第3話
はじまりは まる。
あなたも わたしも。
いのち なげるな
ぼーるを なげよ
ばちっ
頬に衝撃が走った。
続いて
ぺたっ
何か柔らかいものが頬に触れる。
ばちっ
ぺたっ
ばちっ
ぺたっ ……
「……?」
蟻牧は目を開けた。
「あ……起きた?」
右手を振りかぶった女と目が合った。
20代前半くらい。セミロングの茶髪が綺麗で、瞳の大きな美人である。
「いやあ、めちゃめちゃおもクソ心配したのよ?」
めちゃめちゃおもクソ棒読みだった。
「キミ、寝つき良すぎ。何やっても起きなさそうだから、つい往復ビンタの練習してたら熱中しちゃって。往路はそこそこ火力出せるようになったけど、復路はまだまだね。上達するまで、あと少し寝ててくれる?」
そういえば両頬がひりひりと痛む。
というか何だこいつ。他人の部屋に勝手に上がり込んで……暴行?
可愛いからって何でも許されると思うな。
一瞬、襲ってやろうかとも考えたが、幸か不幸か蟻牧にそんな度胸は無かった。
「あああ!」
しつこく往復ビンタを試みる女の手を振り払うに留める。
「そういえば」
蟻牧は駐車場で倒れたはず……が、気付けばまた自室に戻っていた。
ふと視界を埋め尽くす赤い飛沫を思い出し、テンションが急降下する。
うえっ、酷い悪夢だ。
女が何か思いついたというように頷く。
「あー、大変だったんだよ?ファミイレ前からここまで運ぶの。肩凝ったわー。キミ、見た目より結構重いね?」
「!」
そうか……あれは、現実?
蟻牧は女の腕を見た。この細い腕のどこに成人男性を担ぐような力があるのだろう……。
「大体、規定破って外出して、自業自得だからね?挙句私の援護が無ければキミ、今頃さくっと死んでたし。世話焼けるわー、まったく。」
さくっと。女のスナック菓子並みに軽い言葉にぞくっと背筋が冷える。
「……あの、蜘蛛のおっさんは、アンタが」
「蜘蛛じゃなくて、マダニね。マダニ型旧ミライ人。」
「……」
「あー、もしかして、気にしてる?殺っちゃったの。ヘーキヘーキ。正当防衛だし。」
殺っちゃった。そうか。蟻牧は妙に冷静に考えた。実感が湧かない。確かに、突っかかってきたのは向こうだから正当防衛か。なら逮捕されることはなさそうか…?そう思うと少しだけ気が楽になった。しかし、心中穏やかとは言えない。
「……その、マダニ型ナントカってやつ、何なんだ?あと、アンタは……。」
「旧ミライ人。人類の未来のなり損ない。失敗作。」
「ざっくり言うと、敵。」
「は……?」
女は微笑んだ。ひどく魅力的な笑みだった。
「私はキミの同僚であり、予備パーツ。」
「そうね……。ゲームでよくある、『残機』とでも名乗っておこうかな。」
「で、どういう状況だこれ?」
蟻牧は謎の女……自称『残機』と共に、高架下の公園に居た。
手には安物の鍋つかみとカラーボール。
グラブとボールの代わり……らしい。
「どういうって、見りゃわかるでしょ。訓練よ。」
「何の」
「変化球」
「はぁ?」
「投げたくないの?お化けフォーク。」
『残機』は心底不思議そうに、蟻牧を見た。
「別に……?」
「いや、それよりも」
彼女に訊きたいことは山ほどあった。
旧ミライ人とは。
予備パーツとは。
敵、とは。
「はぁー、男なら投げたいもんでしょフツー。魔球ってやつをさ。」
「私は、投げたい!」
カラーボールが飛んできた。意外に良いコントロールで、しゃがんだ蟻牧のグラブならぬ鍋つかみを直撃。しかし蟻牧は上の空で受け損ねた。ボールは転々と転がっていく。
「もー、ちゃきっとしてよ!」
『残機』が檄を飛ばす。
「あ、悪ィ」
蟻牧は反射的に謝り、ボールを拾いに行く。
「で、敵って何だよ!」
蟻牧は闇雲にピンクのボールを放った。飛距離全然。『残機』の前にぽとりと落ちる。
「ショボっ」『残機』が小さく呟きボールを拾う。
「万年体育2の実力、舐めんなよ!」蟻牧の遠吠えが響く。
『残機』はぐっと伸びをするように両腕を上げ、胸の前に下ろす。右腕を大きく振り、投げた。
「戦えってこと!」
ストライク。が、蟻牧は取れず。鍋つかみに当たり、手前に落ちたボールをもたもたと投げ返す。
「何でだよ!」
即座に、ピンクの軌跡が鍋つかみへ刺さる。
「じゃなきゃ死ぬから!」
蟻牧は少したじろぎ、返球が遅れる。
「誰が!」声が裏返った。
「キミも私も!」
『残機』は踊るように軽やかに、ボールを投げる。
「戦えって、あのダニのおっさんみたいのとか……?」
ボールは『残機』のかなり手前に落ちた。
「そそ、似たようなの沢山出てくるから、全部殺っちゃって!」
ボールが蟻牧の手元へ返る。
「殺っちゃ……?」
人間じゃないのか?それは……いくら正当防衛と言われても、人を殺すということになるのでは。何故、そんなにも軽く。いや、それよりも。
腕が肉にめり込む生々しいイメージ。否、実感。故意ではないとはいえ、あの時自分は、確かに人の肉を抉った。止めは『残機』が撃ったものの、致命傷を与えたのは間違いなく自分だった。殺した。人を。
握ったボールが柔らかく歪み、血が噴き出すような妄想を見る。
蟻牧は慌て、投げ捨てるようにボールを放る。
大きく逸れた軌道。
「あーあ」
『残機』が呆れたようにボールを見る。
「Dead or Alive ってやつ?殺さなきゃ、こっちが殺られるんだよ?」
『残機』が軽く、ボールを放る。
蟻牧にはもう、投げ返す気はなかった。
ただただ転がるボールを、目線で追うことすらしない。
「キャッチャー失格」
仕方なくボールを拾いに行く『残機』。
ぷにっ
呆然と蹲る蟻牧の額に、ボールが触れた。
「呉越同舟。少なくとも、死ぬまでは。私はキミの味方だから。」
「そう簡単には死なせない。だから、共に戦ってほしい。生き物であるために。」
蟻牧は、『残機』を見た。彼女は微かに震えていた。
夕暮れ空の帰り道。
黙って歩く蟻牧と『残機』。ぎこちない雰囲気に、手に持つカラーボールの袋と鍋つかみが不釣り合いな感じだ。
いつものファミイレ前を通る。浜ヶ咲西花町店。
眠そうな店員の声が聞こえた。
「ありがとーございましたー。」
その声に、蟻牧は僅かな違和感を覚えた。何故かは分からない。
『残機』の肩がぴくり、と動いた。
「補充、されたみたいね」呟く。
「補充?」
蟻牧が訊ねる。
「替えが届いたのよ。」
『残機』は素っ気なく答えた。
「この世界、誰にでも替わりがいるってこと。」