親友
『瀬原集落聞書』シリーズの『山桜』と『声聞くときぞ』の中間の話になります。全部書けたら、坂元家の秘密が全部書けるかと思います。
御読み頂ければ幸いです。
昭和二年 十月十日
生まれて此の方、殆ど家の外に出た記憶は無いが、今日こそは、お周ちゃんに会わないと、と思い、実方初は、裏道を走った。
上方限の本通りなど通ったら、直ぐに見付かってしまう。
だから裏道を通らなければならないのだが、裏道は、牛の餌にする為の草を刈る、草刈り場沿いに在るので、最近まで、草を焼く作業をする人達が沢山居て、通れなかったのだ。
草を焼くと、次生えてくる草は、強くて良い草になる。
大切な作業だが、初は、あまり此の臭いが得意ではない。
第一、見付からない様に行きたいのに、其処に人が居ては通れない。裏道の草を焼く作業が終わって、通れる様になるのを待つしか無かったので、結局、計画を実行に移すのが、今日の午後になってしまったのである。
瀬原集落の長の館、其の裏の、奥座敷を目指して、初は走った。
実は、外出した事はおろか、走った事も殆ど無い。
だから、其れ程速くは走れないのだが、初にとっては、精一杯の速度だった。
思う様に走れず、初は唇を噛んだ。
―急がなくては。畑の御手伝いをします、と、嘘を言って、抜け出してきたのだから。嗚呼、お周ちゃんに会えるかしら。其れにしても、長の館に庭から侵入しようなどとは、恐ろしい事。でも、今日を逃したら、後悔しそうな気がする。
動き易い様に野良着にしたのは良かったが、髪も結って来れば良かった、と、初は思った。
膝まで有った長い髪を、腰まで切り揃えたのだが、走るには長くて、未だ邪魔だった。
―未だ、髪が長いのね、私。走るのに、ちっとも向いていないのだわ。
やっと長の館に着いて、裏道から侵入すると、初が思った通り、奥座敷の縁側に、周が居た。
妊娠腹を撫でながら、静かに座っている周は、とても穏やかな顔をしていた。
初は泣き出しそうになった。
周の、長く、美しい垂髪が、縁側で、流れる様に光っている。
初が切ってしまった髪を、周は未だ切っていない事が知れた。
ごく淡い檸檬色の色無地に、大柄の白い花と薄緑の葉がビッシリと描かれた織りの帯。
久し振りに見た周は此の上無く美しく、初には、其の姿が、穏やかに晴れた、風も無い日の、秋の陽射しに溶けてしまいそうに思えた。
「お周ちゃん」
コッソリ声を掛けると、ハナちゃん、という、小さな、驚きの声が返ってきた。
ハナは、初の渾名である。
「会いに来てしまったの。少しだけ、御話しても宜しくて?」
「勿論。会えて、とっても嬉しい、ハナちゃん」
そう言う周の、皺の殆ど無い、ツルリとした紅い唇が、優しそうに微笑んでくれるのを見て、初は、つい、泣いてしまった。
「今まで来られなくて、御免なさい」
「いいえ。私も、急に御嫁に行って、御免なさいね」
初は、首を振って、手で涙を拭って、尋ねた。
「今、幸せ?」
周は、微笑んだ儘、ええ、と言った。
「私が、どれ程、子が欲しかったか。私ではない人には、私の気持ちは分からないと思う程よ」
初は、其れを聞いて驚いた。
「そうでしたのね」
年が明けて、昭和二年で、数えで十七になった初であるが、同い年の友人が、其処まで子が欲しいと考えていたとは思いもしなかったのである。
周は、未だ微笑んだ儘、私ね、と言った。
「ずっと一人でしたのよ」
初は、其の言葉に、益々驚いた。
ほら、と、周は続けた。
「私達って、外に出てはいけなかったでしょう?御友達とも、なかなか会えないくらい」
初は頷いた。
―今だって、随分久し振りに会えたのだもの。
周は、更に、穏やかに言った。
