第1話
この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。
いっぴき にひき たくさん
みらい かがやき たくさん
たくさんいると たのしいね
もっと ふえると たのしいね
もっと もっと もっと たくさん
いきもの だから
いきもの だから
遠くから、音が聞こえた。ジリジリと脳に響くそれは次第に近付き、やがて、耳元で爆発した。
「が……はぁっ!」
けたたましいアラームの叫びに、心臓が跳ねた。
ぼやけた視界の中、手探りで時計を見つけてアラームを切る。
12:30
昼である。
昼夜逆転しがちな生活だが、健康のため、せめてこのくらいの時間には起きるべきだろうと、蟻牧は何となく、この時間にいつもアラームを設定している。しかし、かえってそのせいでいくらか寿命が縮んでいるような気もするので皮肉なものである。
「ぐぅ……」
まだ眠いが、二度寝するには覚めている。
仕方なく、蟻牧は枕もとのスマホを取ろうとして、
違和感に気付いた。
「何だこれ……?」
右手の甲に浮かぶ黄緑色の斑点。それはみるみるうちに増殖し、手を、腕を、黄緑で覆いつくす。
「うわっ」
蟻牧は慌てて目を瞑る。
数秒後、恐る恐る目を開ける。が、そこには普段と変わらぬ不格好な右手があるだけだった。
気のせいか。寝ぼけて何かと見間違えたのかもしれない。
そういえば、今日はやけに頭が重い。花粉症か、気圧のせいか。
加えて睡眠時間は足りているはずなのに、妙に眠い。悪酔いした時のように、脳がじんと痺れている。どくどくという鼓動にあわせ、脳が警告音を発する。ジリジリジリジリ……
昨日の晩、酒でも飲んだっけ?
蟻牧は記憶を探った。
昨日は確か……大学時代の先輩、藤上に呼び出された。いいバイトがあるからと……。ただ一カ月、自由に過ごすだけで300万円だとか。怪しいような気もしたが、ちょうどクビになったばかりで無職だし、背に腹は代えられない。藤上には義理もあるし、ちょっと覗いてみてヤバそうなら逃げればいい。そう思い、説明会に参加したのだった。
小ぢんまりとしたビルの、意外に広い会議室。蟻牧と藤上のほかに十人ほど。20代~30代前半くらいの男女が集まり、落ち着かないそぶりを見せていた。服装や体型などバラバラだが、何となく根暗そうな、幸薄そうな雰囲気だけは共通しており、妙な親近感が湧いたことだけは覚えている。そこで、何やらお偉方らしき人に難しい説明をされたようだが、ほとんど記憶にない。
少子化
労働力の不足
新時代の多産多死社会を実現
『異次元のミライ計画』
何のこっちゃ。
「君たちこそが、輝かしいミライとなるのです」
わけもわからぬまま、ただ周囲につられて拍手。拍手。
それから……
それから……?
その先は覚えていない。
気付けば家にいて、昼だった。それだけだ。
不意に寒気がした。
まさか、記憶喪失か?
いやいや、そんなはずは。
蟻牧はスマホを取り、何ともなしにSNSを開く。
微かな違和感を振り払うように。
痛ましい事件、チーズ牛丼は美味い、犬猫の動画、芸能人の結婚報告、ねむい、新作ゲームの宣伝、イラスト、論文、残業しんどい、震度2、株価低迷、貧困、差別、乳がでかい方が好みです etc、etc……
今朝のニュースから知人の近況、見知らぬ人の愚痴やペット自慢まで。いつもと変わらぬ混沌とした情報の洪水に指を任せるように、ただただ画面をスクロールする。何もかもが、騒がしく巨大な「日常」に飲み込まれ、混乱した感情が次第に冷えてゆく。
と、ふと蟻牧の指が止まった。
「おー、ジラフズ勝ったか。」
昨夜のプロ野球の試合結果。
「グリーンジラフズ、宿敵ジェットラビッツ相手に15-0で完勝!」
「大河2打席連続ホームラン!村中9回完封!ジラフズ絶好調!最高や!このまま波に乗って優勝たのむで!!」
「あれ?」
またもや違和感。
「昨日、月曜だったよな……?」
月曜は普通、プロ野球の試合は無かったはずだ。
「日曜は……」
日曜の試合結果かとも思ったが、すぐに違うと気付いた。
その日のグリーンジラフズは悲惨なサヨナラ負けを喫していた。中継は観ていないが、ジラフズファンのフォロワー数名が嘆いていたのを覚えている。
「!」
ニュースサイトへのリンクを開き、飛び込んできた数字に蟻牧は目を疑った。
「4月27日(木)の試合結果」
それじゃ、そんな……
今日の日付を確認する。
4/28(金)
「…………」
火曜日以降の記憶がない。ということは、月曜、何とかして部屋に帰った後、丸三日以上寝ていたということか……?
