第八十九幕
1850年(嘉永3年)10月9日、現代の暦では11月3日の夜に僕は直亮様に呼ばれて部屋を訪れた。直亮様は窓際から望遠鏡で夜空を見ていた。
「これはな貞治、国友一貫斎という鉄砲鍛冶が作った物だ。
長浜の鍛冶師は信長や秀吉の時代から鉄砲を作ってる。
戦がなくなったとはいえ内乱は起きるし開国を求める諸外国の来襲も近いだろう。私も知る限りの知識で改良の提案をしたりしてはみたがやはり素人だな、あまり相手にされた事がない。
そんな中で江戸でグリゴリー式と呼ばれる望遠鏡を見た一貫斎が作ったのがこれだ。現代にいた時も別に天体に興味があった訳じゃなかったけど、この時代も現代もあまり変わらないのは夜空だけだった。もう現代には帰れないのかも知れないが空を見るだけでもあの頃に戻れたような気がするんだ。」
「そのように考えた事はなかったですね。僕も見上げて見ようかなと思いました。」
「やめとけ、やめとけ。感傷に浸るだけで前向きじゃないぞ。」
直亮様は寂しそうに笑った。そして
「明日・・・死のうと思う。北庵先生には診察に来て貰ったときに倒れているという演技をして騒いでもらい、北庵先生が見つけた時には手遅れだったという事にしてもらう。
死体は棺桶に入れて佐和山に運んでもらう。既に私の周りの重臣には私が死んだらひっそりと佐和山の井伊神社に運び密葬してほしいと伝えてある。
神社の神主に棺桶を渡してあとは任せろとまで言った。
もちろん神主はグルだからそのまま私は身を隠させて貰うよ。
後の事は任せたぞ。」
「承知しました。」
僕は短く答えた後で
「今後はどうされるんですか?」
「愛する人と老後を共にするって言ったら笑うか?」
「それが本当の望みなら笑えるわけがありません。」
「じゃあ、笑えないな。」
直亮様は満面の笑みで答えた。そして
「若様に代わって直亮となり、藩主となって38年。
馬鹿なりに頑張ったが俺のした事に意味はあったのかな?
この先の未来がどうなるかはわからないが、ゆっくりと見学させて貰うよ。さっきも言ったが後の事は任せた。」
「はい。」
僕は深々と頭を下げた。この人と話すのもこれが最後だとなぜか思ったからこそ今までの苦労と努力に頭が上がる事はなかった。
翌10月10日の朝、彦根城内は北庵先生が起こした騒ぎでバタバタする事になるのであった。
僕も便乗して騒いだ事により、直亮様の死が疑われる事はなかった。直亮様の言葉通りに棺は井伊神社へと運ばれ神主さんの手により葬ったとの知らせが届いたのみで実際にどうなったのかは神主さんのみが知る事となった。
「さて、たか。どこへ行きたい?」
「私は亮吾様とならどこへでも参りますよ。」
そんな話をしながら彦根藩を出ていった二人がいたとかいないとか・・・。




