昭和三年 八月十九日 実方初 求婚
納戸の前で、広間から声が掛けられたのを聞き、初は、座りながら、納戸の襖を開けて仲を広間に出し、自分も広間に出て、再度座って襖を閉めて、広間に向かって、丁寧に一礼した。
そして、先に納戸の前で正座している仲の隣に膝行で寄り、改めて正座した。
納戸を出ると、直ぐ広間なのである。
初が顔を上げると、広間の囲炉裏端に、既に来客の姿が有った。
首座に父の忠顕、炊事場の前の横座に母の逸、客座に客が一人居て、其の正面には、兄二人が居た。
此の暑いのに、皆、長着に羽織を着ている。
紗や絽だからと言って、別に暑くない訳では無い。
ところが、客の方は、其処に更に、絽袴まで穿いていた。
―うわ、幾らするのかしら。高価そうな袴。
此の辺りは暑い土地なので、夏用の袴を着る人は、初の夏着物の振袖より珍しい。
其れでも、相手は、袴で盛装して訪れてくれたらしかった。
本当に、今日は、改まった席なのだ、と、初は思った。
―私の御相手では無いのに、あんまり御顔を見ては失礼になるわね。
初は、失礼にならない様に、伏し目がちにしながら、相手の着物を、そっと見た。
―霞色の絽の長着に、格調高い滅紫の絽の羽織。
随分趣味の良い人なのね、と初は思った。
見れば、羽織には紋まで入っているので、初は、愈々驚いた。
―そんなに改まった装いでいらしたの。あ、折敷に三文字の家紋。坂元家の御方なのね。
坂元家ねぇ、と初は思った。
周と初は同い年で、二年前まで、揃って巫女だったが、実は、もう一人、年の近い巫女が居たのである。
名を、坂元富といった。
富は三月、周は八月、初は十二月の生まれだったから、学年違いではあるが、殆ど同い年の三人、という訳である。
富とは、あまり親しくする機会が無かったのであるが、サバサバした性格の、親切な娘で、初は、富が好きだった。
彼女の美しい微笑みは、今も強く心に残っている。
もっと仲良くなりたかったが、富も、もう居ない。
とある事情で、夫と一緒に居なくなってしまったらしいのだ。
そう言えば、と初は思った。
―同い年の巫女で独り身なのは、私だけだわ。
そして、周の姉の絹も、義姉の景も巫女だったが、皆嫁いだ。
仲も、初と同じく巫女だったが、今日、仲の御相手も決まるかもしれない。
何だか虚しいものね、と初は思った。
二年前のあの日から、何もかもが変わってしまった。
富は今、何処に居るのだろう、と、初は思った。
―そう、坂元家の御方なのね。
実方家と坂元家は、昔から懇意にしていると聞く。
巫女は、濫りに外に出てはいけないという決まりが有ったので、初は殆ど、坂元家の人々の顔を見た事も無いが、きっと、此の御相手も、父や兄達とも親しくて、仲を嫁がせるに足る人物、と目されているのであろう。
―そういう事なら、妹の御相手としては、安心かもしれないわね。
良かったわねぇ、と思ってから、視線を感じた初は、ふと、顔を上げた。
見れば、来客が、初の方を見ていた。
―わぁ、女の子みたい。随分、綺麗な顔ねぇ。
御相手は、着ている物の格調高さや趣味の良さから初が考えていたより、ずっと若かった。
スラッとしていて、座していても、初より背高に思えるが、自分よりは少し年下だろう、と初は推察した。
少年の、散切にされた美しい黒髪が、白い梔子の花の花弁を思わせる様な、清らかな肌の頬を、印象的に引き立てていた。
そして、何処と無く青みを帯びた衣装の色が、其の少年の存在感を更に、匂い立つ様に麗しく引き立てており、其の爽やかさに、初は、夏の暑さを一瞬忘れた。
―ああ、そういう事。だから、お仲ちゃんに話が来たのね。
仲より、五つか六つ年上の少年なのだろう。
