『悪の華道を描きましょう』の絵描夫婦のその後
「先日は御苦労だったね」
自国の王太子の言葉に深く頭を下げる。
「彼の国の宰相殿から礼状が届いた。奥方であるセレスティーヌ殿もそなたの絵を大層気に入っている様子だそうだ。良くやってくれた。今回の依頼料に加え褒賞も出そう」
「あ、ありがとうございますっ…!」
声が上擦るのは思わぬ臨時収入の為ではなく、セレスティーヌが男の絵を気に入ったとの情報に歓喜したからだ。
「その…宰相殿とセレスティーヌ殿は息災であっただろうか?」
「はい、それはもう」
脳裏に浮かぶセレスティーヌの姿にうっとりと頷く。
「気落ちしていないのなら良かった。セレスティーヌ殿は美しかっただろ? 画家の観点から見てどうだったかな」
「理想の…モデルでございました」
本当に美しいヒトだった。
まさにミューズ。
画家としての人生を捧げるに相応しい。
自分は彼女を描くために画家に生まれたのだと断言出来る。
今この瞬間にもキャンバスに新たなセレスティーヌを描きたい。
彼女のことを考えるだけで大量のイマジネーションが次から次へと湧き出る。
早く次のセレスティーヌを生み出したくて仕方ない。
嗚呼、描きたい描きたい描きたい描きたい。
「それで、だな」
王太子が言いにくそうに咳払いを一つ。
早く言ってくれ。
こちらはキャンバスに咲くセレスティーヌに逢えなくて禁断症状が出そうなのだ。
「君は一度目にしたものは実物がなくとも忠実に描きあげると聞いたのだが…」
「はい、そうでございます」
「その、セレスティーヌ殿の絵を描いて…私に譲ってはくれないか?」
「…え?」
王太子が何を言っているのか理解出来ない。
「ご、誤解しないでくれ。私は別にセレスティーヌ殿の姿絵が欲しいとか思っているわけではなく、その、あの、美しい彼女が描かれた絵はさぞかし見応えがあろうと思ってだな。決して疚しい想いがある訳ではなく芸術的欲求というかなんというか」
黙り込む男に何を思ったのか、焦った様子で早口で捲したてる王太子。
「簡単なもので構わないんだ、言い値で買い取る。どうだろうか」
ようやく王太子の言葉に脳の理解が追いつく。
そしてあまりに馬鹿馬鹿しい要求に呆れ返った。
こいつは一体何を言っているのか。とんだうつけである。
男の大切なセレスティーヌを売れというのだからまったくもって腹立たしい。
セレスティーヌ本人に渡るならいざ知らず、何故王太子になど渡さなければならないのか。
しかも簡単なものでいいときた。
男のセレスティーヌに簡単なものなど存在しない。
どれもこれも魂を削り心血を注いでいる。
でないとあの華は表現しきれない。
男のセレスティーヌは全て余すことなく男のモノだ。
誰にも譲るものか。
「申し訳ございません王太子殿下。セレスティーヌ様の許可なく殿下に絵をお渡しすることは画家として出来かねます」
「そ…そうか…そうだよな、うん…分かった。おかしなことを言って悪かった。忘れてくれ」
肩を落とす王太子をよそに男は従者から大量の金を受け取ると、なかば逃げるようにして城を後にした。
家に帰ると出迎えてくれた妻に貰ってきた金を全て押し付け仕事部屋に急ぐ。
背後で妻の歓喜の声が聞こえるが男の注意がそれに向くことはない。
仕事部屋に入り鍵を掛け、絵に掛かった布を取り去るとようやく一息つけた。
「やぁただいまセレスティーヌ。今日は大変だったよ」
男が喋りかけているのは帰国してから今までかかって漸く描き上げたセレスティーヌの絵であった。
依頼で描いた絵とはまったく違うタッチで表現されたこのセレスティーヌは、観るものを惹きこませる美しさの中にほんのり滲む禍々しさがある。
己の全てを差し出し腹を晒し服従したくなるような妖艶な表情で微笑むセレスティーヌ。
「王太子がキミを金で買おうとしたんだ。なんて破廉恥で卑劣な男だろう。大丈夫。僕はキミを手放したりはしないから安心しておくれ」
