表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
目にはさやかに見えねども 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山黎
昭和三年 八月
7/7

昭和三年 八月十九日 坂元栄吉 初恋


 坂元(さかもと)(えい)(きち)は、今となってみれば、初恋は義姉だったかもしれない、と思う。


 そんな曖昧な言い方になってしまうのは仕方が無い。

 義姉は二年程前、栄吉の兄と逐電してしまい、今は近くに居ないからだ。


 真面(まとも)に話したのは一度きりだし、オマケに其の時、栄吉は数えで十三だったのである。母も姉達も既に鬼籍に入っている。初恋、というより、男所帯で育った栄吉が初めて、真面(まとも)に接した年頃の美女が、偶々(たまたま)義姉だった。だから、淡い気持ちを抱きかけた、というだけなのかもしれないのである。


ただ、義姉は、ある意味で、()()()美貌は持っていた。義姉の美貌で人生が狂ってしまった人間は居た。


 だから、義姉と一度しか真面(まとも)に話した事が無い件については、栄吉は、安心すらしていた。

 長く、親しい付き合いをしていたら、自分も、何か、(よこしま)な事を考えてしまい、敬愛する兄との関係が壊れてしまったのではないか、と。


 過ぎた美は、持ち主の人生を、そして、周囲をも、(ゆが)ませる事が有るのであろう。




 今頃になって何故そんな事を思い出すのかと言えば、栄吉に今、心に懸けている()(ぼく)()の美人が居るからであり、其の人が義姉と、ほぼ同い年だからである。


 しかし、最初から其の人の事は諦めている栄吉である。


 三つ年下で、(いま)だ数えで十五の栄吉が相手にされるとは、露程も思えない。

 ただ、コッソリ好きでいるのなら構わないだろう、と栄吉は思っていた。


 栄吉が心に懸けている相手の名は、実方(さねかた)(はつ)という。


 (はつ)は、二年前まで巫女で、戒律により、ほぼ外出が禁じられていた。


 義姉の(よし)も巫女だったのだが、(よし)が、栄吉の兄、坂元(さかもと)(せい)(きち)婚礼(ゴゼムケ)をし、里を出た後、巫女の制度が廃止になったので、其の頃から、(はつ)は、同じく巫女だった妹の(なか)と、時々家の外に出るようになった。


 (はつ)が美しいという噂は、其の頃から広まった。


 (なか)(はつ)より八つも下であるので、愛らしくはあっても、()だ、其の(よう)な噂にはならないが、元巫女で、しかも年頃の、未婚の娘は(はつ)しか居ない。


 今まで(ほとん)ど目にする事の出来なかった巫女に対する興味も手伝って、泣き黒子の美人、(はつ)は、里の有名人になってしまった。

 所謂(いわゆる)小町娘である。


 栄吉も、噂には聞いていたが、真面(まとも)に姿を見たのは、実は今年に入ってからである。




 二年前の、とある事件が、栄吉の立場を大きく変えた。


 坂元家の分家の末っ子(シッタレ)に生まれた栄吉は、実は五男だった。


 全く、誰からも何の期待もされず、畑仕事などをして、のんびりと育った。


 其れなのに、まさか、其の事件の後、本家が断絶してしまい、自分が坂元本家の後継になろうとは夢にも思わなかった。


 実際、今の坂元本家は、栄吉の父、坂元(さかもと)(ただす)が当主だが、他の兄姉(きょうだい)達は、亡くなったり、家を出たりで、結局栄吉が父の後を継ぐしかなくなった。