ははぁ、と、初は納得した。
―そうね、失礼だけれど、こんなに可愛い顔なのだもの。未だ大人ではないわね。
しかし、外見から推察される年齢の割には、随分と物静かで、キチンとした雰囲気の少年である。
―何て爽やかなのかしら。盛夏に此の着物で、暑そうだと他人に思わせないのは見事だわ。其れに、とっても優しそう。…あら、好いじゃないの、お仲ちゃん。こういう義弟が出来るのかと思うと、悪くないものだわね。
良かった事、と初は思った。
俊顕が、ところで、と言った。
「栄吉。此方が上の妹の初。隣が、下の妹の仲だ」
長兄の紹介の言葉に合わせて、初と仲は、正座の儘、丁寧に一礼した。
栄吉と呼ばれた少年も、丁寧な一礼を返してくれた。
今度は、俊顕が、初達に向かって、来客を紹介した。
「此方、坂元本家後継、栄吉だ。お仲、御手伝いだ。御茶を運んでくれないか?」
俊顕に向かって、仲が、はい、と返事をした。
初は、おお、と、内心盛り上がった。
―『ああ、あの時、御茶を持って来てくれた子』というのを、本当に遣るのね。実際見ると、こんな感じなのね。
へぇ、と、初は、ほんの少しだけ、面白く、物見高い気持ちになった。其れか、恋愛物の本を読んでいる時の様な気持ち、と表現する方が近いであろうか。
―あ、いけない。完全に他人事だったわ。可愛い妹の御見合いの席だというのに。
何でも、つい面白くなってしまって、うんと御喋りなのが、初の、いけない所なのだ。
オマケに、今日は御客様がいらっしゃるから、と、静かに準備していたものだから、殆ど喋っていない。
此の状況に、少し飽きがきている自分に気付いて、初は反省した。
―妹を応援する気持ちで居なくちゃ。
さて、仲は、と言うと。
物凄く動きがギクシャクしていた。
考えてみると、此の妹は、人前に殆ど出た事も無いし、御茶を御客様に御出しした事も無いのである。
―え?零さないでね?
初は、妹の一挙手一投足を、ハラハラしながら見守った。
何とか御茶を御出しして、正座して一礼する仲に対し、栄吉少年は、有難う、と言って、穏やかに微笑んだ。
―あ、やっぱり、優しそう。良かったわね、お仲ちゃん。
仲が御相手に向けた表情は、初からは見えなかったが、初にも、互いの印象は悪くは有るまいと思われた。
ホッとした初は、次は、何だか泣けてきた。
―お仲ちゃんが御嫁に行っちゃう。…離れ離れになっちゃう。
そして、可愛い、小さな、大事な妹は、如何やら、八つも年上の自分より、先に嫁いでしまう可能性が有るらしかった。
―あ、今泣いたら駄目。失礼になるから、コッソリ下がろう。黙って下がるのも失礼かもしれないけれど、今日は、私を見にいらしたのではないのだもの。私は、もう居なくても、きっと大丈夫。後で叱られましょう。妹の御見合いで泣いてしまうよりは、きっと失礼ではないわ。
初は、そーっと納戸に下がった。
納戸に控えていた景が、初に気付くと、ギョッとした顔をした。
―あ、私、もう泣いてしまっているのだわ。
襖を閉めた初は、納戸で、足袋を脱ぐと、袂に隠し、縁側で、下駄を引っ掛けた。
そして、納戸の縁側から、コッソリ庭に出て、蔵の陰に隠れた。
ボロボロと涙が出た。
―やっぱり、こんなのって無いわ。
初が蔵の陰で、膝を抱え、袖の振りを汚さぬよう、膝に、両袖の振りを重ねて置き、屈んで泣いていると、次兄の顕彦が隣にやって来て、屈み込んだ。
初は、しゃっくり上げながら、彦兄、と言った。
「何か御用?」
「御用も何も。御前、如何した」
だって、と言って、初は、手拭いで目元を押さえた。
「お仲ちゃんの方が先に御相手が決まっちゃうなんて、あんまりだわ。御叱りなら後で受けますから、今は一人で泣かせて頂戴」
