兄二人
裏道に出ると、初は、また、ひっ、と声を出す羽目になった。
野良着姿の兄二人が、腕踏みして、仁王立ちになって、初を待ち構えていたのである。これまた、揃って長身なので、小柄な初にとっては、結構怖い。
「ハーナー」
長兄の俊顕が、そう言いながら、大きな右手で、初の頭を掴んだ。しかし、声音や行動とは裏腹に、初を見る俊顕の目は優しかった。
―心配を掛けたのだわ。
「御免なさい、俊兄、彦兄」
俊顕が、初の謝罪を聞いて、初の頭から右手を離すと、次兄の顕彦が、初の肩を抱いて、言った。
「気が済んだか、馬鹿たれ。心配掛けて。帰るぞ」
「はい。申し訳ありませんでした」
兄二人の後ろを歩きながら、初は再び、泣きそうになった。
―お周ちゃん、そんなに寂しかったの。私、ちっとも知らなかったのね。
自分には、こうして、心配して探しに来てくれる、優しい、二人の兄という存在まで居るのだ。
初には、其れは当たり前の事で、寂しいどころか、内緒で出掛けるには撒かなければならない程のものだったが、如何やら、其れは、普通の事では無いらしかった。
大好きな友達の気持ちを、自分が全然理解していなかった事を知り、初は悄然とした。
此方を振り返ってくれた顕彦が、初の表情に気付き、優しく言った。
「野良着で出たところまでは褒めてやるよ。でも、そんな髪で畑を手伝っていた、なんて言ったら、直ぐ嘘だと分かってしまうからな。括っておけ」
顕彦が、麻の紐を二本渡してくれたので、初は、有難う御座います、と言って、立ち止まって、髪を、二本の、長い編み下げに編んだ。
兄二人は、立ち止まって、そんな、出掛け慣れてもいない、要領の悪い初を待ってくれていた。
初が髪を編み終わると、顕彦が、よし、と言った。
「口裏くらい合わせてやるから、外に出たいなら俺に言え。歩いて行けるくらいの場所なら、何とか連れて行ってやろう程に」
顕彦の言葉に、俊顕は、甘い、と言って、凛々しい眉を顰めて、溜息をついた。
「また要らん知恵をつけて」
前髪が長めの散切にしている顕彦は、分けている前髪を掻き上げながら、要領良く生きにゃあ、と言った。
「程良く我慢せず、気分良く生きるのも生活の知恵です。生き抜く力、生活の知恵の方が、勉強より、よっぽど大事ですよ」
野良着なのに何故か派手に思える次兄は、見た目も発言も、全く教員らしくない。
またそんなに甘やかして、と言って、俊顕は弟を窘めた。
「父上達には黙っておいてやる心算なのだな?其れに、過保護過ぎやしないか?そんなに、先回りして庇ってやって」
顕彦は、ニヤリと笑うと、へぇ、と言った。
「まるで、御自分は妹を心配して探しに来なかったかの様な口振りですね」
「うるさいな」
顕彦の、揶揄う様な発言に、俊顕は、苦々しそうに、そう言った。
兄同士、二人で話す時には方言が出がちである。其れは、少し砕けた、仲の良い間柄である事を示していた。
稍あって、兄二人が歩き出したので、初は、慌てて後を付いていった。
俊顕が、此方を振り返らずに、溜息をついて、言った。
「分かったよ。今日は、初は、俺達二人と畑に居た事にするから。今度からは俺達の何方かに言ってからにしろ。内緒で出て何か起きたって、庇えもしない。此の、箱入りの、方向音痴が」
初が箱入り娘なのも、方向音痴なのも、本当の事である。
―ぐうの音も出ないわ。
「はい。以後気を付けます。申し訳御座いませんでした」
其れで?と、俊顕は、此方を振りけらずに歩きながら、優しい声で言った。
「如何だった?お周さんは息災だったか?」
長兄の思い遣り深い声に、初は、また泣きそうになりながら、言った。
「幸せだって」
最後の方は、涙声になってしまった初の方を、やはり振り返らずに、俊顕は、また、優しい声で、何よりではないか、と言った。
顕彦が振り返って、初の頭を撫でて言った。
「泣きべそ掻いて帰る心算かい?畑で何をしていたかと勘繰られて、芋蔓式に、出掛けていた事が露見してしまうぞ」
「はい」
初は、涙を手で拭った。
俊顕が振り返って、初に手拭いを渡してくれた。
兄二人は、涙を拭う初に合わせて、立ち止まってくれている。
「そうだ、長にも会ったか?美男子だったろ」
顕彦が、茶化す様に、そう言った。
此の次兄は、空気が重くなるのを嫌うのである。
だから茶化して、明るい言い方をするのが常であるが、初は其れを、形は歪だが、思い遣りから来る言動だと感じている。
「…うーん。…御会いした事は、御会いしたのですけれど」
言い淀んだ初に対して、兄達は、おや、という顔をした。
「如何した、ハナちゃん」
顕彦の問いに、初は、言葉を選びながら言った。
「あのね、とっても失礼なのかもしれないのですけれど、私、長が美男子って、よく分からないの」
兄二人の目が点になったので、初は、慌てて付け加えた。
「違うのです、あの。整い過ぎている、と申しましょうか。ピンと来ないの。良いとも悪いとも思えないの。何とも思えないのよ。多分ね、多分なのですけれど」
初は、一度落ち着いて、深呼吸をしてから、キッパリと言った。
「此れが、『好みじゃない』って事なのかしら?」
兄二人は爆笑した。
顕彦などは、笑い過ぎて、殆ど泣いていた。
初は慌てて言った。
「あの、内緒。内緒にしてね。私、此れでは、あんまり長に失礼ですもの。こっそり御庭から御邪魔した挙句に、こんな事を言って」
俊顕も、笑い過ぎて出た涙を拭いながら言った。
「いや、言えないよ。内緒も何も」
「あ、そうですよね」
思ったよりも、とんでもない事を言ってしまったのかも、と、初は思った。
「御免なさい。あの。だからね。お周ちゃんが何故、長の所に御嫁に行ったのか、サッパリ分からないの」
確か、初の住む上方限という地域では珍しい、恋愛結婚の筈である。
初は素直に、親に言われたのでもないのに、如何して長と一緒になったのかしら、と、不思議に思ったのである。
だから、『サッパリ』を少し強調して言った。
顕彦が、ひー、ひー、と大笑いしながら言った。
「ハナちゃん酷ぇ。自分の好みじゃない、美男子か如何かも、よく分からん、良いとも悪いとも興味の持てない男と、何で友達が結婚したのかサッパリ分からん、とか、言うかぁ?」
俊顕も、腹を抱えて笑いながら、言った。
「腹痛ぇ。頼む、ハナ。もう其の辺で。重ねて失礼だぞ」
「御免なさい」
いや、と言って、俊顕が涙を拭いながら言った。
「何時もの御喋りが戻ってきたなら大丈夫だな」
顕彦も、涙を拭いながら、ハナちゃん凄いわぁ、と言った。
帰るぞ、と言う俊顕に、初は、慌てて、はい、と返事した。