、そこから静かに、湿った吐息が漏れていた。



それは、かつてイヲティスが倒したはずの怪人だった。

だが、以前よりも明らかに変質し、どこか禍々しさを増していた。


「なに? 貴様、生きていたのか……!」


警戒する間もなく、怪人が突進してくる。

シェルアノスは即座に構え、受け止めるが──


「っ、ぐ……!」


突進の重みに身体が押し戻され、脚がコンクリートにめり込む。

予想以上のパワーに、一瞬、動きが鈍る。


そこへ、冷ややかな声が空気を割った。


「やめておけ。ここで騒げば、人間に見つかってしまうだろう?」


怪人の背後に、いつの間にか男が立っていた。

薄汚れたロングコートを羽織り、頭はフードで隠し口元はマスクで覆っていた。



「貴様……何者だ。」


シェルアノスが睨むと、男は軽く片手を上げて応じた。


「私の名前など今はどうでもいい。

一緒に連れてきたこいつの名は《寄生生命体サキス》。サキスと呼んでくれ。

君が探している“対象”の居場所──おおよその見当はついている。こいつに案内させよう。」




男は口の端をわずかに歪めながら、ゆっくりと手を広げた。


「不完全な状態のこいつを、お前は以前見ているようだな。だが安心しろ。いまのこいつは、強化されている。“青いの”にも止められはしないだろう」


 “青いの” イヲティスのことだと、すぐに察した

 シェルアノスはわずかに目を細め、目の前の異形の怪人とその背後の男を見据える。


「イヲティスのことを、ずいぶん把握してるな……」

 低く呟くと、シェルアノスは一歩前へ出た。

「今は、ここで無駄に争ってる場合じゃない。何か裏があるのは分かってる。だが、あえて踏み込んでやる」と言葉には出さずに心の中で考えた。


 その瞳には、戦士としての警戒と、戦略家としての冷徹な判断が混じっていた。



「好きに使ってくれてかまわない。

どうせ私の興味は、別のところにある。」

男はそう言うと、コートの袖をわずかに押し上げた。


風にめくれたその隙間から覗いたのは、人間とも異なり、まるでエイビスの民に良く似た異形の手。

まるで海底で進化をやめた、未定義の生物のような不気味さがあった。


「私は君たちの“近縁”とでも思っておいてくれ。

詳しい話は……またいずれ」


「それでは、“コレ”をどう扱うかは、君の判断に任せよう」


男はそう言い残し、海風と朝もやの中に溶けるように姿を消した。

残されたサキスは、呼吸のように身体をうごめかせながら、無言でシェルアノスのほうへ顔を向けていた。


しばしの沈黙のあと、シェルアノスは舌打ちし、肩をすくめる。


「気味の悪いヤツだ。  まぁ……仕方ない、今回ばかしは情報も少ない。案内してもらおう。」


その声には、静かな闘志と、ほんの少しの警戒が滲んでいた。


無言のサキスは、その問いに応えることなく、ただ音もなく前に進み目的の場所まで案内する。


しばらく歩いた先、朽ちた歩道橋の下でシェルアノスは立ち止まった。 西の空が、うっすらと明るくなり始めている。街の輪郭が、灰色の霧の中から浮かび上がるようだった。


その遥か先── 山陰の都市、松江。人類側の拠点、WOLL本部。


「行くぞ」


低く、一言だけを残して、彼は歩き出す。


その背には、深海に生きる者としての矜持と、 仲間をエイビスの反逆者にするわけにはいかないという、確かな覚悟があった。


歪な怪人サキスを引き連れ、シェルアノスは静かに、だが確実に、WOLLへと向かっていく。


夜は終わり、朝が始まる。 しかしその夜明けが、果たして希望か、あるいは破滅か──


それを知る者は、まだ誰もいない。

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