 ()だ、そう長く生きていない栄吉であるが、生きていると何が起こるか分からないものだと思っている。




 昨年、坂元分家の当主、坂元(さかもと)(すなお)が里を出ると言い出し、大騒ぎになった。


 二年前の事件が起因してか、坂元家の里での立場が微妙になってしまった事を、常々腹に据えかねていたらしい。


 栄吉でさえ、其れは無理からぬ事、と思う。


 坂元家に落ち度が有った、というよりは、事件後に流された無責任な噂によって里の居心地が悪くなってしまったのである。


 しかし、里としては、若いが、色々な揉め事を押さえてくれる遣り手の(すなお)に抜けられるのは痛手である。


 (おさ)や他の家の本家当主を交えて話し合いを重ねた結果、結局、里の近くに住む地主になる、という事になった。


 不動産を取り扱い、商業を取り仕切ったり、里を出てからも里の者に便宜を図ったりしてくれる、という話だった。


 ()()くは会社の経営も視野に入れているのだという。


 (すなお)は、此処二年で、コツコツ土地を買っていたらしい。


 抜けられるのは痛手だが、里の外、しかも近隣に、里の事情を知る地主が居るのは好都合である。結局は(すなお)の一家が里の外に出る事は許された。


 元々、人の好い(すなお)は人望も有ったが、此処まで考えて物事を進めているとは、周囲は思ってもいなかったらしく、其の移住は、驚きと羨望の的だった。




 栄吉達の住む()原集落(ばるしゅうらく)は、所謂(いわゆる)隠れ里である。


 様々な事情から、上手く病院に懸かれず、苦労する者も居る。隠れ里故の秘密も有る。


 身内の(すなお)が近隣の土地で名士になってくれれば、他所の病院に通院する便宜を図ってもらえるかもしれず、どれ程里が助かるか、と、(すなお)の一家の移住は、里では概ね好意的に受け止められた。




 もう明日、里を出るのだという、昭和三年、一月四日の別れの席には、沢山の人々が御別れに集まった。


 其の中の一人が(はつ)であった。


 御世話になった(すなお)や其の家族と離れるのは、心から悲しく、寂しい栄吉だったが、まさか其処で出会った人を見初めてしまうとは、本当に、分からないものである。




 初めて見た(はつ)は、人だかりの中で、妹の(なか)の手を引いて、キョロキョロしていた。


 (はつ)は実方家の長女である。


 紅い振袖に深紅の道行(みちゆき)

 染め抜かれた(ひなた)(もん)が『四つ目菱』である事から、其の人物が実方家の娘だと知れた。

 加えて、長い二つの編み下げ。

 巫女は髪が長かったが、引退しても(いま)だ長い(まま)(よう)であった。

 そして左目の下にある泣き黒子。


 此れが噂の、(はつ)という人か、と栄吉は思った。


 長い編み下げの先についた蝶結びの飾紐(リボン)は、(ほとん)ど白に近い桃色で、(はつ)の動きに連れて、フワリと揺れた。


 (はつ)の傍らに居る、()(かた)()げの、赤い晴れ着の娘が、妹の(なか)であろう、と栄吉は推測した。

 道行(みちゆき)も着ず、寒くはないのであろうか、振袖の上から、黒い肩掛け(ショール)を首にグルグル巻きにしていた。

 (なか)は、姉と御揃いの、長い二本の編み下げの先に、晴れ着と同系色の飾紐(リボン)を結んでいた。




 (やや)あって、(なか)肩掛け(ショール)が落ちそうになってしまったと見えて、(はつ)は、(ひと)(だか)りから少し離れた所まで妹の手を引いて行って、屈んで、首に肩掛け(ショール)を巻き直してやっていた。


