表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

声を失くした金糸雀

「命の重さが分からない」


そう,なんでもない声音で言い放った彼女は普通の学生だった。そんな言葉で括るのもおこがましいほどに品行方正で生真面目で手のかからない,いわゆる努力家の優等生だった。ルールをルールであるというだけで従える従順さを持っている,誰に聞いたとしても 僻み込みだとしても異論などは出てこないくらいの,例えば いい子ちゃんと呼ばれるような優等生。教員から先輩から可愛がられ,後輩から尊敬されるような規範となる人物。


だからこそ異様なその発言は,されどいつもと同じ割と真剣で冗談など欠片もない声音で伝えられ一瞬にして場の空気を凍らせた。どこか控えめで困ったようなけれど鋭い微笑を浮かべる彼女は,自身の放った言葉が批判されることなどは理解していて,それでも尚,譲れない何かがあるかのように微笑んだ。それは優雅な笑み。


その時 初めて彼女の顔を見た気がした。どこまでもまっすぐで曇りない,清らかで澄み切った瞳。凛とした姿勢は決して何にも寄りかさったりはしない。自然体で強烈な飾り気のない佇まいと存在感。彼女はまつろわぬもの。本質をいとも簡単にさらけ出して,見抜いてしまう鋭利な感性の持ち主だった。剥き出しの本音だけで生きていた。



「…………なんで?」


勇敢にも誰かがそう尋ねた。そう,きっとそれはこの場の誰もが持つ感想。一般的に,普通であれば,思わない 思ってはいけないタブーのようなそれを,倫理を道徳を踏み越えてまで疑問に思うことを。まして口に出してしまうことに。常識を踏みしだいたその言葉に,誰も一様に絶句した。


だって習った。教わった。それが正しいのだと。そこに疑問を持つことなど許されていない。それが人の道なのだと。人が人らしく生きるために踏み外してはならないものなのだと。それが全てだった。そしてそれ以上に。


―――命の尊さを説く人がそれを言うのか? その言葉を吐いた彼女に誰もがそう思ったのだ。


けれど彼女はただ首を傾げた。

まるで囀る小鳥のように。可愛らしく。



「命がもし重いのなら人間なんて生きていられるはずがない。己が一番可愛い。そう思うのは間違いらしいから」


だって,そこ(命の重さ)に差はないのでしょう?そう言って,もう一度笑みを形作った彼女は少しだけ悲しそうな顔をしていたように思う。大多数の意見をうまく呑み込めない彼女自身を責めるような痛ましい表情。


人間の命だけが重いのならそれはずいぶん身勝手な理論ね。そう共同体意識を語る彼女の笑顔には,嘲笑すら浮かんでいたように見えた。彼女の考え方はきっと世間的に言えば異端。もしくは過ぎた極論。けれどまた当然の真理でもあった。人間は結局どこまでも利己的な生き物だから。彼女は正しくはあった。残酷なほど極端に。まるでテミス(法廷の女神像)のように



(ああ,この子はきっとこれから先,何度でもこうやって自分の価値観の違いを突きつけられるんだ)


―――なんて不器用な生き方なのだろう。



思うにこの子は命の重さが分からずとも,ここにいる誰よりも命というものに向き合おうとしている。なんとなく感覚として理解するそれを,しっかりと己のものとして捉えようと必死になっている。前に習えで意味を知れないから,世間でいう当然をそんなものと切り捨てた癖して当たり前のことのように享受している僕たちとは違って,それを理解するために一生懸命なのだ。


だから,口に出してしまったのだろう。研がれたような鋭く純粋な言葉を。



誰も 大切に尊いとそう言い募るその口で,ペットが欲しいと生き物を不当に拘束することを肯定する。殺してはいけないと殺虫剤を売りさばく。自殺は駄目だと人を押しとどめながら他人を殺すことを許す。大切なものを守れと言いながら他人を傷つけることを止めることはない。矛盾した行動は日常茶飯事のように起こって,それでも常識や道徳といった型に押し込んでしまう。それが当たり前だと誰もが疑わず刷り込み刷り込まれてゆくこの世の中。それが奇妙だと彼女はただ首を傾げる。



