昭和三年 八月十九日 実方初 斑葉の人
狐に摘ままれた様な気持ちで、初が母屋に戻ると、羽織を脱いだ顕彦が、納戸の縁側で伸びていた。
暑いのだろう。
暑さ寒さも彼岸までとは言うものの、此の陽気では無理も無い。
盆も過ぎ、立秋となって、蒙霧升降とされる時期になったとは言え、やはり暑い南国に於いては、盛装は酷である。
暑いのなら着替えれば宜しいのに、と初は思った。
―私も着替えようかしら。もう、御客様も御帰りになったのだし。
初が納戸に戻ると、未だ俊顕と景と仲が居た。
出会うなり、俊顕は初に向かって言った。
「未だ着替えないでおいてくれ。此れから、血相を変えた綺麗な小父さんがやってくる予定だから。出来たら、化粧直しも頼む」
「…今、何と仰いました?綺麗な?」
初が聞き返すと、景も、怪訝な顔をして夫を見た。
仲は、綺麗な小父さん?と復唱した。
景は、信じられない、という様子で、如何いう事でしょう、と夫に問うた。
「此れから血相を変えた方が訪問されるというのだけでも、大事に聞こえるのですが。『綺麗な小父さん』とは、一体?」
俊顕は、優しい声で、見たら分かるよ、と言った。
「本当に綺麗だから。一応、心の準備をしておいてくれ」
白藍色の、秋草の柄の紗紬姿が涼やかで、絵の様に美しい景は、夫の説明では何も分からなかったらしく、眉を顰め、目を閉じて、言った。
「生憎と、其の様な状況の為にしておく心の準備の内容が分かる程、聡くは御座いません」
俊顕は、ははは、と、楽しそうに笑ってから、言った。
「来客が来るとだけ思っておいてくれたらいい。苦み走った好い男だよ」
景と初は顔を見合わせた。
結局、俊顕から聞いた話の内容は、再度来客が有る事と、客の容姿が良さそうだ、という事以外、何も分からなかったが、一先ず、化粧直し、というのは、提案としては良さそうだった。
程無くして、何やら玄関が騒がしくなった。
逸が来客を対応しているらしい声が聞こえてきた。
顕彦が、其の声を聞き付けたのか、身形を整えて、縁側から、納戸に戻ってきた。
仲が、ピュッと様子を見に行って、ピュッと戻ってきた。
あんまり速かったので、初は、其の振る舞いを、行儀が悪いと窘める暇すら無かった。
仲は、愛らしい声で、成程、と言った。
「確かに綺麗な小父さんでした」
「…其れはまた、如何いう…?」
―もう、開いた口が塞がらないわ。一体、どの様な御客様が御越しなの?
「幼子が申す程『綺麗』となれば、相当であろうなぁ」
景は、興味が湧いてきた様子で、そう言ったが、仲は、ニコッと笑って、そう言えば、と、更に、よく分からない事を言い添えた。
「先程の御客様も戻っていらっしゃいましたよ」
「え?」
景と初は、再び顔を見合わせた。
―如何いう事なの?もう、気になって仕方が無いわ。
初が広間に向かうと、景と仲も、ついて来た。
広間には、先程の、坂元栄吉少年が居た。
普段着なのか、此れまた、趣味の良い、青っぽい木綿の着物を着ていた。
阿波しじらだろうか、などと思いながら見ていると、此方に気付いた栄吉少年は、丁寧に一礼してくれた。
見れば、顔面蒼白である。
其れは、こんな漆喰壁の様な顔色の人間を見たのは初めてだ、と、初が思う程の顔色の悪さで、状況は全く理解出来ないながらも、何か余程の事が起きたのであろう事を察するのには充分だった。
事実、広間には、初の父である忠顕と、誰かもう一人の人物が言い争っている声が響いていた。
初が其方を見ると、忠顕の傍らに、六尺は有ろうかという、長身の、スラリとした、涼しげな麻の着物を纏った男性が居た。
銀鼠色の着物に、見事な斑葉になった、やや白の方が多いかと思われる髪。
振り返って、初達の方を見た其の人物は、本当に綺麗だった。
初の傍らに居た景が息を飲むのが分かった。
其の、美しい、斑葉の髪をした人の顔立ちは、何処と無く、栄吉に似ていた。
―若しかして、六十近いと伺っていた、糺殿という、坂元本家の御当主?…え?還暦前?誰が?…何が?