確かに、体質だったり徹夜続きだったりで24時間以上寝てしまうという人は稀にいる。しかし、蟻牧は徹夜したわけでもなければ、そういった体質でもなかった。それに、いくら何でも三日は長すぎる。
「はぁ……」
蟻牧はスマホの電源を切り、ベッドに突っ伏した。
わけがわからない。自分は突然脳の病気にでもかかったのだろうか。どこか病院で診てもらうべきか。……こういう場合は脳神経外科か?
しかし、頭の重さと眠気以外には特に異常ないようである。その二つも、丸三日寝ていたと考えれば納得がいく。
「あ」
腹が減った。三日も食べていないのなら当然だろう。
取りあえず、近所のファミイレにパンでも買いに行こう。カロリーと糖分を摂取すれば少しは脳が冴えて、何か思いつくかもしれない。
蟻牧は上着を引っ掛けて外に出た。
4月下旬にしては肌寒くぼんやりと曇った風景の中、コンビニの明かりだけが浮き上がって見える。ファミリーイレブン浜ヶ咲西花町店。蟻牧にとってほぼ生命線といえる場所である。
「隙間時間にサクッと!24時間しっかりがっつり!あなたらしく輝こう!人材派遣ならプロリファレイトで検索!」
店内放送がうるさい。
なるべく高カロリーなパンとジュース、スナック菓子を適当に見繕い、会計を済ませる。
「ありーたやーしたー。」
眠そうな店員の声を背後に、蟻牧は店を去った。
昨今の値上げのせいか、安いものを選んだつもりが気付くと結構な額になってしまった。正直、痛い。
蟻牧は舌打ちし、ビニール袋からジュースを取り出す。果汁0のフルーツ味。砂糖とカロリーを直に胃に流し込むような感覚に、一瞬目眩がする。三日ぶりの食事としては少し刺激が強すぎたかもしれない。
「おーい」
後ろからの声に、蟻牧は振り向いた。
小太りの男、60歳前後か。ファミイレから出てきたのだろう。蟻牧と同じビニール袋を提げている。
焦点の合わない目。酔っ払いだろうか。
面倒だと思いつつも近付く、と。
「!」
突然右腕を掴まれた。
「兄ちゃん、美味そうやな。血ィ吸わしてくれや」
人間離れした力だった。蟻牧は振り解こうと藻掻いたが、却って左腕まで押さえ込まれてしまう。どさっとビニール袋が落ちた。
男は白目を剥き、口から泡を吐いて痙攣している。
しかし、その力は衰えない。抵抗を続ける蟻牧の視界の隅に、何かが映った。
落ちた衝撃で、男のビニール袋から転がった2リットルのペットボトル。それを満たす、鮮烈なまでに赤い、赤い液体。
血だ。
気付いた途端、力が緩んだ。
男の口端に、牙が生えた。それは瞬く間に昆虫のような、鋏状の顎に変わる。
殺される……!
蟻牧は思わず目を瞑った。
どくん。
衝撃。
しかしその衝撃は、蟻牧の予想した角度からではなかった。
胸を突き上げるような打撃感に身体が大きく反り返り、弾かれたように元の姿勢へ着地する。ぐしゃり。変な音がした。
蟻牧は目を開けた。
駐車場に仰向けに倒れて藻掻く人…のような何か。丸く膨らんだ腹から、鮮血を流し、服の胸部から突き出た四本の脚をうごめかせている。茶色っぽく鈍く光る、硬質な脚。人の手足と合わせて八本。まるで巨大な蜘蛛だ。虫の頭がブレて、時折苦しげな男の顔が覗く。
そしてもう一つ見慣れぬものがあった。蟻牧の胸部、シャツを裂いて伸びる二本の堅い刺……黄緑色の、昆虫の脚。キリのように鋭いその先端が、血に濡れている。
俺が、やった……?
緑と赤。頭がくらくらした。
こういう場合、どうすればいいんだろう。警察?救急?
こわい。
110番?119番?117番?何だっけ?警告色。
全部夢だ。逃げる。きっと。それとも。見ないふりして逃げる。
俺じゃない。殺される。俺じゃない。俺じゃない。生きてる?こわい。俺じゃない。わけわからん。俺じゃない。俺じゃない。
身体が、動かない。
虫頭の男が起き上がった。唐突に、弾かれたようにアスファルトを蹴り、迫る。豪速球ストレート。笹森だっけか。最速164キロの球はこんな感じに見えるのかもしれない。
「ハハッ」
ほんとうにこわいとき、ひとはわらうのだ。
蟻牧は頭を覆った。
「融着」
澄んだ、声が響いた。
破裂音とともに、何かが倒れた。目の前で。
腕にべちゃっとしたものが飛び散った。
赤い。頭のない。死………
「あ……あ……」
涎が顎を伝う。
毒々しいほどに鮮烈な赤。それを覆い隠すように、脳裏を白い光が閃く。明滅する、現実と幻覚。
「指令があるまで自宅待機って、言われてるよね?」
声がした。女か。
何やらごちゃごちゃ言っているらしい。が、よく分からない。その声が、だんだん遠く………
白い星が瞬き、視界を蝕む。
そして、全てが黒に置き換わった。