第八十八幕
「おや、貞治殿。」
直亮様に呼ばれて部屋に向かっている途中で声をかけられた。
振り返るとそこには三浦北庵医師が笑顔で立っていた。
「直亮様の所に行かれるのですか?」
「北庵先生もですか?」
「ええ、診察に来て欲しいと頼まれましてね。
重病で治しようがないですからね。」
「確かにあれは重病ですね。本人の気持ち次第ですから。」
僕が言った事に驚いたような顔の北庵先生は
「えっ、本人の気持ち次第とはどういう意味ですか?」
この反応的に僕が直亮様の仮病を知っている事は内緒にされているのだろうと思った。
「早く藩主を辞めたい病は簡単には治らないだろうなという意味ですよ。」
「ああ、貞治殿は知っているという事ですか。
私も味方が多い方が安心しますよ。」
そんな話をしていると直亮様の部屋が近づいてきた。声をかけようとしたら中から女性の声がした。
「それではこれで失礼致します。」
声の主が障子を開けて出てきた。村山たか殿だった。
直弼様が埋木舎におられた時に和歌を習いに来られていた女性だが、いつの頃からか見なくなっていた。たか殿も僕の事を見て軽く会釈をして部屋から出ていった。
「ああ、貞治に北庵先生。どうぞ中に入ってください。」
直亮様が呼び込み二人で部屋に入って座ると直亮様は明らかに病人には見えない血色の良い顔で
「さて二人には別々に頼んでいたが、そろそろ仕上げに入るので共有しておいて貰いたくて同時に呼んだ。
私の仮病と偽装死についてなのだが、もうそろそろ死のうかなと思ってる。」
「言ってる事がヤバイんですよ。あともう少し病人らしくしてください。」
「貞治、終日病人らしくしてたら逆に病気になるぞ?
病は気からだろ?」
北庵先生は目を丸くして僕らのやり取りを見ていた。いつも厳格で気難しい顔を表ではしている直亮様の砕けた様子が珍しかったのだろう。
「お二人はずいぶんと仲がよろしいのですね。
直弼様はご存じなのですか?」
「北庵先生、貞治には今回の件で大事な役目があり協力を頼みました。一人の直弼と仲の良い医師である北庵先生、そして直弼の側近である貞治の二人が私の死を主張してくれる事により、本当に死んだという事が印象付けられます。」
「なるほど、確かにそうですね。」
北庵先生は頷いた。僕が
「直弼様にはどの段階でご報告しますか?」
「貞治は報告しなくて良い。藩主が次代に変わる時に私に仕えてくれていた者達も引き続き彦根藩で働くのだから、その意味では私の重臣達が直弼の配下となるためにも最初に報告させておかなければいけない。その報告によって藩主が変わるという事を藩士にも自覚させる事ができるだろう。
順に直弼の腹心が藩政を行うようになるのは理想だが、いきなり腹心連中が藩政の中心に来たら藩が分裂するような事にも繋がりかねないから、ある程度は関係性を維持させる試みも必要だろう。」
「わかりました、僕からは伝えないでおきます。」
「江戸に漏れぬように藩士に広めて貰う分にはかまわないからな。とにかく二人が私の体調不良と死が近い事を広めてくれ。
二人の活躍で直弼が藩主になり私は藩主も井伊直亮も辞める事ができるのだからな。」
北庵は少し違和感のある言い方だなと思ったが、先ほど貞治が言ったいた『早く藩主を辞めたい病』という意味がわかった気がした。