「いったい何を基準に重さは決まるの? 何を指標にあなたは裁くの?」


わからないの。だから,私にも教えてよ。そう言って笑う特有の雰囲気を纏う彼女に,僕は 僕らはただ息を呑んだ。何も言えなかった。僕たちにしてみれば至極当然のことでも,彼女にとっては違うのだという事実に愕然としたことを覚えている。


……それは,確かに


――命の重さを知らない者の言葉だった。

けれど同時に,それは命の尊さを知る者の言葉で

今思えば,まっすぐなその瞳はただこちらを見つめていた気がした。



無垢で純粋すぎるから。子供のままに理性を身に着け,現実を見つめてしまえるから。大人になるとは朱に染まって流されてゆくこと。けれど彼女は,大人の世界に疑問を抱きながらその生きにくい世界を暮らすことが出来た。計れるはずのないものを天秤にかける意義も,判断の結果を確かめる術も持たぬまま。それでもなお真っ直ぐに。その心のまま。自分を貫ける。ただ,そういう風に出来てしまったというだけの話。


彼女が僕らと違う存在だということを知らしめたのは,紛れもなく同じ学校に通う学生という事実のせい。この子はきっとここで受け入れられない。人は,とくに思春期であればなおのこと異分子を認められない。自分たちの醜さを照らすから。自分たちが綺麗なものではなくなってしまうかもしれないから。自分たちが間違っていないと信じたがる。だから排除しようとする。排除しようとしてしまう。それは本能に似た衝動。自然の摂理にも似た道理。――だからこそ。



「ごめんなさい。あなたを,否定したいわけではないの。ただ,聞かせて?」


だからこそ。 彼女の言葉は,あまりにも容赦なく鋭かった。

そのあまりに澄んだ瞳は,正論という名の刃を躊躇なく突き立てる。剣を向け向けられることによって生まれる軋轢を,誰より理解しながら。己の心の在り方を知ろうと試みる ただそれだけの理由で振るうには,それは 出し惜しみのないありったけの本音は余りにも酷な武器。覆しようのない事実 彼女は正しい。けれど,その言葉は常に批判の的となる。




彼女は幸福な生徒だった。例えば幸せの種を蒔き芽吹かせ,花の空の雨の美しさを文字や歌に変えることが出来るような,そんな心の豊かさを宿した 穢れを知らない箱入りのお姫様。現実を知ってはいても,けれどやはり理解は出来ない少女。愛も願いも彼女は望むほとんどを手に入れることが出来たから,だから余計醜い世界は直視し受け入れるには無垢すぎた。


”人生楽しまなくては損でしょう”と何の含みすらもなく,ただ素朴に信じることを選び取ってしまうくらいには,彼女は善良だった。人の悪意が生み出す陰惨とした世界にそぐわないまっさらで透明な,汚れのない純白。


傷も膿も瘢痕もケロイドも火傷も針の筵も切りつけられた痛みも,彼女は知らない。知る由もない。見たことはある その肌に受けたこともあるであろうけれど,それでも,それはあくまで客観。流れるそれに痛みを伴わぬ者にとってそれはただの皮膚の損傷に過ぎない。血が流れれば死ぬけれど,それが致死量でなければ死に至ることはないように。彼女は人の負の感情の渦中にいてさえ,その汚濁に塗れてはいなかった。



夢にも似た叶えることを前提とした綺麗事を掲げるような子であった。中身のない机上の空論ではなく,現実の延長線としての目標を掲げられる子だった。努力することを苦とせずに願いを現実に変える力があった。だからこそ彼女は,凛とした視線を下げず 理想とする美しいものしか受け付けなかった。中途半端を逃げを,見えているのに視線を背けることを許さなかった。だから だから――


彼女は傷つきながらその傷を悟らせずただただ日々を過ごす。消費することはなく一歩一歩確かに自分の足で歩き,まだ見ぬどこかを目指すように地を踏みしめる。己がどれだけ歩いているのかを自覚しないまま,それでも歩むのをやめず進み続ける。いつか己が辿り着く場所を知らずに,けれど確かな信念を持って。悪意も善意も関係なしに,その言葉の凶器で人を己を刺す。




