もし宰相が記憶喪失になったら
お久しぶりです。
この度7/31に「悪の華道を行きましょう」コミカライズ3巻が発売となりました。
今回のお話はセレスティーヌの記憶喪失編が収録されておりますので、それにあやかり宰相が記憶喪失になったパターンを書いてみました!
どうぞよろしくお願い致します!!
色々あって宰相はセレスティーヌの存在を忘れてしまいました。
「おや? セレスティーヌ殿。これは珍しいお客様だ。息子のマルクに御用ですかな?」
「………」
セレスティーヌに語り掛ける宰相の表情は一見穏やかだが、普段のような慈愛に満ちた朗らかさは全くない。
まるで赤の他人に接するようなよそよそしさが窺える。
「しかしセレスティーヌ殿が息子と密会するほど親しいとは知りませんでした。私も二人は常々似合いのアベックになるのではないかと思っておったのです」
愉快そうに腹を揺らして笑う宰相。
一方のセレスティーヌはアベックなる言葉の意味は分からないが酷く不愉快な気分に陥り思わず真顔になる。
「して、その赤子はどちらの御子ですかな?」
若者の冷たい目がちょっぴり怖い宰相はこの空気を断ち切るべく話題をセレスティーヌが抱えている赤ん坊に移した。
「この子はリュカ。この家の子供です」
「あう」
「は?」
愛想悪く告げられた言葉に目を剥く宰相。
改めて赤ん坊を見ると、セレスティーヌの面影がある可愛らしい顔立ちであり、それでいて目つきの悪さがどことなくマルクに似ているようにも見える。
「い、いつの間に!? 二人の仲を反対するはずがないのに…何故早く言わなかったんだ! これでは外聞が悪いではないか!」
慌てふためく宰相にセレスティーヌの表情はますます冷たくなっていく。
「外聞は悪くなどございません。この子は色々な方に祝福されて生まれた子です。もっと近くでよく見てください」
「うぉ!?」
突然セレスティーヌが赤ん坊をこちらに渡してきて、思わず受け取ってしまった。
柔らかく乳臭い生物に万が一落としては不味いと体が強張る。
幼かったマルクを抱きあげた経験さえ数度しかないというのにどうすればいいのか分かるわけがない。
「ぶぅぅ」
赤ん坊も抱かれ心地が悪いのか先程よりも目つきが悪くなっている気がする。
「ぶぅぅ!ないっ!」
「ぐお」
遠慮など知るはずもない赤ん坊のもみじのようなぷにぷにした手のひらで顔の中心をグイグイ押されたじろぐ宰相。
「ほら、リュカがこんなに貴方に懐いております」
明らかに拒絶されているとしか思えないがセレスティーヌは平然とそんなことを言う。
「この子はマルクの子ではなく私たちの愛の結晶ですのよ」
「私たちと言うのは?」
「私と旦那様…貴方の子です」
「いやいやいやいや」
突拍子もない話に激しく首を振る宰相。
しかしセレスティーヌの目はいたって真剣である。
「嘘を吐くならもっとまともなものにしなさい。身に覚えなどないぞ」
「…旦那様は最近更に太りました。その巨体を支えるには大きな負担がかかります。そんなある日とうとう巨体を支えきれなくなった旦那様は階段から足を踏み外し、すってんころりんです。だからあれほど減量してくださいと忠告しましたのに。おおかた隠れてドカ食いしていたのでしょう。いいですか、これからは小麦パンを二度と食べられないとお考え下さい。基本ライ麦パンしか許しませんからね」
「いや、なんの話?」
「更に悲劇なのは本来頭部を守護する頭髪が旦那様の頭部には存在しなかったことです。頭髪無くして頭部は無防備。転倒の衝撃をもろに脳に受けてしまい私との大切な思い出をポロリと落としてしまいました。まったくもってふざけた話です」
頭に疑問符を浮かべながら話を聞く宰相からリュカを受け取り、不機嫌そうに口を尖らせるセレスティーヌ。
「つまり何か。ワシはセレスティーヌ殿と結婚していて子供まで居ると…年齢が親子ほど違うというのに?」
「あら旦那様は元々若い娘がお好みでしょう」
「いやそれは…」
セレスティーヌの責めるような視線に不思議と冷や汗が噴き出る。
しかし、ある日突然若く美しい嫁が出来ていたなんて夢物語をあっさり受け入れられる程宰相はおめでたくはない。