「母が亡くなって、姉が嫁いで。父と兄二人は、仕事で、殆ど家を空けていて。義姉も、上の兄が居ないと、近所の実家で過ごしがちで。ずっと私、一人でしたの。だから私、子が欲しかったし、今日は、ハナちゃんと御会い出来て、本当に嬉しいのよ」
初は、また泣いた。
―知らなかった。
初は、其の言葉で、自分が一人ぼっちになった事が、今日、家を抜け出す瞬間まで、一度も無かった事に気付いた。
だから抜け出せなかった、とも言えるのだが。
父も母も居て、兄二人と妹一人。
父と兄二人は仕事で居ない事は有っても、次兄の顕彦は教え処の教員も兼ねているので、長期で家を空ける事は少なく、八つも年の離れた妹の仲は、甘えん坊で、初にベッタリなのだ。
加えて、長兄の俊顕が清水本家の娘の景を嫁に貰った。
義姉になってくれた景とは元々親しかったので、初は、本当の姉が増えた気分で居たのである。
妹二人が早くに亡くなってしまった時は悲しかったが、家族が七人に、下働きの者も居り、初は、一人になるのが難しいくらいの、賑やかな生活を送っているのである。
―私、お周ちゃんの様には、寂しいと思った事が無いのかもしれないわ。
初は、其れに思い至ると、自身とは対照的な、周の孤独に、愕然とした。
其の時、音も無く、見事な鳩羽鼠の大島を着た長身の男性が、周の背後から登場した。
其れは、瀬原本家十一代目当主にして、瀬原集落の長、瀬原修一だった。
初は思わず、小さな声で、ひっ、と言ってしまった。
「あ、長」
御邪魔しております、と言って、初は丁寧に一礼した。
「御久し振りに御座います。実方本家の長女、実方初で御座います。勝手に御邪魔して、申し訳御座いません。もう御暇致します」
「相分かった」
相変わらず、生気を感じない程整っている顔である。
言葉少なだが、礼儀正しく優しい声なのには、多少安心したが、初は、此の三つ年上の、何と無く、人形染みて見えるまでに端正な顔をした長を、美しいと思った事は有っても、恋愛の対象だと思った事は皆無だった。
だから、周が突然、此の長に嫁いだ時には、腰を抜かす程驚いたものである。
―ただ『美しい』以上に、何とも思えないのよね。
好きだ嫌いだ、とも、楽しい怖い、とも、何も心に引っ掛からない。
其れでも長は長なので、初は尊敬している。
「では、お周ちゃん、またね。今度は出産祝いを御持ち出来る様に致しますから」
周が、ええ、と言うのに手を振り、長に向かって再び一礼すると、初は、長の屋敷の敷地から出て、再び、裏道を走り出した。
※檸檬色 やや緑みを帯びた薄い黄色。果実のレモンに由来した色名で、十九世紀にヨーロッパで誕生した絵の具の「レモンイエロー」が日本で知られるようになり、「檸檬色」と呼ばれるようになった。作品舞台の昭和初期には既に存在する。レモンの果実は明治時代初期に渡来しており、「檸檬」の和名は当て字。
梶井基次郎の小説『檸檬』の初期構想は大正十三年らしいので、言葉としては、当時、大分馴染んでいたのではないでしょうか。
※鳩羽鼠 薄い紫色(藤色)に、鼠色を掛けた、赤みがかった灰紫色。山鳩の背中の羽の色。
天気の情報の出典先が記載出来ていなかった気がするので、記載してみます。
http://agora.ex.nii.ac.jp/digital-typhoon/weather-chart/
100年天気図データベース
1883年3月1日以降の天気図を画像として閲覧できます。
https://rnavi.ndl.go.jp/jp/guides/post_646.html
日本の過去の天気図
リサーチ・ナビ|国立国会図書館
同じ『瀬原集落聞書』シリーズの『汝を除て』を、二〇二二年内に終わらせて、此方の連載立ち上げに入ろうと思っていたのですが、全然終わらなかったので、先に書き出してみます。
あまりローファンタジーに寄せず、郷土資料寄りにしたいと思っております。