「ねえ,どうして私はこんな風に育ってしまったのかしら」


それは彼女が何度も口にしてきた疑問だった。答えを求めるような すべてを拒絶するような矛盾を孕んだ質問であった。彼女は自分自身の在り方をずっと自問し続けていて,そしてそれに明確な答えを見つけられずにいる彷徨いの迷い子だった。己がどこまでも周りと違っているのだと痛いほど理解していたから。渦巻く感情を持て余しながら, 消化不良の笑みを零す。


気まぐれに,ふらりと現れてはそんな言葉を吐いて去っていく。それはいつもタイミングを見計らったように周りに誰もいない静寂が包む空間の中。変わらないまっすぐな瞳は,誰かに助けを求めるようにも見えたし,自分こそが救いであると信じているようにも見えた。けれど,結局その真意を知ることは誰にもできなかったけれど。




「どうして同じであることを是とできないのかしら」


また ふらりと顔を見せた彼女はそう囁く。同じであれたならきっと楽なのに。そうは思いませんこと? 目配せは哀の色をしていた。沈みかけた橙 夕暮れの中 諦めたように笑みを湛えるその姿はひどく痛々しくて。けれど,その言葉は 決して後悔ではなかった。彼女は己の決めた道を否定などしない。彼女は惑わない。迷っても立ち止まらない。足を止めたりなんかしない。後ろを振り向かない。



それは,強さであった。それは,覚悟であった。それは,信念であった。


窮屈な世界 自由に羽ばたけるだけの羽と力強さを備えたまま,鳥籠の中 空を俯瞰し眺めることだけを選ぶようなそれでもなお自由であろうと足掻く愚かさを肯定してしまうような。そんな強かさが,彼女を形作る。



難儀な性質であろう。気高く美しく清廉潔白にあろうとする姿。それを支えるのは,酷く醜悪で汚濁に満ちた感情なのだから。純粋なまでに汚れのない心が抱える矛盾は,時に残酷なまでの歪みを生む。彼女はそれにすら口づけを交わし,美しい物語に変えてしまえるのだけれど。だからこそ余計傷つく。赤く,どこまでも赤く 静かに血を流す。



「知りたいだけなのに ね」


聡い少女だった。


大人の醜さも狡さもすべて理解していた。答えなんか与えられないと熟知していた。それでも,ひとりで抱え込むにはあまりにも重すぎたから。だから彼女はここに足を向ける。己の秘密の片鱗をそっと明け渡す。それは信頼なのではない。いや,もしかしたらそう呼べたのかもしれないが 彼女は特に僕を信用してはいなかった。それはただの偶然であった。それは微かな期待であった。ささやかで小さな願いであった。



「許されないの」


いつでも笑みを浮かべる子だった。


理不尽から目を逸らせないのに,それを受け入れる柔らかさを持ち合わせていた。少女らしい希望と夢を 理想を抱えたまま,澱んだ現実を矛盾を呑み込んでいた。矛盾を矛盾のまま受け入れて,けれどそれを正しいとは言わなかった。どこまでも穢れのない利発な,大人よりよほど大人びた賢明な子ども。いつだって彼女は笑みを忘れない。


けれど,どこまでも輝きを放つ彼女の瞳の奥には いつだって仄暗い影が巣食うていた。諦念と絶望 それから明るくはない希望。それらを抱えながらも,彼女はそれを綺麗な光へと変えてしまう。その清らかな心は軋んでいるというのに,その雑音すらもメロディーに紡いでしまう。行儀良く歪んでゆくその様はとんだ皮肉な物語。


真実という劇薬を 分解できない毒を湛えるからこそ,誰よりも大人に近い子供は 微笑を浮かべる。それは甘く芳醇な華。けれど,その実は腐り果てた果実。どちらにしても,纏う香は人を酔わせる。心に波紋を広げる。




