昭和三年 八月十九日 実方初 気付き
昭和三年 八月十九日 日曜日
最低気温 22.7度 最高気温 31.2度 晴れ
明けて、昭和三年。初は、数えで十八歳になった。
初は、少し焦っていた。
嫁ぎ先が、全く決まらないのである。
―何時か、父上が嫁入り先を決めてくださると思っていたのに、もう、御盆も過ぎてしまったわ。如何しましょう。
其れは確かに、二十五で縁付いた女性も、上方限には何人か居た。
だが其れは、世話をしてくれる親が居なかったので親戚が見かねて相手を決めた、とか、相手は十代の頃から決まっていたが、長い事、相続で揉めていて、家を継ぐのを契機に結婚式をした、とか、特別な事情が有ったからである。
そんな事情は無い筈なのに、如何して親から何も言われないのか、初には分からなかった。
少なくとも、しっかりした両親が揃っていて、数えで十八を過ぎても、何も親から言われないなんて、初は聞いた事が無かった。
―そりゃ、少しは綺麗だって言われるけど。其れで、御嫁さんにはなれない、って、如何いう事なのかしら?
不思議だわ、と初は思った。
少しずつ、家から出る許可は出ている。初は其れを、嫁入り前の慣らしだと捉えていたのであるが、親からは、不安になる程、何も言われなかった。
送り盆の直後に台風が来た。
ノロノロとした台風で、八月十五日、月遅れの盆の送り火に真正面から台風が来て、抜けたのは、十八日、昨日の事である。
今日は晴れたが、未だ少し風が強い。
初が、煤竹を竹組みにした天井の、四畳の納戸で身支度をしていると、俊顕がやって来た。
此の長兄は家を空ける事が多いが、今月の十一日に帰って来て、九月いっぱいまでは里に居るそうである。
其れと言うのも、そろそろ、妻である景が出産の為に里帰りするからで、出産までは里に居たいのである。
ハナ、と、俊顕が声を掛けて来た。
「此れから御客が有るから、少し粧し込んでくれないか」
「は?」
「仲の御相手が決まるかもしれん。御前も広間に顔を出しておいてもらいたい」
「は、はい」
「では、宜しくな」
―え?仲?あの子は未だ、数えで十じゃないの。
初は、あまりの衝撃に体が震えた。
―そうなの?妹の方が先に、嫁ぎ先が決まってしまうの?
しかし、初は、深呼吸を一つして、心を落ち着かせた。
―仕方が無い事よ。
家の格が如何とか、初には、よく分からない決まりが、沢山有るのだ。偶々、仲が先、という事は、充分に有り得る事だった。
―そういう事なら、御粧しして、妹に恥を掻かせないようにしなくては。
八つも年の離れた、可愛い、可愛い妹である。
三人の妹のうち、一人だけ、死なずに、丈夫に育ってくれた、大事な、大事な妹である。
初は、空色の夏着物を出した。
大輪の白百合が沢山描かれている絽地だが、珍しく、振袖に仕立てられているのである。白百合は季節に合い過ぎている気はするが、帯は、ごく淡い黄色で、殆ど白に見える、紗の帯だ。季節を先取りした萩の模様に、見えるか見えないかくらいの白い縞が入っていて涼しげで、御気に入りなのである。
夏物は、見た目だけでも涼しげに、という配慮から、秋草の意匠にする事が多いのだが、纏えば暑い。
其れでも、夏着物は好きな初である。
透けて儚げだが、何処と無く夏の明るさも有る。
―本当に、見映えくらいは、キチンとしよう。
帯を母の逸に結んでもらってから、初は、薄化粧をして、髪を、二本の長い編み下げにし、振袖と同系色の布で作っておいた飾紐で、編み下げの先に蝶結びをして飾った。
其れから、仲の身支度も整えてやった。
仲の着ている、初の御下がりの淡い水色の夏着物には、未だ、大人とは認められない、此れから成長する者の証である、肩揚げが有る。
―未だ着物に肩揚げの有る子の方が先だなんて。
初は、涙が出そうになるのを我慢して、妹の髪を、自分と御揃いに結ってあげた。
蝶結びまで御揃いにしてあげると、仲は無邪気に喜んだ。
初は、大事な妹を、そっと抱き締めた。
此の妹とも、何時か離れる日が来るのだ。
―何方が先に嫁ぐのかは分からなくても、何時かは、こうやって、一緒に住めなくなるのだわ。
何も知らない仲は、ニコニコしている。
初は、仲に微笑み返して、言った。
「さぁ、御客様が御帰りになったら、きっと御八つが豪華な御菓子になるぞ。楽しみにしておいで」
上方限では、女性でも、目下には男言葉を使う事が多く、初も例外では無かった。
仲は、キャッキャと喜んだ。
義姉の景は妊娠腹なので、来客中は表には出ず、納戸に控えているとの事で、普段着の儘だった。
成程、と、初は思った。
―本当に、そういう配慮をしなければならない御客様がいらっしゃるのね。
初が推察するに、今日は非公式な御見合い、という事になるのであろう。
縁組の前に、チラッと御互い顔を見せておく。
大体親が決めるので、断られる事は少ないが、ああ、あの時あそこに座っていた人が、とか、扇を拾ってくれた人が、とか、何だか、そんな、出会ったのか出会っていないのか、よく分からない出会いを、親が演出する。
昔は顔も見ずに嫁がされて、結婚式で初めて顔を合わせて嫁が大泣き、というのも実際有ったそうなので、親なりの気遣い、と言ったところであろう。
まぁ姿は一度見た事が有るから、こういう人か、まぁ良いか、と腹が括れる、といった程度ではあるが、そんな見合いでも、有ると無いとでは大違いである。
大体、非公式な御見合いの場合は、当事者本人には知らされないので、あ、もしかして、あの時、とか、今のって、もしかして、とか、本人が察する様になっている。
今回も、仲には、自身の非公式の御見合いだとは教えていない筈である。
―あ。私、そういうのが今まで一度も無かったわ。
初は気付いた。
非公式な御見合いすら、自分がしていない事に。
―嗚呼、本当に、今日は、私の御見合いではないのね。
其の気付きに、初は、目の前が暗くなりそうだったが、もう客が来ると逸に言われて、もう一度、鏡を見て、身嗜みを整えた。
御気に入りの着物は、やっぱり好い、と、初は思った。
―自分の御見合いだったら、もっと良かったのだけど。
初は、鏡の前で、もう一度、深呼吸をした。
※婚礼 ゴゼンケとも。御前迎え。祝言。嫁、つまり、御前を迎える、という古い言い回しが方言として残ったもの。
※まっぽし 真正面。真面に。「真星」の転訛。真星とは、弓道の的の中心の丸のことで、中心に向かってまともにやって来ることを、「まっぽし」と言う。
台風が、まっぽし来る、という言い方が多い印象です。
※納戸 納戸という呼称だが、収納では無く、奥座敷のような使い方をする家が多い。娘などを家の奥に隠して寝かせる部屋として使われる。
※広間 来客接待用の表座敷。
※妊娠腹 妊婦の大きな御腹。『大胴腹』の転訛か?
こういう演出の御見合いは江戸の頃には既に有ったようですが、鹿児島市春山で、大正末頃、代理人と挙式し、夫の待つ大陸まで船で嫁が渡ってから新郎本人に会い、嫌で嫌で号泣した、という話が有りましたので、そういう御見合いでも、無いよりは有った方が良かったらしいです。