「オマケにこんなに可愛い二人の愛の結晶の存在までどこかにポロリしてしまうなんて」
「ぶぅぅ」
そんな話は知らんと突っぱねたい宰相だが美しい二人からジットリと見つめられると言葉が出なくなる。
「リュカが産まれた時に感動のあまり王都の名称を“リュカ”に変更させる為に国王陛下を脅迫しようとしてマルクに怒られたことも忘れてしまったのね…」
普段から傀儡として利用させてもらっているが、流石にそんな事で一国の王を脅迫しようとは思わない筈だ。
「それは流石に嘘であろう?」
「あら、旦那様の親馬鹿エピソードはこんなものではなくてよ? まぁ座ってください。お茶でもしながら私たち家族の思い出を沢山聞かせてあげますわ。―――用意お願いね」
「かしこまりましたセレスティーヌ様」
まるで本当にこの屋敷の女主人であるかのように控えている使用人にお茶のセッティングの指示を始めた。
使用人たちも皆それが当然であるかのようにてきぱきと動き始めて宰相は目を丸くする。
準備が終わるとセレスティーヌがゆったりと思い出とやらを話し始めた。
そもそも自分が夫婦だとか荒唐無稽な主張をする彼女に付き合ってやる義理はないはずだが、気づくと大人しく話に耳を傾けていた宰相。
自分の子供よりも若い娘だというのに彼女の指示に抗うことを身体が無意識に拒否していた。
最初はそのことに困惑するばかりであったが、彼女の口から語られる話に段々と夢中になっていった。
彼女の話の中に出てくる宰相はいつも間抜けで、それでいて妻や子供たちを全力で慈しみ愛する魅力的な男だった。
今まで仕事ばかりで家族などと言うものを意識したこともない彼にとってセレスティーヌの口から語られる男が自分だとは俄かに信じがたい。
「それと、あれ。庭の池でボートに乗った話もしなくちゃ。水鳥が危うく旦那様の頭に巣を作ろうとしまして――」
セレスティーヌの方も熱が入ってきて本当に楽しげに喋る。
キラキラとした目で自分との思い出を語られるとなんだか嬉しいような寂しいような不思議な感覚が芽生える。
「どうかしました?」
宰相の表情の変化にいち早く気づいたセレスティーヌが気づかわしげに首を傾げる。
それだけで彼女の中で宰相は常に気にかかる存在であることが読み取れて更に寂しさが込み上げた。
「もしもセレスティーヌ殿の話が全て本当だったとするなら…何故こんなにも楽しく輝かしく甘い思い出が自分の中には何もないのだろうか。何十年と生きてこのように寂しいと思ったのは初めてだ」
「なんだ、そんなことですか。思い出はこれからも作れます。少しずつまた増やしていきましょう」
宰相は優しい表情のセレスティーヌに縋るように手を伸ばそうとした。
だがそれは途中で止まってしまう。
「今のワシには君が語るような愉快で魅力的な男になれるとは到底思えんよ。君の知る男とワシはきっと別人だ」
「安心なさってください旦那様」
途中で止まった手をセレスティーヌが強い力で掴んだ。
「この私が何度だって旦那様を恋に堕とし愛に溺れさせるわ。私が愛しているヒトですもの。旦那様はいつだって魅力的よ」
驚き瞬きを繰り返す宰相に美しい微笑みを浮かべると、そのまま手に軽いキスをしたセレスティーヌ。
ドスンと宰相が恋に落ちる音がした。
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「ぐぉぉぉ…ぐぉ…ぐ…はっ!?」
見回すといつもの自室だ。
外はまだどっぷり暗く深夜だ。
「ぅぅん…どうしました?」
隣で寝ていた妻のセレスティーヌが眠そうなセクシーボイスで尋ねてくる。
「起こしてごめんよ。何か夢を見ていたようだ」
「どんな、夢…でしたか?」
半分寝たままのセレスティーヌが可愛らしく口元が緩む。
「どうだったかな、忘れてしまった。怖かったような、楽しかったような…」
「ふふ…なに、それ」
「さぁもう一度寝よう。お休み愛するセレスティーヌ」
「お…すみ…さい」
健やかな寝息を立てるセレスティーヌの額にそっとキスを落とし、幸せに包まりながら宰相も目を瞑った。