ずっと,その笑みを見ていた。

ずっと,その声を聴いていた。

ずっと,その瞳を眺めていた。


誰とも分かり合えない。そんな息苦しさすら暴かせずに,ただ無邪気で好奇心に満ちた瞳であの子は問う。己に世間に自然にすべてに。問いを重ねる。向き合うことだけが理解する術だと信じて。ひたすらに真摯に傷つくことを厭わずに。揺らぐ心を愛おしむ。



普通ならば気づかずに見過ごしてしまうことにいちいち疑問を持ち続けてしまったら, その限界は彼女が思うよりずっと傍にあるのだと察してしまった。だって彼女はまだ守られるべき立場。冷たい視線に晒され続けるには,しなやかさが欠けている。



―――いつか壊れてしまいそうだと思った。


とめどない白濁した感情モラトリアムの真っただ中 確立しているかのように見えるそれは,いくばくかの虚勢。繊細で硬質で 透明な氷細工。



―――いつか砕け散ってしまいそうだと感じた。


徐々に溶け出していくより潔く粉々になることを,そのままの笑顔で最後の一歩を踏み出すことを望む気高き華。さすれば地に帰り芽吹く種となるだろう と。それが定めだと語る笑み。



―――だから。

―――だから。僕は。金糸雀を殺した。



「君は,とても美しいな。綺麗で汚れない,穢れない白百合のようでとても素晴らしい。……けれど,僕には少し眩しい。蝋の翼が溶けぬよう目を逸らすしかないほどに,水の清きに魚は棲めないよ」


頭を垂れた白き花を手折るのは容易かった。

ああ,愛おしい子。声もなく哭かないで。そんな言葉は飲み込んだ。


彼女に教えたのは,生きる術 繕う方法 仮面の纏い方。

与えたのは呪いにも似た祝福。目を見てはいけないと。

目を合わせれば,己を 誰もを食い尽くすから と。



「……人魚もイカロスもバベルの塔も 嫌いではないの。けれど,そう 私は人間ね」


その言葉が 今も忘れられない。


目を伏せた彼女は,まるで童話の中のお姫様のような子だった。美しく,純粋で,優しく,強く,凛と気高く,けれどどこか脆くて。穢れを知らない けれど 穢れた世界を知りすぎてしまっている 泪も枯れた可哀想な女王様。


無慈悲な物の積み重なりで成り立つ世界 上下四方へと広がる無際限な荒廃。無重力の中散らばるは塵芥。聡明な君に捧げるは,滲んだ福音。



「水と緑の惑星が僕らの世界だよ」


それが僕の答え。口元を伝ったそれは,きっと彼女が戯れに望んだ救いではない。うまく生き抜くための大人の手法。それを伝えることだけが,限られた時間の中で彼女に渡せる精一杯の優しさだった。たとえ澱んだ空気であろうとも酸素を与えることしか 僕にできることはそれくらいしかなかったのだ。それが最低限の最大限の,義務だと言い訳を重ねた。


独善的な自己満足。その真意をまごうことなく理解したあの子の確信的な体裁の笑みを見て,僕はひどく安堵した。ああ これでいい。この選択は間違っていない。そんな風に言い聞かせながら自分のエゴイズムに蓋をした。誘導したその道がどれだけ灰に塗れようとも,踏み外すよりは幾ばくかマシだと狭間を揺らぐ君に薄汚れたリアルを騙った。君が求める答えなんて最初からどこにもなかったのだと 敢えて告げるように。残酷で非常な仕打ちを甘受なさいと。



自惚れではなく純然たる事実。あの子供に寄り添えたのは僕(大人)だけだった。彼女の生きようとした世界はこちら側(現実),夢の世界(こどもの国)はとうに飛び出して自由で,そして孤独だった。現実に染まるには透明すぎて,夢の国に居座るには純粋すぎた。だからその国境に橋を架ける役目を担える人物を頼った。



あの子が欲しかったのは,大人からの温情。

あの子が知りたかったのは,世界の仕組み。


それだけだった。それは随分と慎ましやかな願いだったけれど……


この閉ざされた世界,ピーターパンを許さないネバーランドで 不思議の国は樹の下で消え果てる。なら無邪気な少女は兎を追いかけて,その先へ駆け抜けてどこへ行くのか。辿りついた境界と鏡面に囲まれて, 真実と真実に溢れかえる嘘だけはない箱庭 回転木馬が回る。