うーん、と顕彦は唸った。
「いや、仕方が無い事だからなぁ。御前は本家の長女だろう?オマケに巫女もやっていたから、箔が付いている。親も、格を気にして、何処かの本家の嫁に遣りたいわけだ。だから本当は、瀬原の本家、長に御前を嫁がせる予定だったのさ。俺も其れは、最近知ったが」
「え?」
初耳だった。
ところが、と顕彦は続けた。
「うちの親から長に話を出す前に、吉野本家の次女が何時の間にか長に嫁ぐ事になっていたものだから、大番狂わせだったらしい。皆、魂消たわけだ。御前のせいでも、誰のせいでも無いが、そうして、御前が長に輿入れする話は、御前の耳に入る前に立ち消えたのさ」
「そうでしたの」
知らなくて良かった、と初は思った。
親友の周と夫の取り合いなんてゾッとしないし、長の事も、初は如何やら『好みではなかった』ので、話が立ち消えて良かった、と、心から思った。
顕彦は続けた。
「そして、吉野本家も清水本家も、既に嫡男は妻帯者。残る坂元本家は、未だ息子が若過ぎる。でも、坂元本家の糺殿は六十近い。御自分がしっかりしているうちに、息子に許婚を決めてしまいたいという御考えなのだろう。しかし見合いとなると、御前の方が、あの子より年上だから、御前の方が納得しないかもしれないし。其れで、では仲は如何か、という事になった、と」
男女合わせた平均寿命が、精々四十五歳、という時代である。
還暦近いとなれば、初にも、自分がしっかりしているうちに見合いをさせよう、という糺の気持ちは理解出来た。
「そういう事でしたのね。でも私、別に年なんて気にしないのに。上でも下でも」
坂元本家の少年は、優しそうで、見たところ既に、小柄な初より背が高そうだった。
別に、初は、相手を嫌だとは思わなかったのである。
別に嫌でも無いのに、そんな、初が相手より年上だ、という理由で、八つも下の妹より、縁付くのが後回しになるかもしれないなんて、と、初は少し残念に思った。
顕彦は意外そうに言った。
「え?相手が御前より三つ下だぞ?構わないのか?」
「ええ。そういう御話なら、決め付けないで御相談頂きたかったくらい。…たった三つ違いなの?其れより、お仲ちゃんの嫁ぎ先が、私より先に決まってしまう方が悲しかったわ」
「へぇ、意外だったな。御前が相手の年を気にしないとは」
でも、と言って、初は溜息をついた。
「お仲ちゃんと年回りが合うのは本当ね。御相手は、年上なんて嫌かもしれないものね」
思い返してみれば、あの優しげな少年と、未だ稚いが愛らしい妹は、御似合いと言えない事も無かった。
許婚などという話はするには、妹は未だ幼過ぎる、と思えるのは今だけなのだ。
何年か経てば仲も年頃になる。
似合いの夫婦になるかもしれない。
初は続けた。
「今が私の一番良い時かもしれないから。御相手が良い御年頃になるまで待っていたら、薹が立ってしまうかもしれないし。私は他の人を待った方が良いのでしょうね」
いや、其れは御前、と顕彦は言った。
「御相手本人に聞いてみないと分からないぞ、年上が嫌か如何かは。父上に、お仲ちゃんと御前を替えて頂いては如何だ?」
「…其れは、何だか、お仲ちゃんの御相手を取ってしまう様で、悪い気が…」
大丈夫、と言って、ヒョッコリ俊顕が現れた。
「お仲には何も知らせていないのだから。気にするも何も、此れが見合いだという事にも気付いていないだろう」
「俊兄?」
蔵の陰から突然目の前に現れた長兄に、初は心底驚いた。
「何時から此処にいらしたの?」
「彦と一緒に庭に出て来たのさ」
初が顕彦の方を見ると、目を逸らされた。
―如何いう事?今の話を全部、俊兄にも聞かれていた、という事?