自分の描いたセレスティーヌの唇をそっとなぞる。
「さぁ今日も二人で愛を語らおう」
男は来る日も来る日もセレスティーヌばかりを描き続けた。
純真無垢な天使のセレスティーヌ。
男を惑わす淫魔のセレスティーヌ。
全てを愛で包み込む聖母のセレスティーヌ。
男の頭の中のセレスティーヌは尽きることを知らず、描くたびに新たな発見がある。
時折仕事部屋の外から激しいノックの音と共に妻のがなり声が聴こえて来たが男の心には届かない。
ある時痺れを切らせた妻は男の仕事部屋へ扉をこじ開けて入ってきた。
部屋を見た妻は衝撃に震える。
一面、全てセレスティーヌだらけなのだから無理もない。
「あの小娘っ、貴方にまで手を出していたなんてっ!!」
大切なセレスティーヌとの時間を中断させられただけでも不快だというのに、訳の分からないことを喚き立てる妻に苛立ちが募る。
「様子がおかしいと思ったのよ。あの屋敷から戻ってきてから貴方ときたらっ! 部屋に篭りっきりで絵の依頼も受けないなんてっ! もうドレス一枚買うお金だってないのよっどうするのよっ!」
妻はドレスを嫌という程持っていた筈だ。
もう買う必要などないだろう。
以前は飾り立てる妻を微笑ましく思っていたが、今はまったく興味が持てない。
妻のドレスより男のセレスティーヌに何を着せるかの方が余程大切だ。
男のセレスティーヌは何を着せても美しいが、そういえば実物の彼女は何色のドレスを好むのだろう。
一目でいい。遠くからでも構わない。
もう一度本物の彼女を目に焼き付け、改めて彼女に似合う色を吟味したい。
「そうだ。キミのドレスや宝石をいくつか売ってくれないか?」
隣国の旅費くらいにはなる筈だ。
宰相夫人である彼女の姿を簡単に確認出来るとは思えないので長期間の滞在費も必要だ。
「なぁ頼むよ」
妻は顔を真っ赤にさせて今まで以上に怒り始めた。
何故そんなに怒っているのか分からずポカンとする男。
何か不味いことを言っただろうか。
男の反応を見た妻は更に怒って家から飛び出してしまった。
ようやく静かになった部屋でセレスティーヌと再び向かい合う。
やはり男のセレスティーヌはなによりも美しい。
気付くと妻は男の家に戻っていた。
しかしまた暫くすると何か喚いては出て行き、知らぬうちにまた帰ってくるという生活が続く。
妻は別の男と親密な関係になっては、その関係が終わりを迎えると男の元へ戻っているようだと人伝に聞いたがあまり興味はなかった。
寧ろ居ないほうが静かでいい。
いつものように妻が叫ぶ。
浮気者、やっぱり若い女のほうがいいのか、あんな淫売のどこがいいんだ。
毎回のように詰め寄られるが男は妻が何を言っているのか本気で理解出来なかった。
どうやら妻は男がどこかの女と浮気していると誤解しているようだが、それは有り得ない。
わざわざ他人から奪った妻である。
今更その妻を裏切って何になるというのか。
現実ではずっと妻に操を立てている。
過去にはもう戻れない。理想と現実がどんどん相違していこうとも、それも時間の流れが与える残酷な仕打ちだと諦めるべきだ。
キャンバスの中の華に魅了された男は現実にはもはや興味はない。
セレスティーヌさえ描ければそれで幸せだった。
何の問題もないだろうに、何が不満だというのか。
少し疑問に思ったが男にはそれさえもどうでも良かった。
妻は歳を重ねるごとに家出をしなくなった。
年老いた彼女を相手にする男が居なくなった為だろうと誰かが嘲笑う。
男の腹が鳴る。
この前援助してくれた実家の兄の金は底を尽きたので食料が買えない。
妻のドレスや宝石ももうとっくの昔に手放した。
妻が働く酒場の料理の余りを彼女が持って帰ってくれれば食べ物にありつけるのだが、まぁ食べなくとも問題ない。
男はキャンバスのなかの華と戯れられるのならばそれで満足なのだから。
end