「地球は青いというのに……」


偽りの慈しみに返ってきたのはそんな恨み言。地に落ち消えたその先を問うのは無粋。こどもでいることは許してくださらないのね。そう囁くことすら呑み込んでしまえる彼女は,その時ばかりは笑みを 表情すらも潜めていた。沈黙が静寂が二人を包む。カチリ 長針が小さな音が響かせる。その瞬間には,目の前の君は鏡のような笑みを浮かべていた。祈りで目覚めたマリアのように。何も映さなくなった瞳はそれでもまだ澄んでいるようにも見えた。


純粋で無垢な少女の理想は叶わない。けれど,せめて……ああ,でもやはり。願わくば もう少しだけでも長く。そんな思いがなかったかと言えば嘘になる。けれど,現実を飲み込んでしまえば楽になれると。大人になれば 穢れを知れば もっと賢く生きられる。そう教えてしまった。赤い赤い毒の果実を唆したは,他でもない自分。


――そうして,あの子は 彼女になった。



その日を境にして,彼女はこの部屋に来なくなった。まるであの頃の日々など始めからなかったかのように

必要最低限の係わり以外,視線が絡むことすらなかった。鋭いまっすぐな視線は潜められ誰にも向けられることはないまま。正しさだけで形作られた刃は耳触りの良い言葉を紡ぎ,真実の縁を滑る音は痛みも感動も輝きもすべてを削いでしまう。穏やかで優しい平和な時を空間を,毒にも薬にもなりはしない穏やかな日常を。ただただ無難にやり過ごすだけの日々。清廉潔白な優等生は,いつしか優秀でされど平凡な生徒へと変貌を遂げた。なり下がった。



夕焼けが世界を染め上げる放課後 図書室の窓辺 茜色の空を背に佇む彼女は酷く寂しげだった。彼女は何にも頼らない。彼女は何をも求めない。


それは上手く生きるための術。それは誰かと分かり合うための術。それは己を偽るための術。そして,それは己を消し去るための術。声を失くした金糸雀は,もう二度と僕らの前で美しい声を響かせることはない。囀らなければ視線を奪わないでしょう と,かつてのあの子は笑うだろう。それはやはり,ある意味では正解だった。




――けれど。

――嗚呼,そうか。


彼女の手は,本当は誰も選んでなどいない。彼女の瞳は,誰も見つめることはない。彼女の言葉は,誰にも響くことはない。その心は,誰にも伝わらない。その心は,誰に傾くこともない。その身体は,誰のものでもない。彼女の世界には色がない。その感情は,どこへも辿りつけない。


喜びも悲しみも怒りも驚きも楽しさも慈しみも苦しみも憎しみも虚しさも,何もかもが無意味だと言うようにプログラムを組まれた機械人形のような振る舞い。それを教えてしまったのは,僕だ。




「ありがとうございました。先生」


別れの日に,あの日以来決して向けることのなかったまっすぐな瞳を逸らすこともなくそれだけを言った。聡明で優秀な学生だった彼女は,教えるままに知識を作法を そのすべてを吸収し自らのものにして,そうしてなんの危うげもなく広い世間へと飛び立っていった。不自由の象徴である枷は外さぬまま。酷く身軽に。


あれからも笑みを,以前までの気丈なそれではなく 一部の隙もない曖昧な笑みを纏い続けた彼女は,されど以前よりはずっと自由になった。不自由の中の自由を享受する術を身に着けたから。異端であることを誤魔化すだけの器用さと余裕を手に入れたから。あれかしと求められる偶像を見事になぞった。なぞりきってみせた。



僕のアドバイスは 戒めは決して,根本的な解決にはならない。だってこの子は今なお,あの痛いほどの純粋さや清らかさを失ってはいないのだから。そう視線が物語る。茨の道を素足で歩きながらも,その血潮を見せずに笑みを浮かべて見せるだけの強靭な精神力と演技力を手にしただけ。継ぎ接ぎのその倫理を人に悟られない様に論理武装で覆い,理解されない無垢の色をグレーで包んで隠しただけ。