確かに、斑葉である。
だが、顔は精々、多く見積もっても四十歳くらいにしか思えない。
白髪さえ無かったら、もっと若い人物に見えそうで、初が、うっかり、年回りさえ合えば、此方を紹介されても嫌では無かったかも、と思ってしまったくらい、端正な御仁だった。
此方に気付いた相手が、渋々、という様子ではあったが、丁寧に一礼してくれたので、初達も、丁寧に一礼した。
「本当に綺麗な小父さんですねぇ」
仲が、ヒソッと、そう言うのに、初は、曖昧に頷いた。
清潔そう、という意味でも綺麗で、整っている、という意味でも綺麗で、そして、何だか、青年と呼べる程には若くはないのだが、老爺とは呼びたくない雰囲気なのだ。
確かに初も、『綺麗』な、他所の男性、即ち『小父さん』としか表現出来ない。
―『綺麗な小父さん』。…確かに、他に、何とも形容しようが無いのよね。こんな事って有るの?
取り敢えず、俊顕の話していたところの、『苦み走った好い男』というのは分かった。引き締まった、本当に、好い顔をしている。
栄吉の様な若い艶、と言うよりは、何処か、乾燥した様な、枯れた様な雰囲気を持つ人だが、地味な感じはしない。
そして、引き締まってはいるが、何と無く中性的に思える顔立ちのせいか、燻し銀と表現するには華やかである。
ともあれ、あまり多くの人間に会った事の無い初でも、『此れが好い男です』と言われたら、『左様で御座いますか』と、素直に思える感じの、本当に『綺麗』な人だった。
―はぁ、何の紹介も無いけれど、絶対、あの、栄吉という人の血縁よね。こんな綺麗な人から生まれたから、栄吉さんも、あんな可愛い顔なのねぇ。
初は、深く納得しながら、栄吉の方を見たが、栄吉は、青褪めた顔の儘、呆然と、広間の様子を眺めていた。
―本当に、今日は、一体全体、何が、如何したというの?
※老爺 年寄り、老いた男性。爺尉の転訛。
※青年 若者。青年。馬齢の二才が青年な事から来ているという説が一般的だが、青二才同様、親しい男性を意味する背と、若い事が合わさった新で、新背から来ているという説も有る。
因みに、『ヨカニセ』だと、美青年、好い二才、美しい若者を指す方言。美男子、男前、くらいの意味になります。
多分、もう『ハンサム』『イケメン』くらいの意味になっていて、相手が若くなくても使っている印象です。言われたら、ああ誉め言葉なんだなー、くらいに受け取ると宜しいかと。
2004年くらいに女子高生だった従妹が『ヨカニ』と略して使っていた時は度肝を抜かれました。何の説明も無かったのですが、「ヨカニ(イケメン)が居てさー」みたいな使い方で、鹿児島弁ネイティブ以外の誰が分かるの?と思いながら相槌を打っていたのを思い出します。
1998~1999年頃も、星ヶ峯という地名を『ガミネ』と略している女子高生が居て、「でさー、そのガミネの男が~」という風な使い方をしていたようで、ギャル語って地方版も存在するよな~、と思っていたので、何と無く書き留めておきます。
言語学的には有り得そうで面白いな、と。
そして、斑葉は、植物の葉に白や黄などの斑点や筋の出来た物、斑入りの葉の事であり、白髪交じりの髪、所謂、胡麻塩頭の美称ですが、息子が『テツノイサハ』と言う度に、鋼鉄製の白髪交じりの御爺さんが脳裏に浮かんで大変です。
「なにそれ(本当に何それ)」
「ポケモンだよー」
「(鋼鉄製の白髪交じりの御爺さん、確かに其れはモンスター)」
「パラドックスポケモン!」
「逆説ポケモン!?」
逆説的な(?)素材が鋼鉄製(?)の御爺さんではない事は確かで、画像も検索したけど、脳内画像が切り替わらない…。