 (はつ)(なか)も、ニコニコしていて、とても楽しそうだった。


 其処へ、二人の兄である、実方本家の長男、(とし)(あき)と、次男の顕彦(あきひこ)が、黒の羽織袴姿でやって来た。

 (はつ)(なか)は、如何(どう)やら、此の兄達を探していたらしく、兄達の姿を見付けると、嬉しそうに笑った。


 四人の兄妹は、揃って、楽しげに帰ってしまった。


 (はつ)(なか)は、(すなお)への挨拶は済んでいた(よう)である。


 夕方から、(はなむけ)と称しての宴会(ノンカタ)であるから、妹二人は家へ帰す心算(つもり)なのだろう。


 顕彦は()(かく)、酒好きな俊顕が此の時間に帰るとは、(ほとん)ど考えられない事で、兄二人だけで再び戻って来るのであろう、と栄吉は推察した。


 (はつ)(なか)は手を繋いでいる。

 (はつ)はニコニコして、ずっと喋っている。

 吐く息が白い。

 (はつ)と其の兄妹達は、ただ只管(ひたすら)、楽しそうである。


 栄吉は、(はつ)の姿が見えなくなるまで、遠くから其の様子を見ていた。




 (はつ)を見た其の日から、栄吉は物思いに耽る事が多くなった。

 胸の辺りに、あの楽しそうな雰囲気が住み付いてしまったかの(よう)だった。


―楽しそうだったな。何を、あんなに話す事が有るのだろう。


 栄吉は無口な(ほう)なので、其れが実に不思議だった。


―とても妹さんに優しそうだった。其れに巫女さんって、皆、あんなに綺麗なのかな。


 義姉も美しい人であった。

 元巫女であった既婚の人も、見掛けると、大抵美人である。




 其れにしても、開けて昭和三年となった今度の正月、数えで十八になった(はつ)は、もっと大人っぽい人だと栄吉は思っていた。

 噂では、色っぽい泣き黒子の娘だと聞いていたからである。


 しかし、実際栄吉が目にした(はつ)は、確かに華やかな顔立ちだが、小柄で、栄吉の背が高いせいも有るであろうが、思ったより年上には見えなかった。


 (はつ)の小柄さが、あの編み下げの長さのせいで際立っている気がした。

 其の小柄さに、蝶結びの飾紐(リボン)(あい)()ってか、()だ、かなり少女の(おもむき)()(よう)に、栄吉には感じられたのである。


―愛らしい人だったな。


 其の日から、栄吉は、少しだけ寂しくなくなった。

 同じ里の何処かに(はつ)が居て、ほんの時たま姿が見られる。

 其れだけで少し楽しくなる。

 (ひそ)かな幸せだった。


―だから構わないよね。コッソリ好きでいるくらい。如何(どう)せ、ああいう綺麗な人は、()ぐ何処かに御嫁に行ってしまうだろうから。


 数えで十五の栄吉にも、(はつ)目当ての人間が里に大勢居るであろう事は容易に想像がついた。


 其の点、自分は、()だ成人すらしていない。


 自分が成人する頃には、何処かに嫁いでいる筈だ、と、栄吉は、最初から、憧れの(はつ)と会話する事すら諦めていた。


 だから、存在を感じられれば充分で、そして、姿を見られるだけで幸福だった。


 栄吉に訪れた密かな幸せは、本当に(ささ)やかだったが、兄の(せい)(きち)(すなお)が居なくなった喪失感を、そっと埋めてくれた。


 父と二人暮らしの広い家は、とても寂しい。




 母親の(せい)は、栄吉を産んで、()ぐ、産褥(さんじょく)の床に就き、亡くなってしまったらしい。


 兄達も家を出ていたから、(ただす)が家を空けている時は、栄吉は、(すなお)の家に世話になっていた。


 其の間、(すなお)が、幼い栄吉の寝か付けをしてくれていたのを、時々思い出す。


 坂元分家の増雄(ますお)という、息子ばかり居た人の、其れこそ末っ子(シッタレ)だったのだが、(かなめ)吉雄(よしお)という、既に分家を済ませている兄達とは年が離れ過ぎており、親を看取った後、実家を継いで、坂元分家の当主になった人だった。

 奥座敷に敷き詰めた布団の真ん中に寝せてくれて、栄吉が寝付くまで、トントンと、布団の上から、優しく、心臓の辺りを叩いてくれていた、日焼けした顔を、栄吉は忘れられない。


 兄とも父とも頼む程の存在であった(すなお)には、本当に御世話になっていたし、(すなお)の家の子供達の事も、本当に可愛がっていた栄吉の喪失感は、大変なものだった。


―あんなに小さかったら、俺の事なんて、皆、忘れてしまうだろうな。


 広い、静かな家。


 耳に静寂が響く(よう)な静けさで、静かだというのに、栄吉は、時折、其の静寂に、耳を塞ぎたくなる。



末っ子(シッタレ) 末っ子の事を示す方言。「尻垂れ」の転訛。「たれ」は接尾語で、「尻」は「最後」の意味。


 坂元家では『奥座敷』『表座敷』、実方家では『納戸(ナンド)』『広間(ヒロマ)』と、呼称が違いますが、実際、炊事場(ナカエ)と生活の場を分けている、二ツ屋民家(フタツヤみんか)という点のみは共通しているものの、間取りは違います。坂元家には中二階が在ります。

 図を一度掲載出来るといいのですが…。

 竹組みの天井の写真とか。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