「ねぇ,先生 上手にできたでしょう 」


己の星に従い続ける少女は,最後にもう一度ピュアな笑みを見せた。己が真ん中に映る集合写真を彼女は一体どんな気持ちで見ていたのだろうか。それを僕は知らないし,きっと知ることは許されないのだろう。誰に望まれるものかも知らず世間に求められた優等生を演じる満足気に見える仮面を纏う彼女は,あの日の幼い少女よりも遥かに残酷で非情だった。


あの子の言葉を借りれば,それは当然の帰結。必要なら従うまでだと物分かりよく割り切れるくらいに,彼女は 全てに無関心だった。きっと あの子は何もかもを知っていた。何事に対しても興味を持てなかった。だから,彼女は夢のような現実ではなく 現実という夢を見つめていた。どこまでできるのかを試していた。そうして その果てに辿り着いたのが あの笑顔。彼女は名もなき女優となれど,それでも舞台に立ち続ける。役柄が愛されればそれでいいから と本心で語る。たとえそれが虚構であっても,観客に望まれた役を演じてみせる。


彼女の行く末にはここの誰もが関わらない。軽々と県外に飛び出していった彼女は二度とこの学園に戻ってくることはなく,連絡を取る手段さえない。動かなくなるであろう連絡ツールから徐々にフェードアウトする彼女を止めることはできない。カーテンコールが終われば役を外す彼女は全てを切り捨てて,そうしてまた独りになる。



「お幸せに」


霧雨の繭の中蹲る幼い彼女は,深紅の果実の毒に蝕まれ それでも確かに救われたのだろう。月の様に優雅に ただ頑なに同じ面だけを晒し続ける,かつて滲ませた陰鬱さはなりを潜めた。柔らかく優しくどこか冷たい光を纏わせながら,それでいて芯の強さを感じさせる微笑。誰も孤月の歪みに気づくことはない。


それはどこまでも愚かな足掻きだった。それはどこまでも残酷な仕打ちだった。けれど彼女は,それを救いだと盲信する道を惑うことなく選んだ。痛みすらも飲み干せば,あとに残るのは甘い蜜 と。矛盾を孕んだ虚構の紡ぐ現実 それは紛れもない祝福だった。



行き場をなくした想いは身を蝕む毒となれど,演技に深淵に飲まれることはない。見つめ返すその底すらも見えない瞳は,何にも囚われずただ前を向く。その羽ですべてを置き去りに,孤独を友として空高く翔けていく。彼女が残していったのは, 無垢な少女の笑顔と,その手に握られたナイフ。



”鏡よ鏡”


相手の望みを映し出す鏡は,真実を暴くことをやめた。目を凝らさなければわからないほど僅かに曇り始めたそれに,人は気付かないふりをする。幻想を映すそれは,嘘を呑み込み隠し通すことを選んだ。けれど,やはりその本質は透き通る水晶なのだから。彼女は今でも事実を見つめ続けている。ただ,それだけのこと。



金糸雀の声は涙で塞がれていただけ。

彼女は今もまだ空を見上げている。

ただそれだけの,本当に他愛のない話。


大きな翼を背中に広げて,彼女は空を飛ぶ。鳥籠の中で 自分の心に素直な少女は今日も空を見上げ高く飛ぶ術を学んでいる。



それは なんてことのない ありきたりな話。

金糸雀の風切り羽根は大切に仕舞い込まれていただけ。


想像力という翼を携えたこどもは,どんなに引き留めようとグレーに染め上げようといつか必ず飛び立つのだ。そこに大人の手が介する余地は微塵もない。夢も希望も抱え込んだまま,透明な風を切り 何処か遠くへ飛んでいく。僕たちが想像することすらできないような遥か彼方まで。


正しさを自分の思いを貫くのは酷く残酷で危ういことなのだと思ってしまう。本当は疑問なんかも田津に生きていくのが楽なのに。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