第八十幕
「若い藩士がかなり動いているようです。
この流れは放置してもよいのですかな?」
彦根城の一室で木俣守康は藩主である直亮に向かって聞いた。
直亮は笑顔で
「長野主膳なる者が尊皇派の考えなのは、むしろ彦根の未来にとって吉とでるはずだ。貞治にだけ全てを任せるのも酷な話だろ?
私も未来への布石…種というべきか、それをまいておかないといけない気がしてきてな。」
「幕府の滅亡と天皇中心の政治制度の確立ですか?
確かにそうなるなら京に近い我が藩は立場上危ないですからね。
幕府の中核を担い続けて来たわけですから、反幕府派からすれば敵の幹部ですからね。」
「私は浅学だからどうやってその時代を乗り越えたのかはわからないが、貞治が上手くやってくれると言いきれない。
貞治もその時を生きていないかもしれないからな。」
「貴方よりは器用で思慮も深いですから任せたい気持ちもわからなくはないですが、貴方も経験上わかっているはずですよね?
一人で抱えられる荷物などそう多くはない事も。」
「さらっと悪口を挟んでくるあたりが、私にはありがたいな。
友と呼べる人間も恩人と言える人も多くが亡くなられてしまった。少しでも長生きして私にあれこれ言って欲しいものだ。」
「貴方の希望に沿える自信はありませんな。
老い先が短いから後を気にしない部分もありますし、何より私もこの時代としては長生きな方ですからね。」
「そんな老い先の短いという守康殿に率直な意見が欲しい。
私のやり方は間違っていたかな?」
「貴方は遠い未来から来て、身動きもまともにできずに死を待つだけだった若の心を助けてくれた。
若の身代わりとなり藩主となって彦根を大きく変えてくれた。
確かに理解されない思想により反発する者も多かったし、自分から反発されるような行動も多くしてきた。
だが、貴方は若の願いを背負い教科書とやらでしか見た事がない井伊直弼の不幸の死を変えるためにも行動してくれた。
例え未来が変わらなかったとしても貴方のその優しさがきっと何かを変えてくれると私は思います。
貴方の事を暴君と呼ぶ人間がいようとも私は…貞治殿もかと思いますが、きっと貴方を非難したりしないでしょう。
私から見た貴方は細い糸を懸命にたぐりながら前に必死に進もうとしていた尊敬できる人間です。
私が藩主として仕えたのは直中様でもなく若でもなく直亮様ですから。」
「ありがとう、守康殿にそう言って貰えて嬉しいです。」
「早く隠居してあの方とひっそり暮らせば良いのでは?
我々は貴方の幸せを多く犠牲にしてしまった。
友もそうですが愛する人との時間も奪ってしまった。
今さらですが私は貴方の幸せも願っております。」
「ありがとう。」
直亮は込み上げる色々な感情の中で短く答えた。
直亮と守康のこの会話の数日後、木俣守康は満足げな笑顔を残してこの世を去ったのであった。