第八十二幕
1847年三月になった。直弼が世継ぎの身分となってだいたい1年が過ぎた。
貞治が彦根に行ってからの半年の間も相州警護などの仕事や他にも色々とやってきた。
その中で目立ってきたのが直亮と家臣との間にも大小はあるが溝のようなものがあり、それが仕事をする中での障害となっている部分もあった。
どうにかしなければいけないと思っていた時に三浦十左衛門から書状が届いた。
上諫書と書かれた書状を見るにあまり良くない内容なのだろうと思う。
そもそも諫書とは、主君を諫めるために書かれたものである。
そもそもが言いにくい事を言わせてしまっているのがいけないのだが、藩主の直亮に送るでもなく自分に送られてきたのが自分への期待の表れなのかなと思ってしまった。
とりあえず書状を開けてみると
『しばらく直接はお会いできないので書状にて申し上げたい事がありこうして書状を送らせて頂きました。
直亮様の家老や側近には忠諫者がいない上に現在の直弼様の側近もこの悪い流れがあり忠諫者と言える人がいないように思います。そこで昔の賢者や良臣と呼ばれる人達の言行や自分の愚かな思慮に基づいて六項について今後のためにも戒めて頂きたいと思います。
第一に人君は諫めを受け入れる事。
第二に忠諫を用いて何事も家老らとの衆評を開いて行う事。
第三に臣下をかわいがり育て、万民を仁愛し、国家を安定させる事。
第四に井伊家は徳川家の先鋒の家として武備を厳重にする事。
第五に初代直政、二代目直孝以来の御家法を守る事。
第六に賞罰は厳重に行う事。
以上です。』
書状にはその他にも様々な事がつづられていたが、つまりは家臣の話を聞き、家臣と共に協力しながら反省を進めなければいけない事や家臣や民を大事にしなければいけない事、ご先祖が作った法を守りながら決まった賞罰はどんな相手であっても厳格に行わなければいけない事が書かれていた。
三浦がどんな人物であるかを知っている直弼としては長野主膳のように学問的な主張や特定の思想に基づいた主張ではない事を知っている。現状を考えての認識から来る問題点をついて来てくれているのだろう。書状の中では失礼があり怒りを買うような事があるならどのような罰も受ける覚悟があるとまで書かれていた。正直に言うと怒りは全く感じていないし、この書状により三浦を罰するつもりも起きなかったので、紙と筆を手に取り三浦に書状を書いた。
諫書の忠告に対する礼と三浦を罰するつもりはない事、そしてこれからも何かを感じた場合は遠慮なく言って欲しい旨もあわせて書き留めておいた。
信じていないわけではないが、本心から利害関係なしで信頼できる家臣は貞治だけなんだなと思ってしまったのも事実であった事から少しでもそのような存在を増やしていこうと思った。