「さ、御相手の登場だ。本人に聞いてみよう。如何だ?うちの上の方の妹は」
初は心臓が止まるかと思った。
俊顕の指し示す先に、顔を真っ赤にした少年が立っていたのだった。
あの、と少年は言った。
「一緒になれる、満十七の年まで、何年か御待たせしてしまうかもしれませんが、其れでも宜しければ」
「決まりだな」
少年の後ろに忠顕が居て、そう言うと、ニヤリ、と笑って初を見た。
謀られた、と初は思った。
父は最初から、こうする心算だったのだ。
初は真っ赤になった。
俊顕が、初の右腕を掴んで立たせた。
忠顕が、初の前に、ドン、と少年を押した。
少年は頬を紅潮させた儘、言った。
「あの、今度、日を改めて、申し込みに参ります」
「…はい」
「今日は失礼させて頂きます」
少年は、見事な作法で一礼して、踵を返して去って行った。
―今日は一体、何だったのかしら。日を改めて申し込みに来る、と告げられた気がするのだけれど。あれは本当に、現実に起きた事だったのかしら。
母屋に戻った初が、納戸で座ってボンヤリしていると、俊顕がやって来た。
「俊兄!酷い!酷い!」
初は、スックと立ち上がると、顔を真っ赤にして、俊顕に躙り寄った。
俊顕は笑いながら、立った儘、初の頭を撫でた。
「謀りましたね」
初の傍らに座して居た義姉の景が、呆れ顔で、そう言った。
そろそろ里帰りしようかという妊娠腹でも変わらず美しいが、俊顕に向ける其の目は酷く冷たかった。
俊顕は、其の目を全く気にした様子も無く、笑って言った。
「いやぁ、あいつが御前に懸想しているのは気付いていたけど、御前が年下を嫌がるかもしれなかったから、一芝居打ったわけだ。いやぁ、上手くいった、上手くいった」
景と初は、驚いて、顔を見合わせた。
俊顕は続けた。
「あいつが自分から年上に申し込むのは勇気が要るだろうから、御膳立てだよ」
其処へ、仲がトコトコとやって来て、不思議そうに言った。
「喧嘩ですか?」
俊顕は優しく微笑んで、違うよ、と言った。
「先刻来ていた御客様、分かるかい?お仲が御茶を運ぶ御手伝いをしてくれた御客様だ。あの人が、ハナに求婚したのさ。其の話をしていたところだ」
仲は、目を見開き、口をアングリと開けた。
此方も相当驚いたらしかった。
初は恥ずかしくなって、再び真っ赤になった。
「俊兄!」
「父親が、決まりだ、と仰っているのに、改めて申し込みに来てくれるなんて、良い話じゃないか。御前も、はい、と返事していただろう?」
景と仲が、初の方を見た。
初は黙って俯いた。
「ハナちゃんが黙った」
「姉上が黙るなんて」
驚く景と仲の視線に耐え兼ねて、初は、再び、納戸の縁側から走って出て、庭まで逃げ、井戸の所で、空を見上げた。
―そりゃ、最初から、三つ下の男は如何か、という薦められ方をしていたら、素直に、はい、と言ったか如何か分からないけれど、心の準備というものが有るでしょう?あの人…私に懸想している、って、本当なのかしら。
初は、また頬を染めた。
今日は、もしかしたら良い日なのかもしれなかった。
※長女 総領娘の意の方言。
※魂消た 魂が離れる程驚く、魂消る、という意味の方言。
※夫婦 夫婦を意味する方言。